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生家跡から淡水河を望む(2009年3月12日撮影) |
私は、父の赴任先であった台湾で生まれた。
台北市街地から20キロほど西に流れた淡水河が台湾海峡に注ぐ淡水に住んでいた。
淡水は、嘗て港があったところで、当時も河岸には税関があり、その近くに木村という日本人の水先人も住んでいた。
淡水河は大きな河で、明・清のころはジャンクが台北の西門のあたりまで溯っていたそうで、今でも当時の商家には蔵屋敷が残っている。
しかし、河口には長い年月で土砂が堆積し、大きな中洲が出来ていた。中洲ではヒルギのような植物の種子が流されてしまうのかあまり茂みはなく、シオマネキや、ムツゴロウのようなハゼ科の小魚の世界であった。陸岸にはマングローブが生い茂っていた。
私が初めて舟に乗ったのは、潮干狩りで現地に住む日本人数家族が中洲に渡ったサンパンであったと思う。
住まいのすぐ傍にレンが造りの英国領事館があった。幼い頃の私は生け垣をトトロのようにすり抜けてよく遊びに行っていた。
近海郵船や大阪商船が台湾航路を運航し、門司を中継港にして神戸と基隆を結んでいた。両社あわせると隔日のような運航であったという。しかし、渡航に時間ががかることと、乗り物酔いに弱い人には辛かったことであろう。
第一次大戦が終わってドイツ領であった南洋諸島のうち、赤道以北を日本が信託統治することになったが、ここは遙かに遠く、船で連絡するのは大変であった。
当時、民間航空機はまだ揺籃期で、1920年代のベストセラーであった全金属のユンカースF13でも乗客定員は4名で、体重によっては3人に制限されていたという。
長距離飛行は飛行船の独壇場になるかと思われたが、1937年の「ヒンデンブルク」の事故で飛行船の時代は長く続かなかった。
陸上機で定評のあったのは1932年に初飛行した乗客定員15名のユンカースJu52/3mで軍用機を含めると5千機近く生産された。
傑作飛行艇ドルニエ「ヴァル」は、ツェッペリン・ヴェルケ・リンダウ社で1922年に初飛行している
その後、パン・アメリカン航空が提示した仕様に基づいてマーチンM130、シコルスキーS42などが登場して、長距離飛行は飛行艇の時代の時代になった。
海洋国日本では1934(昭和9)年、川西航空機株式会社に大型飛行艇の試作を命じた。後に97式として正式採用され、4発の大型にもかかわらず各型併せて200艇以上生産された。
大日本航空の海洋部が、1939年に川西飛行艇を用いて南洋諸島への定期便運航に乗り出した。第1便として同社は1940年3月6日に川西4発飛行艇「局八号」を、サイパン・パラオとの定期航空第1便として横浜から発進させた。
次いで同年10月22日には川西大艇「綾波」により、パラオからポルトガル領チモール島への第1回調査飛行を行い、11月22日から27日にかけて、同じ「綾波」でパラオ・淡水間空路開拓のため、横浜-サイパン-パラオ-淡水-横浜(9237km)を飛行時間37時間12分で飛行したという記録が残っている。
淡水の停泊地は市街地の西端、ちょうど英国領事館の前あたりである。
私の住んでいたところは河岸からちょっと坂を上ったところで、領事館とほぼ同じ高さである。
そこから飛来した飛行艇が繋留されているがよく見えた。
見下ろしたところに郵便局があり、その裏にガジュマルの樹があった。内地とシンガポールあたりを連絡していた海軍の飛行艇が中継点にしていたのである。
海軍艇であるから97式飛行艇、あるいは97式輸送飛行艇であるが、平時のことであり、明るいグレイ塗装に日の丸が鮮やかで、識別符字を見なければ軍用なのか民間航空なのか判らず、大人達も「川西」とか「飛行艇」とか言っていたようである。
その飛行艇にはドルニエ「ヴァル」やボーイング314のような着水用のスポンソンは付いておらず、主艇体と翼端の小浮舟で浮いているので静止状態では左右どちらかに傾いていた。そして、ウェーキを曳きながら水面を滑走し、郵便局の裏に繋留されていた。
飛行艇はときどき飛来していたのであるが、淡水河には小型水上機が数機常駐していた。単発複葉複座単浮舟の零式水上観測機であった。1972年発行の「航空情報別冊日本海軍機(酣燈社刊)」に掲載されている当時の海軍航空部隊一覧を見てもよく判らない。254空、953空、954空を統合して1943年暮れに新編された901航空隊かもしれない。1機が着水時に転覆して郵便局の裏で引き上げられるのを見たことがある。当時はその基地が何処にあるのか知るよしもなかったが、2009年に現地の観光案内所で貰ったガイドマップには淡水站から2、3百メートルのマングローブの中に「淡水水上機場」と古跡のマークが印刷されている。きっと当時の淡水街長や台湾銀行支店長の旧居のように残されているのであろう。
サンパンより大きなフネに乗ったのは基隆から鹿児島に引き上げたときに乗った海防艦34号であった。
それからしばらくして広島に来た。
広島からは瀬戸内の島々を結ぶ連絡船のほか、呉、松山、今治などに定期便が出ている。
以前は別府航路、それに5千トン級のグリンフェリーが大阪南港との間を往復していたし、その後短期間ではあったが釜山連絡フェリーも運航されていた。
韓国に行く船には乗る機会がなかったが、広島の宇品港から出る船にはよく乗ったものである。
国鉄連絡船にもよく乗った。関門、大島、宮島、仁堀、宇高の連絡船などである。
初めての海外渡航は、1971年に瀬戸内海からアフリカ西岸のアンゴラまで往復2ヶ月の船旅であった。
その後24年過ぎて、引き揚げからおよそ半世紀ぶりにクルーズで台湾に行った。横浜で乗船して、大阪・屋久島・沖縄に寄港して帰国のときに乗船した基隆港に入港した。
1997年には、サンフランシスコからロサンゼルスに寄港して、アカプルコまでメキシカンリビエラクルーズであった。
1998年には初めてイギリスを訪問した。このときは関空からヒースローに飛んで、1ヶ月イングランドで過ごした。
翌年には英国諸島一周のクルーズに乗船した。ロンドンのティルベリーを出港し、シェットランド諸島、エジンバラ、セント・アンドリュース、インバーゴードン、リバプールに寄港してアイルランドのダブリン、ウォーターフォード、英仏海峡のグァンジー島に上陸したあと、セーヌ川をルーアンまで上った。
2001年にはP&Oの新造船オーロラ初のワールドクルーズで、横浜から上海、香港を経てシンガポールまで乗船した。
その翌年には、関空からインドネシアのバリ島に行った。
2003年に初めてクィーン・エリザベス2に乗り、香港からベトナム経由シンガポールまで行った。
2004年はシンガポールからペナン、プーケットの短いクルーズに乗った。
2005年には再度クィーン・エリザベス2でフィリピンのスービックから長崎に寄港して大阪までのクルーズに乗船した。これが同船の乗り納めとなったが、最近のクルーズ船とは違う良い船であった。
2006年にはクリスタル・シンフォニーに乗ることになった。ピレウスからギリシャの島々を巡り、トルコにも上陸してヴェニスまでのクルーズであった。
2007年には関空からドバイ経由スイスまで飛び、フリードリッヒスハーフェンでツェッペリンNTに乗船し、コンスタンツ、シュトットガルトを見て関空まで戻った。
ここでは、総トン数3万トン級以上の航洋船舶に乗った経験から幾つかを思い出して書いてみようと思う。