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1971年に瀬戸内海の港から大型船で喜望峰をまわってアフリカ西岸まで行ったことがある。10万トン級の船であったが、一ヶ月無寄港の船旅は長かった。
その船は大手海運会社の新造大型専用船であった。その船でインド洋を通り、喜望峰をまわってアフリカ西岸のアンゴラまで行ったのである。アフリカに行くので黄熱病の予防注射を受ける必要があり、羽田空港の検疫所まで行って接種を受けなければならなかった。1964年に開通した東海道新幹線は東京・大阪間しか営業運転していなかったので、寝台特急で上京し、千鳥ヶ淵にあったフェアモント・ホテルで一泊して帰った記憶がある。
8月11日に瀬戸内海のF港を出航し、その日の正午位置は小豆島の大角鼻南東の播磨灘であった。瀬戸内海は操業している漁船も多く、玉野と高松を結ぶ備讃瀬戸は国鉄連絡船をはじめ大小の連絡船も運航しており、大型船は微速で注意しながら進むのである。播磨灘を通り、明石海峡を抜けて大阪湾に入り友ヶ島水道を通って紀伊水道に出た。太平洋に出ると海の色が青い。インクのようで手をつけると染まるのではないかと思うくらいである。そこから室戸岬をかすめて南西に航行し、12日の正午位置は種子島の東であった。
部屋はDデッキで、ブリッジのすぐ下の右舷側である。360度、海と空しか見えない航海は実に爽快であった。南西諸島のそばを通っているときはトビウオをよく見かけた。船首楼のチーフオフィサーズプラットホームから見ていると翡翠色の胸鰭を広げて船首波の谷を飛ぶのが見える。どのくらい飛ぶのかと腕時計で計ると60秒以上飛ぶのもいた。巨大な怪魚が進んでくると思い、それから逃れるために水面から飛び上がるらしい。
居住区の後部では、機関長が朝から紐を付けたゴルフボールをひっぱたいている。ときどきポストに掛かると引っ張ってたぐり寄せる。取れないときは登って外してくる。良い運動である。この船で機関長が一番日焼けしている。
昼過ぎ、部屋で本を読んでいると電話が掛かってくることがあった。出ると「船長がお呼びです」と言う。船長は、船上で唯一絶対の存在で、警察権も司法権も持っているので逆らうわけに行かない。「はい」と言ってラウンジに行くと「やあ、始めようと思ったのだが一人足りなくてね」という。麻雀である。その船では非番の乗組員が午後麻雀をすることは禁じられていなかった。振動で崩れそうになると牌の山に水を掛けていた。碁も振動で石が動くので濡れ雑巾を用意していたらしい。
13日の正午位置は沖縄本島と宮古島の中間であった。それまでムッとするようであった湿度が下がり、暴露甲板はデッキシューズで歩いても熱いが、日影にはいると風は爽やかで日本内地の暑さは温度よりも湿度なのだと実感した。
船では航海士も機関士も当直があるので、食事時間のキャプテンズテーブルは各部の長ばかりである。船長、機関長、局長、それに船長資格を持っている一等航海士がテーブルメートである。一等機関士、二等航海士、次席通信士などは別のテーブルで、自分で給仕して食べているのに、我々のテーブルは父親くらいの年齢の司厨長が給仕してくれるのである。茶碗の飯が減るころ、後からスッと盆が差し出される。1~2日ほどは内心申し訳ないと思っていたが3日くらいから当たり前になってしまった。
さすがにキャプテンは「今日は海が穏やかで良かったですね」とか「飛び魚、見ましたか?このあたりは多いのですよ。デッキに飛び込んでくるのもいます」と適当に話を振ってくれる。航行中の船舶では免税なので、ビールはジュースやサイダーよりずっと安く、ウィスキーもスコッチである。飲み物は司厨長からカートンで買っておき、名前を書いて冷蔵庫に入れておく。
14日の正午位置は台湾とフィリピンの間のバシー海峡で、ここを過ぎて南シナ海に入る頃、甲板は焼けて熱くて歩けなくなった。生卵を落とすと卵焼きが出来る。15日はルソン島西の南シナ海、16日はベトナムに近づき、午後南沙諸島を過ぎる。17日はホーチミン市(旧サイゴン)沖、18日の午後にはシンガポールの島影が見えてきた。
シンガポールはマレー半島の先端にある島で、戦前は英国の植民地であった。マレー半島との間にはジョホールバル水道があり、そこにセレター軍港があった。日本との戦争が避けられない状況になり、シンガポールに戦艦「キングジョージ5世」と巡洋戦艦レパルスが配備され、セレターを基地にしていた。シンガポールの市街地は水道と反対の海側にある。8月18日の夕方その前を通過した。海岸線を走る自動車はヘッドライトを点け、街の建物にも明かりが灯り始めていた。
マラッカ海峡に入ると航行船舶が多くなった。ブリッジでは当直航海士とクォーターマスターが真剣な面持ちで周囲を警戒している。レーダースクリーンで見ると異常な密度である。東航する船は日本向けに原油、鉄鉱石、穀物その他を積んでいるので喫水が深い。マラッカ海峡で夜が明け、昼にはペナン島沖を走っていた。
海峡を一日あまりで通過して、いよいよインド洋に入る。大きな地図帳を持ち込んで、毎日正午位置を描き込んでいたが、インド洋に入ると海ばかりで陸地がなくプロットするページがなくなった。やむなくマダガスカルや喜望峰が近づくまで1億分の1の地図にマークしていたが、いま見ると10個のクロスマークが残っている。
以前は、外航船舶の無線局は24時間体制で、直接電波の届かない船舶同士、あるいは基地局とのメッセージをリレーして届けていたが、当時は人工衛星による無線の中継が可能となり、局長と次席通信士が昼間だけワッチすることになっていた。東経80度くらいまで、電報は日本に届くが、インド洋でセイロンより西に行くと届かなかった。無線通信といえば、ファクシミリによる新聞が届くので、プロ野球や大相撲を楽しみにしている人もいた。当時7年以上続いていた佐藤栄作首相の後任も話題になっていた。好々爺の局長さんが「三角大福と言うらしい」と言っていた。候補として取りざたされていた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の各氏は、のちにそれぞれ首相を務めることになった。
インド洋に入ると毎日うねりが続いた。天気の良い日でも結構揺れた。そのうち食事の時間に、ある機関士が職員食堂に出てこなくなった。船酔いである。おそらく当直もまともに務めていないのであろう。さすがに航海士は船酔いなどしないかと思ったが、酔う人も居るようである。船酔いに悩みながら定年まで乗船していた人も居るという。天候はそれほど悪くなくても遮るもののない大海原に常時偏西風が吹いているのでうねりが成長し、長さは100m、200mとなり波高は数mになる。長さ200mを越える大型船が玩具のようにいつも横揺れしていた。
何日目であったか、自分のキャビンに戻ってドアを開けて驚いた。テーブルが4本足を上にしてひっくり返っていた。船のタンスやデスクの引き出しは、揺れて飛び出さないようにストッパーがついているが、高い位置に造り付けられている戸棚の蓋が開いて、納めてあったファイルや書籍が部屋中に散乱している。椅子も転けておりデスク上のものがすべて床にぶちまけられていた。このひどい横揺れは2日くらい続いたと思う。ブリッジには振り子式の横揺れ指示器があった。振り子が両端のストッパーに当たるのである。覚えていないが両端はおそらく35度か40度程度であったと思う。この大型船がそれほど傾いたわけではないと思う。振り子の固有周期と揺れの周期が近いので共振して増幅したのではないかと思っている。周期は10秒程度であった。横の窓を見ていると、いつもは空しか見えなかった窓に海面が昇ってくるのである。当直航海士も「次はストッパーに当たるぞ」とか言っている。さすがにそんなときは碁を打つものも麻雀をするものもいなかった。海は広いので行き合う船もいない。とにかく往航のインド洋の横揺れはひどかった。
インド洋に出て一週間目くらいに久しぶりに島影が見えた。モーリシャス島である。遠くて街も港も見えなかったが、日の傾き始めた頃に見た島は美しかった。ここまで来れば、あと2日程度でマダガスカルの南に届くはずである。やっと南回帰線に近づいた。喜望峰は南緯34度近くであるから南北をひっくり返すと瀬戸内海とほぼ同じであり、8月末だから日本の冬のようなものである。それから何日か後に氷の欠片や海獣を見たような気がする。こうして9月2日にアグラス岬、喜望峰をまわって大西洋に出た。日本を出港して3週間が過ぎていた。
毎日海を眺めていると海水の色が微妙に変わる。日本近海は濃紺であった。南シナ海、インド洋、大西洋と行くに従って緑がかって見える。船首に打ち込む水塊を日本語では青波というが、英語では green sea という。日本の潜水艦は真っ黒に塗っているが、ナチのUボートは明るい灰色塗装であった。そのほうが上空から見えにくいらしい。
大洋を航行している船では夜も良い。南天に見える南十字星は神秘的である。ブリッジ当直のために前面の窓は明かりが漏れないようにしている。露天甲板に出てしばらく眼を慣らすと、空にはこんなに星があったのかと思うほど満天の星が煌めいていた。地上では夜空が明るいので銀河を見たことのない人が多いようであるが夜の海上では実に良く見える。
海の朝も良い。日の出前にブリッジに上がると「おはようございます」と言ってクォーターマスターがコーヒーを入れてくれる。太陽が海面に昇る少し前から海と空の色が変わって行き、やがて大きな太陽が水平線に顔を出す。
航海士はときどき六分儀で天測を行い海図に記入する。海図と言っても陸はないので枠だけである。ログブックで当直の申し継ぎを行うが、風浪やうねりの目視観測には個人差が大きいことも判った。
瀬戸内海を出て26日目の9月5日の22時過ぎに目的港の沖合に投錨した。翌朝は穏やかな晴天であった。早朝、縄ばしごを昇って港湾当局の役人やパイロットが乗船してきた。ブリッジに上がるとパイロットが「モーニング、サー」とにこやかに挨拶してきた。久しぶりに主機の振動もなく熟睡して良い気分である。本船の接岸を助勢してくれたタグボートが回頭したとき、後甲板でクルーが手を振ってくれた。午前7時過ぎに接岸した。目の前には砂漠が広がり、放牧している家畜の群れが見える。海岸線にはモクマオウのような並木の一本道が果てしなく続いている。近くには現地人の漁村がある。とうとうアフリカ大陸に来たのである。
航海中には乗組員の懇親と健康管理のために船上運動会も開催された。上陸前には乗組員が散髪していたので、ついでに髪を切って貰ってサッパリした。時折、グループの酒宴にも呼ばれて参加したし、一度はキャプテンに招待されたこともある。外航船の船長室にはデイルームと寝室がある。寝室はキャプテンの個室であるが、デイルームは公室である。10人程度のパーティが出来るテーブルがあり、それに見合う厨房もある。寄港地で世話になった人を招いて接待することもあるからである。
船の旅は生活の場であり、時の流れも自然である。針路によっては毎日のように就寝前に時差の補正をする。太平洋を東に進めば同じ日を2度経験するし、西航では一日飛ばしてしまう。ジェット機では経度によって時差補正などする暇もない。
このとき得難い経験が出来たことをいまでも喜んでいる