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快適な航海をめざして

まえがき

 "Voyage"という英語に相当する適切な日本語は何であろうか?ジーニアス英和大辞典を引くと「(通例長い)船旅、航海:長い陸の旅」、「(通例長い)空[宇宙]の旅」、「航海[旅行]記」、「人生航路、旅路」、「野心的計画」とある。
"Voyage"はドイツ語では"Reise"という。独和大辞典を引くと「旅、旅行、長い行程、旅路」、「軍旅、征旅、軍役」となっている。クラウン独和辞典でも「旅、旅行」、となり、船旅、航海というニュアンスが希薄になる。これはイギリスが島国で長い旅は船旅になるのに、ドイツは大陸にあり陸路となるからであろう。

 航空機が実用化されるまで、長い旅は船旅であった。
飛行機が北大西洋を単独無着陸で渡ったのは1927年5月のことである。5月20日にニューヨークを飛び立ち、33時間39分の飛行ののちパリのルブールジェ空港に着陸した無名の郵便飛行士チャールズ A.リンドバーグは一躍世界の英雄になり、アメリカからは彼を迎えるために巡洋艦メンフィスが派遣された。

 飛行機による初めての世界一周飛行は1924年4月から8月にかけて実施された。アメリカ陸軍のフレデリック・L・マーチン少佐が、世界一周を目指して7名の仲間と共にダグラスDT-2複葉機改造のワールド・クルーザー水陸交替機4機でカリフォルニア州サンタモニカを出発したが、アラスカで乗機を失って帰国し、その後2番機の機長スミス中尉が指揮していたが、もう一機も北大西洋で放棄し、176日後に2機のみ帰着したのである。人命を失うことからはかろうじて免れたがとても、旅客を乗せて運航できる状況ではなかった。

 飛行船はというと、第一次大戦の戦時賠償として新造された「LZ126:ZRⅢ」が1924年8月にフリードリッヒスハーフェンで初飛行している。エッケナー博士が指揮を執ってニュージャージー州レークハーストまで81時間で航行し、そこで浮揚ガスを水素からヘリウムに充填し直されて、ロサンゼルスと命名されてアメリカ海軍に引き渡された。海軍の飛行船であるが、ドイツでは軍用飛行船の建造が禁止されていたので旅客用飛行船として建造されたのである。

 そして、リンドバーグが大西洋横断飛行を実施する数ヶ月前に「LZ127」の建造が始まり1928年7月8日、フェルディナンド・ツェッペリン伯爵の生誕90周年記念日に、その娘であるヘラ・ブランデンシュタイン=ツェッペリン伯爵夫人によって「グラーフ・ツェッペリン」と命名された。
1929年の夏、「グラーフ・ツェッペリン」は20名の乗客を乗せて、世界一周飛行を敢行した。この飛行には、アメリカのハースト新聞から独占報道権の見返りに15万ドルを支払うという申し入れがあり、イギリスを除くヨーロッパを独占権から除外するということで、その金額は10万ドルに減額されていた。ハースト新聞社主ランドルフ・ハーストからは、この世界一周飛行に条件がつけられた。起点・終点をニューヨーク郊外のレークハーストにすることであった。グラーフ・ツェッペリンは1929年8月1日に、南独ボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェンを離陸して大西洋を渡ってレークハーストに向かい、8月8日に大西洋を渡って東回りに世界一周の壮途に出発した。

 その2,3週間前、ヴェザー川が北海に注ぐブレーメルハーフェンでは新造航洋客船「ブレーメン」がニューヨークに向けて処女航海に出航した。1929年7月16日火曜日のことである。
ツィーゲンバウム船長が指揮を執る、総トン数5万トンのスーパーライナーは従来の大西洋航路の客船を一気に旧式化させる斬新なデザインであった。
北大西洋を横断する定期客船は速度を競い合っており、その横断速度記録を保持する船舶はブルーリボンホルダーと呼ばれていたが、ドイツの2大海運会社、ハンブルク・アメリカ・ライン(HAPAG)の「ドイッチュラント」も、北ドイツ・ロイド(NDL/NGL)の「カイザー・ヴィルヘルム2世」も、それらからブルーリボンをイギリスに奪い返したキュナードの「ルシタニア」も「モレタニア」も高い4本煙突で、その高出力を誇示していた。
ところが「ブレーメン」では低く太い2本の煙突がそのシルエットを特徴付けていた。そればかりではない。従来船体上部構造の前面は垂直な平面壁と決まっていたが、「ブレーメン」では全通のBデッキの上に当たるAデッキ、その上のメイン・プロムナードデッキ、アッパー・プロムナードデッキの3層の前面が船幅一杯に優雅な曲面で構成されていた。その上、水面下の船体形状には造波抵抗を低減させるために船首を球状に膨らませたバルバスバウが採用されていた。第二次世界大戦開戦後に竣工した戦艦「大和」「武蔵」の水面下船首の膨らみである。

 実は「ブレーメン」には姉妹船がいた。ブローム・ウント・フォス社のハンブルク造船所で建造された「オイローパ」である。この2隻の基本設計は、造船技術者だけでなくバウハウスに代表される全ドイツの技術の総力をあげて取り組み、主任設計者シュヒティング博士によってまとめられたものであった。詳細設計は造船所に任せられたので、主要寸法や総トン数の数値は異なるが、長さ270m、幅31m、総トン数約5万トンである。
1928年8月15日に、ブローム・ウント・フォス社のハンブルク造船所の479番船は駐独米大使ヤコブ・グールド・シュアマンにより「オイローパ」と命名され進水した。翌日にブレーメンのヴェザー造船所872番船は進水式でヒンデンブルク大統領により「ブレーメン」と命名された。普通、船台からの進水は大潮の満潮の時間に行われる。この両船のように一日違いで進水式が計画されるのは異例である。船主、北ドイツロイドの首脳がブレーメンとハンブルクに同時に列席できないために計画されたものである。それだけではない。処女航海も2隻同時に行う手筈で工事が進められたのである。しかし、これは実現出来なかった。艤装岩壁で仕上げを急いでいた「オイローパ」で火災が生じ、竣工が大幅に遅れてしまったのである。
「ブレーメン」と「オイローパ」の推進性能を向上させたバルバスバウは水面下なので見えなかったが、外見上顕著な構造物は2本の太い煙突の間の長大なカタパルトであった。「ブレーメン」には、ハインケル社で開発したK2型カタパルトが、遅れて完成した「オイローパ」には改良されたK3型が中心線上に装備されていた。郵便物の輸送は重要な業務であり、この2隻のスーパーライナーは本船が目的港に到着する前に郵便物を届けるために水上機を搭載していたのである。
「ブレーメン」は、その処女航海で20年間にわたってブルーリボンを保持していたキュナード社の「モレタニア」から奪還した。ニューヨーク・ブルックリンに入港する18時間前にハインケルHe12型水上機を発進させて1時間半飛行の後ハドソン川に着水した。機長はルフトハンザのヨブスト・フォン・シュトルデニッツであった。

 郵便といえば、ルフトハンザは1933年に、アフリカとブラジルの間の南大西洋に汽船「ヴェストファーレン」を錨泊させ、これを中継点としてヨーロッパと南米を結ぶ航空郵便ルートを試行し、翌年から運航している。当時は名機と謳われたドルニエ製飛行艇ヴァルをしても大西洋を横断するには航続距離が不足していたのである。

 1911年にツェッペリン飛行船製造社に入社したクラウディウス・ドルニエが設計を担当したのは飛行船ではなく、飛行艇であった。1914年にツェッペリン・ヴェルケ・リンダウ社として独立し、各種飛行艇を開発していたが、第一次大戦に敗れてドイツ国内で飛行機の製造が禁じられた。1922年11月に原型機が飛んだDoJヴァルは傑作艇で、1936年までにイタリア、スペイン、オランダ、日本、後にはドイツでも製造され、その総数は300艇に達し、地中海など世界各地で活躍した。

 ドルニエの飛行艇と言えば、大西洋横断するために開発されたDoXについて触れないわけには行かない。DoXの設計は1924年に開始され、1926年末に完了した。製作開始は1927年12月で1929年の夏に完成しているので製作期間は飛行船LZ127:グラーフ・ツェッペリンの建造と重なっている。1929年10月の試験飛行では169名を乗せて飛ぶという世界記録を樹立しているが、169名の内訳は乗員10名、乗客150名、密航者9名であった。

 1930年11月に、フリードリヒ・クリスチャンセンが機長となって製造地であるスイスのアルテンハインを離水して大西洋横断飛行に出発したが、途中でいろいろなトラブルに遭遇し、目的地のニューヨークに到着したのは1931年8月末であった(出発前年に飛行船グラーフ・ツェッペリンは20名の乗客を乗せて、21日あまりで世界一周飛行に成功している)。

 世界中に植民地を持つイギリスは、1934年に通常料金で大英帝国内にエアメールを届けるためエンパイア・エアメール計画を発動し、ショート・ブラザーズ社がこれに応じて開発した飛行艇がショート・エンパイア(社内呼称:S23)であった。主任設計者のアーサー・グージはこのために後日サーの称号を許されることになる。仕様書しかなかった段階で28機もの発注を受けたショート社は驚いたことであろう。初号艇「キャノパス」の進空は1936年7月であった。キャノパス、キャバリア、カリブなど「C」で始まる固有艇名をつけていたことからCクラスボートと呼ばれていた。

 このショート・エンパイアは1.5トンの郵便物と22名の乗客を乗せ、狭いながら艇内にプロムナードやサロンが設けられていた。長い航路では夕刻寄港地に着水し、乗客は上陸してホテルに止まり食事を済ませてから、そのボートに乗り込んで旅を続けた。まさに Voyage であった。

 この少し前、アメリカのパン・アメリカン航空では太平洋航路向けに大型飛行艇の要求仕様をメーカーに提示し、マーチンはM130、シコルスキーはS40を拡大したS42を開発し、1934/5年頃から本格的飛行艇の時代が始まった。パン・アメリカンではこれら大型飛行艇を「クリッパー」と呼び、飛行艇の時代が来た。ただ当時、寄港地にホテルの建設が間に合わなかったので、夜は泊地に着水してベッドメーキングをした艇内で睡眠をとった。

 このように、当時の飛行船や飛行艇は大洋横断客船と同様のサービスを念頭に、開発され運航されていた。搭乗員の制服や配員も定期客船に準じて制定され、区画や装備の名称も船舶に倣っていたのである。

 冒頭で、Voyage という言葉について触れたのは、これら長距離航路で競合した汽船、飛行船、飛行艇を比較検討し、経済性を追求するあまり今日の状況になった状況を振り返り、これからどうあるべきか、何を目指すべきか検討する参考にしようと思ったからである。
今日、長距離の旅行にはジェット旅客機が使われている。世界中に航空網が張りめぐらされて何処にでも行けるようになった。しかし、あの狭い座席に10時間以上縛り付けられてヨーロッパに行くことを考えると憂鬱になる。ファーストクラスならいざ知らず、エコノミー席では血行が悪くなって亡くなった人が出て、エコノミー症候群という言葉も出来た。家畜でも鮮魚でも活きたまま送ることが出来るようになっているのにどう考えてもおかしい。エコノミークラスという座席はジェット旅客機が搭乗した翌年の1958年に新設されたものである。
資本主義というのは大量生産で製品の単価を下げ、その大量に生産した製品を何処かに売りつけて利潤を追求する経済活動である。産業革命の結果、その製品を押しつける市場と失業者を送り込むために各国は植民地の獲得に躍起となった。海運でも航空事業でも同様に生き残るために旅客定員を増やし、搭乗率を上げてライバル会社を潰してきた。その結果、運賃を下げ顧客層の拡大に寄与したが、旅客機は人間を生きたまま運ぶ手段になった。

各地にエアラインが開設された頃の客室はゆったりとしており昼間はラウンジで、夜間は座席が寝台になり眠れたものである。
1958年には、エコノミークラスが新たに設けられ、航空機で北大西洋を渡航者する人の数が客船で渡航した人を上まわった年でもあった。それから急速に客船の利用者は減り、「ノルマンディ」や「クィーン・メリー」のような大型客船は建造されなくなると誰もが思った。
フランスは1962年に国の威信をかけて6万総トン級の「フランス」を竣工させたが1974年に政府が運航補助を打ち切ると採算が取れずノルウェーに売船されてクルーズ船「ノルウェー」となった。
イギリスのキュナードは8万総トン級の「クィーン・メリー」、「クィーン・エリザベス」を繋船し、1969年に一回り小型の「クィーン・エリザベス2」を就航させたが燃料代が嵩み、タービン機関をディーゼル・エレクトリックに換装し、大西洋横断航路とクルーズで運航していたが、2008年ドバイに売船され、トレードマークであった煙突も陸揚げして現地でホテルシップに改装中である。
1970年代にテッド・アリソンとクヌート・クロスターが、現代クルーズ産業を立ち上げた。カーニバル・クルーズと、いまはスタークルーズの傘下になったノルウェージアン・クルーズである。
そして10万総トン、15万総トンを越えるクルーズ船が続々と建造されてきたが、2009年秋にはロイヤル・カリビアン・インターナショナルの22万総トンのクルーズ船もデビューする。
現代のクルーズ船は、大型客船は政府の運航補助金をあてにすることなく運航できるようになった。 しかし、クルーズは、我々がイメージする航海とは全く異なる。大洋を航行することを楽しみとすると言うより、船内で行われるイベントやカジノ、ディナーやダンスなどを楽しむフローティングエンターテイメントである。
特に日本人のクルーズ客は添乗員に「おんぶにだっこ」状態で、食事をする場所もメニューも、食後のショウなどのイベントもすべてお任せで、寄港地についても下船もしないで添乗員に付きっきりで面倒を見て貰うことがクルーズだと考えている人が意外に多い。
これは航海でも "Voyage" でもない。

あまり、よく知られていないが現在でも乗ろうと思えば外航船で船旅をすることが出来る。
世界のコンテナターミナルを結んでいるコンテナ船には数名程度の乗船客に対応出来るようになっており、年に3千人以上の人が貨物船で船旅を楽しんでいる。

航海とは何か、高齢者やハンディキャップを持つ人達も快適に参加できる航海を実現するためにはどうあるべきか、それを20世紀半ばに開発し、運航した先人の業績を参照しながら考えてみようと思っている。

我が国でも船舶や航海に関する書籍は数多く出版されている。
しかしながら、海運業に携わっていた人や乗組員の見地からのものが多く、最近見かけるようになったクルーズ体験記などを除くと乗客としての立場や見方からの書は殆どない。
最近、船舶でもバリアフリーが叫ばれるようになり、クルーズ船ではシュートでそのまま救命艇に乗り込めるような高価なキャビンもあり、内海のフェリーボートにも階段を上がらずに済む自動車甲板に車椅子で乗り入れられる区画が設けられるようになったが、従来客船が果たしてきた役割がジェット機に取って代わられた現在、海外渡航はこれで良いのだろうかと考え込むことがある。

船舶海洋関係学会の論文集を見ても、乗客の安全や乗り心地に関する研究は少なく、稀にあったとしても、少数の被験者による船酔いのアンケート調査くらいなものである。

ここでは、最初に航海とは何かについて確認したあと、航洋定期客船、飛行船、飛行艇を始めとする旅客機、その他について過去と現状を考察し、より良い「航海」を実現するためにはどうあるべきかを検討して行くことにする。