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蒼空を往くクルーザーの伝説(4)

第2章 定期客船に搭載された郵便機

第1節 19世紀末の通信メディアと船舶への適用例

渡洋定期航路は各国の郵便事業の実現手段として重要であった。

ローランド・ヒルにより郵便切手による近代郵便制度がイギリスで誕生したのは1840年である。

これに遅れること30年、日本では明治4年(1871年)4月20日に郵便事業が始まった。
これを記念して4月20日を逓信記念日としている。

郵便は通信手段として重要である。
さらに、情報伝達手段にとどまらず、契約書や仕様書のような商取引上の書類あるいは外交上の公文書などを届けるという意味でも大変重要である。

通信手段として、今日では欠かすことの出来ない電信・電話もこの頃実用化されつつあった。

1837年にはアメリカの肖像画家であったモールス(Samuel Finley Breese Morse:1791-1872)が電信機を発明し、鉄道網の発展とともに電信網が広がって行った。

日本にはペリー(Matthew Calbraith Perry:1794-1858)が1854年に電信機2台を持ち込んで電信機の公開実験を行ったのち徳川幕府に献上している。

東京・横浜間で電報取扱いを始めたのが1869年、関門海峡に海底ケーブルを敷設したのが1872年で、その翌年には東京・長崎間に陸上電信線が開通している。

1876年にはグラハム・ベル(Alexander Graham Bell:1847-1922)が電話機を発明した。

わが国にはその翌年輸入され、これをもとに1878年に国産1号電話機が作られた。

1890年には東京・横浜間で電話が開通した。
1900年には初めて街頭に公衆電話が登場した。

都市部での公衆電話はかつては有効に活用されていたが、固定電話が殆どの家庭に行きわたった上、携帯電話の普及もあって公衆電話は撤去されている。
離島や航行中の船舶からも通信衛星を経由することによって交信が可能となっている。

イタリアのマルコーニ(Guglielmo Marconi:1874-1937)が無線電信装置を発明したのは1895年である。

艦隊演習で編隊を組んだまま進路を変え、あるいは隊形を変えることは非常に高度な訓練を要する。
個艦の運動性能の差や運用の技量にも関わるからである。
このような艦隊行動の通信手段として各国海軍は無線に着目した。

マルコーニは英国南岸ボーンマス(Bournmouth)とワイト島(Isle of Wight)間14マイル半で交信実験を行い、その後交信距離を10マイルに延長して1年以上不具合を生じなかった。
この間、アイルランド北部の燈台で試用された。
1899年に彼はこの結果を電気工学会に論文発表している。

英仏両国の許可を得て、英国海峡の交信実験を行い、イギリス・フランス・イタリアそれにわが国の海軍で軍艦・軍港相互の実用実験等が行われた。

商船の事例では1909年にアメリカ東海岸沖で濃霧のためリパブリック(REPUBLIC:15378GT)(米)とフロリダ(FLORIDA:5000GT)(伊)が衝突した海難事故でリパブリックからの無線で救助船が30分以内に現場に到着し、1700名もの人名が救助された。
タイタニックの海難の3年前の話である。

その当時、無線による海難救助要請の符号は「CQD」であったが、翌年、この信号は国際的に「SOS」に変更された。
」は短3声、「」は長3声で、非常時にも発信しやすく、受信の際の認識も容易であるからだと言われている。

しかし、今日では様々な通信手段が普及しており、発信に習熟を要するモールス信号はその必要性が希薄になってきた。
1995年にアメリカの商船は海難の際にモールス信号を使用することをやめ、IMO(世界海事機関)の決定により、国際的な船舶安全通信が1999年2月にGMDSS(Global Maritime Distress and Safety System)に完全に移行した。
日本では1996年に海上保安庁が使用を停止し、NTTグループも1999年にモールス信号による通信業務を終了した。

ただし、アマチュア無線・漁業無線・陸上自衛隊の野戦通信などでは現在もモールス信号による通信を用いている。
日本アマチュア無線連盟(JARL)ではモールス電信技能認定試験を実施しており、視野内での船舶相互の通信手段である発光信号ではモールス符号を用いている。

いまは通信衛星も含め、有線・無線のネットワークが何処からでも使えるが、当時、通信は国家・企業・個人などあらゆる階層で非常に重要であった。

従って郵便物を取り扱う船舶には各国とも多額の補助金が交付されていたのである。

英国のライナーが誇らしげにRoyal Mail Ship と表示しているのも、日本の二大海運会社であった三菱と共同汽船が合併した時に社名を日本郵船株式会社としたのも国家から郵便事業を託されているからであった。

いまは、移動中の音声あるいはテキストによる交信も、GPS(Global Positioning System)も当たり前になっているが、当時は現地派遣の記者がテキストや写真の原稿を締め切りに間に合うように編集部に届けることが大変であった。

商用の公文書や各国の大使館との交信も含め、郵便は非常に重要であった。
従って、北大西洋横断航路では、海運会社が海運会社と国家の威信をかけて速度を競っていたのである。
20世紀初頭に出現した飛行機が短期間に性能と信頼性を上げ実用域に近づくと、これを利用しようとする動きが現れた。

飛行機は早いけれども、当時の航続距離は知れていた。
そこで、定期ライナーに飛行機を搭載し、目的地に近づいたところでこれを発進させ、郵便物を一足先に届けようとする試みである。

最初に実験を行ったのはアメリカのUSラインズである。

世界大戦の賠償としてドイツからハンブルグ・アメリカ・ライン(略称:ハパグ)の巨船ファーターラントを取得して改名したリバイアサンで飛行実験を行っている。

第一煙突の前から左舷に約30メートルの木製の滑走台を斜めに仮設して陸上機を発進させたのである。

定期航海でニューヨークに入港する数時間前にクラレンス・チェンバレン(Clarence Chamberlain)の操縦によってフォッカー複葉機が離床した。

アンブローズ灯台船沖18マイルから高度25mで50マイル飛行して郵便物を届けた。
1927年8月1日のことである。

それから間もなくフレンチラインが航行中の客船から水上機の発進を試行した。
4万トンを超える大型客船イル・ド・フランスから郵便機をカタパルトで打ち出そうという計画である。
ニューヨークに向けて航行中、ナンタケット島沖から6人乗りの水上機リオレ・エ・オリビエを射出した。
同機は200マイルを飛行してエリス島近くの検疫錨地に着水した。
このとき同機が搭載していたのは乗組員の入国審査用書類で、その後母船の接岸するマンハッタンの88番ピアまで水上滑走したという。

定期ライナーから毎航水上機を飛ばそうとしたのはドイツの北ドイツロイドである。

次節でもう少し詳しく検討してみる。


第2章第2節