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蒼空を往くクルーザーの伝説(5)

  第2章 定期客船に搭載された郵便機

第2節 北ドイツロイドの「ブレーメン」「オイローパ」

1929年、ブレーメンのウェザー造船所で竣工したブレーメンの特徴ある太く短い2本の煙突の間にはハインケル社製のK2型カタパルトが装備されていた。
ハインケル He12 「ニューヨーク」
ブレーメンの側面図(部分:第二煙突前部)
出典:Schnelldampfer BREMEN (Axel Boder)
同左

搭載機は単発単葉双浮舟付きのハインケル He12 ニューヨークであった。
銀色に塗装された同機の登録記番号は D1717 である。

1929年7月16日、母港ブレーメルハーフェンを出港したブレーメンはブルーリボンを獲得したこの処女航海で、ブルックリン港に入港する310マイル沖合いでニューヨークを発進させた。

300キロの郵便物を載せた同機を操縦していたのはルフトハンザの機長ヨブスト・フォン・ストルデニッツであった。
1時間半のフライトでハドソン河に着水した。
同機は同日夕刻入港してきたブレーメンに吊り上げられた。

カタパルト上の He12 「ニューヨーク」
小さなクレーンで吊り上げられたD1717
出典:Schnelldampfer BREMEN (Axel Boder)
同左

復航でもブレーメルハーフェン入港24時間前、英国海峡で発進したニューヨークは600マイル飛翔してウェザー河に着水した。
郵便物はブレーメルハーフェン空港で待っていたルフトハンザ機に積替えられ一足先にベルリンに届けられた。

1930年2月22日、オイローパが、ブロム&フォス造船所で改良されたK3型カタパルトを搭載して完成した。
水上機は間に合わせのハインケル58型、D1919であったとされている。

ハインケル He 58 型水上機
出典:Schnelldampfer BREMEN (Axel Boder)
ところが調べて行くうちに、謎が生じた。
飛行機の登録記番号はその機体に付けられた固有の番号で、昔は合衆国が"N" ドイツが"D" フランスが"F" わが国では"J"のような国籍を表すアルファベットの大文字の後にハイフンをつけて機体の固有記号をアルファベット4文字で標記していた。
近頃は機数が多すぎてアルファベットでは賄いきれず、数字で付番するようになった。
いずれにしても、この登録記番号は変わることがない筈である。
謎と言うのは、同じD1919をつけた He58型機に「アトランティーク」と表記された写真と「ブレーメン」とペイントされた写真が見つかったのである。

私の推測であるが、オイローパが就航したときに、アトランティークとして同船に搭載された機が、後日何らかの理由でブレーメンに移されたものと思われる。
航空局が異なる機体に同じ登録記番号を付けることはない。

He58 「D1919:アトランティーク」
He58 「D1919:ブレーメン」
出典:Schnelldampfer BREMEN (Axel Boder)
同左

上の写真(左)では、胴体に「ATLANTIK」と言う文字が読める。
その上、原典によれば「Die Heinkel 58 D-1919 "Atlantik",1937-38」と註記がある。
右の写真は大きな文字で「BREMEN」と書いてあるのが判る。
左の写真は、星型空冷発動機のカウリングが外されているが、主翼・胴体・尾翼・双浮舟およびその間の支柱から He 58 に間違いない。

「D1919:ブレーメン」
出典:Picture History of German & Dutch Passenger Ships(William H.Miller,Jr.)

ちょっと大きく載せてみたが、この写真では郵便機の胴体に「D-1919 BREMEN」と書いてあるのが明瞭に読み取れる。
また、この写真では母船ブレーメンのサンデッキにもプロムナードデッキにも、カタパルトから水上機が射出される瞬間を見ようと多くの乗船客が上がって来ているのが判る。

ブレーメンは1929年に7回、1930年に18回、1931年にはブレーマーハーフェンで着水に失敗したので13回に留まったが、オイローパは同年17回の郵便飛行を実施している。

1932年夏には単発の大型水上機ユンカース Ju 46が2機完成し母船に配属され、それぞれブレーメン(D2271)、オイローパ(D2244)と命名された。
両機の機体は真紅に塗られていた。
この新鋭機には郵便物と一緒に6名の乗客も搭乗することが出来た。

1933年から1935年には、年34〜36回、ほぼ毎航のフライトを行っている。

しかし、1935年の秋には両船からの郵便飛行は停止された。
飛行機とその運航を提供していたルフトハンザは一時的な実験と考えていて、永続的な事業とは考えていなかったと見る説もあるが今となっては真相は判らない。

両船からのフライト回数は合計で198回と言われている。

その後、平時運航中の客船から水上機を発進させることはなかった。

飛行機の信頼性と性能が向上し、航続距離もそれに従って延長された結果、第一段階として島伝いに飛行艇を運航させ、やがて大陸間を無着陸で結ぶことが出来るようになったからである。

第1章で旅客用飛行艇は途中の島影や環礁に着水し、静かな睡眠と朝食を提供していたと言うのも、燃料補給や発動機・艇体の点検整備などのために中継点での着水が必要だったのである。