.
[HOME/Eng]

英国諸島巡航(第9部)



.
1999年8月18日(水)ダブリン着0800出港1800・ドレスコード:インフォーマル
シャムロックを国章とするグリーンの国、アイルランドの首都ダブリンに到着した。

我々日本人にもオスカー・ワイルド、バーナード・ショウなど英文学の偉大な作家を輩出したところとしても有名である。

本船はアレクサンドラ・ベースンの奥に接岸した。

写真に見える向こうの流れがリフィー河で画面左はすぐにアイリッシュ海である。

このリフィー河の河畔を遡るとダブリンのシティセンターに通じる。

周りを見ても緑豊かな静かで穏やかな国である。とてもIRAなどイギリスとアイルランドの紛争が現実のものとは思えない。

リフィー河河口近くにはヨットハーバーなのか、多くのヨットが係留されていた。

遠景の緩やかな起伏の所々に教会の尖塔も見える。

この河畔には英国のジョージ王朝時代の邸宅が今も残っているそうである。

我々もチャーターバスでリフィー河沿いにダブリンの見どころ探訪に出かけた。

これはトリニティ・カレッジである。
エリザベス1世によって1591年に創設されたが、いま残っている建物は18世紀の建造になるものだそうである。
ここにはアイルランドの国宝で、7世紀の福音書である「ケルズの書」を見ることが出来た。
サイズは思ったより小さかったが、非常に繊細な描画で、しかも色も鮮やかであった。
第一部でBAの垂直安定板の図柄に触れたが、その中に判らない模様があった。テープを引き回した織物のような迷路のような抽象的な模様である。
これがケルズの書に描かれていたケルト模様であった。
トリニティ・カレッジの図書館旧館2階のロングルームにも強烈な印象を受けた。
ダブリンと言えばギネスの首都である。
町中のビルの壁やパブの看板にギネスが掲げてあり、ギネスのアルミ樽を積んだトラックが店にギネスを卸している。
弁倶郎も日本でギネスを飲んだことはあった。ところが、イングランドを含む当地で飲むギネスは旨いのである。
ここではビールの種類が多い。銘柄ではなく種類である。ラガー、ビター、スタウト、ペール・エールなどいろいろなビールがある。それを冷蔵庫などで冷やさずに、パブでは地下のタンクからレバーでパイントグラスに注いでくれる。これをつまみもとらず、ちびちびと時間をかけて飲む。
ギネスであるが日本のような遠隔地に輸送するものは泡のきめの細かさも味も生産地とは違うようだ。
クリスタル・シンフォニーのメインバー「アベニューサロン」で飲んだ缶入りギネスは旨かった。
セント・パトリック大聖堂はダブリンの最も古い地域の一画にある。

現在公園になっている塔の北側にあった泉で聖人パトリックがキリスト教への改宗者を洗礼したといわれている。
大聖堂周辺を流れていた小川は今では地下水路になっている。
この地には5世紀から教会が建っていたが、1191年にノルマン人が石造りの教会を建立した。この教会も13世紀初期に再建され現在に至っている。
西塔の高さは37メートルで、そこの鐘はアイルランド最大の音響で知られている。
この聖堂の大時計はダブリン市民向けの最初のものであるが1560年に設置されたと言われる。

この日も見学者が絶え間なく入場していた。

この大聖堂には歴代の司祭長や著名な音楽家、文筆家、軍人・貴族など多数の碑がある。

中でも外陣西側のスウィフトの胸像は特に目を引く。
スウィフトの碑名、ステラの記念碑、スウィフトとステラの墓などもこの傍で見ることが出来る。

スウィフトの使った説教壇・テーブル・椅子及び作品集など出版物も置いてあるという。

北袖廊には昔のアイルランド連隊旗が展示されていたが、第一次大戦で戦死したアイルランド兵5万人の戦没者名簿もあるそうだ。

セント・パトリック大聖堂を出ると、観光馬車に出会った。

御者がポイント毎に馬を止めて後ろを振り向いて説明している。

この種の馬車は前年、イングランドの古都ヨークや湖水地方のウィンダミアなどで何度か見かけたことがある。

観光客が大聖堂を見学している間、木陰で地元の人と雑談しながら待っていた。

午後は本船に帰ってのんびりと午後のお茶を楽しんだ。

パームコートではトリオが演奏していた。

このクルーズも人気が高く、早くから満室お断りと言っていたようであるが、船上では何処に行っても込み合うことはなかった。

クルーズも後半となり、乗船客もスタッフもゆっくりと時間の経過を楽しんでいる風である。

このトリオもメンバーが適宜交替しているようである。

このギター奏者は2年前乗船したときに見た顔であるがリーダーは代わっていた。

液晶ディスプレイを見ながら卓上で撮っていたのであるが、ウェイターが目聡く見つけて手を振りながら前を通り過ぎていった。

ここでは座っていると次から次へとウェイターがにこやかに回ってくる。
お茶やコーヒーを飲んでいるとお代わりを勧めたり、クッキーやサンドイッチを持ってくる。

「有り難う。結構」と言うと、しばらくして今度は「楽しんでいますか?」と声を掛けてくれる。

クリスタル・シンフォニーのブリッジフロントである。

クリアビュースクリーンの向こうには当直のオフィサー用らしいトレーが見える。

クリスタル・ハーモニーは長崎で建造されたが、このシンフォニーはフィンランドで建造された。
そして、正式就航直前にキャビンやダイニング、ギャレーなどの総合評価と乗組員の習熟を兼ねて本番同様の試運転が行われた。

そのとき、時化に遭い、絶好の試運転になった。試運転のときに平穏無事で、就航後に暴風に痛めつけられては堪らないからである。
聞いた話によると、そのときこのブリッジフロントのガラスが割れたそうである。
ここに立つと俄かには信じられない話である。

この日は、ダブリン出港の前後にブリッジを見学することが出来た。

行き会い船もない、穏やかな航行中のブリッジ見学をしたことはあるが、出港時の慌しいときに、しかもこの狭いベースンで回頭して出なくてはならない状況で見学することが出来たことは幸運であった。

ブリッジで出港前の放送をするマーレン船長である。

マーレン船長は毎朝の挨拶が丁寧である。当日の航行海域の天気予報からはじまり、寄港地情報などをちょうど朝食の時間前後にここから放送している。

船長が居ないときに、当直航海士がした船長の口真似が巧かったので噴出してしまった。

クリスタル・シンフォニーの時鐘である。

時鐘については97年のメキシカン・リビエラ・クルーズのスナップ集で述べた。

いまはブリッジのシンボルである。

ウィングのコンソールで操船するマーレン船長。

このコンソールは両舷の暴露部に設置されており、常時は風雨除けのカバーで覆われている。

昔は船長や当直航海士が舵輪など操船機器に手を触れる事はなかった。

当直のクォーターマスターに命令するだけであった。
クォーターマスターは命令を復唱し、その結果や状況を報告する。
推進機関の調整はエンジン・テレグラフと伝声管で機関部に伝えられ当直の機関士がこれを実施し報告したのである。

それが今では指先一本でタグボートもなしに軽々と操作出来るのである。

ダブリンのアレキサンドラ・ベースンは実に狭い水路で、サイドスラスター・スターンスラスターがなければ出入りし難いのではないかと思われる。

タグボートに曳航を依頼しようにもある程度の水面がなければどうにもならない。

四周の見通しの利くウィングに立って、注意深く状況を判断しながら操船するマーレン船長である。

チャートテーブルの前では邪魔になるのでキャップを脱いでいるが、暴露部に出るときは必ず着帽している。

やはりキャプテンはブリッジで指揮をとっている姿が一番似合う。

木場デュピティ・キャプテンである。

トランシーバーで船尾・船首や岸壁などの状況を把握し、船長の操船指示を伝達している。

本船には副船長・一等航海士・副機関長・一等機関士など日本人幹部が乗船している。
今回は、木場副船長・小久江一等航海士・加藤副機関長・中谷一等機関士で、このほかアクティビティ・ホステスとして大杉敬子さんが乗務していた。
業務内容はクルーズ・スタッフ兼船内新聞「リフレクションズ」とメニューの翻訳などで、我々も大変お世話になった。

下船後、飛鳥でチーフパーサーとして大変お世話になった習田氏が本船に乗ることになったと聞いた。
再会が楽しみである。

出港作業中のブリッジの肘掛け椅子に、レディが寛いで制服の説明を聞いている。

この椅子は、キャプテンが出入港や狭水路通過の際、責任者として立ち会うときに用いる椅子である。

クルーズ船ならではの、如何にも長閑な画像である。

しかしながら、傍らで木場副船長は前方を注視している。

人物が小さくなったが、チーフオフィサーズプラットホームに人が居るのがお判りだろうか?

出入港の際、チーフオフィサーがここで指揮をとるので上のように呼ばれている。

船舶は水に浮かんでいる上に、質量が桁違いに大きいため、急な変針や加減速が出来ない。
そのため、先を読んだ操船が必要であることは、タイタニックの例を引くまでもない。

ブリッジには岸壁までの距離をトランシーバーで、「あと何フィート」と逐一報告している筈である。

デッキ上には予備主錨とプロペラブレードが見える。

岸壁が随分近づいてきた。

時々、振り返って状況を確認する一等航海士の顔に緊張が読み取れる。

かもめがそのわずかな隙間を掠めて飛び去った。

出港時刻は18:00。
明朝は08:00に、ウォーターフォードの外港ダンモア・イーストに到着し、テンダーで上陸する予定である。