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蒼空を往くクルーザーの伝説(2)

イタリアの航空会社4社が共同製作したポスター。 マッキ飛行艇の下にイタリア半島を配し、運行ルートが描かれている。1926年頃の製作で、すでにウィーンやシシリー島へのルートが開設されているのが判る。飛行艇はよく見ると単発で、キャビンは艇首にあるユニークな設計だ。(以上原典から)

イタリア半島の東側がアドリア海である。
その向こうのバルカン半島は世界大戦の発端となったセルビア皇太子暗殺事件などいつも紛争で血なまぐさい事件やきな臭い硝煙が絶えない地域である。

第一次大戦後のアドリア海の飛行艇を素材にした宮崎 駿のアニメ映画「紅の豚」は当時の雰囲気を表現している。

[デルタ出版:「航空の黄金時代」1999.9 P2]

第1章 客船と飛行艇と飛行船(続き)

第2節 飛行艇

「オイローパ」・「ブレーメン」の進水した前年、1927年にはアメリカの無名の青年飛行家C.リンドバーグがライアン社の単発機「スピリット・オブ・セントルイス」で大西洋無着陸横断飛行に成功した。

スピリット オブ セントルイス
[デルタ出版:「航空の黄金時代」1999.9 P15]

これを待っていたように航空機による大陸間飛行が次々と実施された。この中には、有名なメルモーズの「ラ・クロワ・デ・シュド」、スミス卿のフォッカーZB-3m「サザン・クロス」および同氏のアルテア「レディ・サザン・クロス」など弊ページと同じ「南十字星」と命名された機が含まれている。

「南十字星号(la Corix de Sud)」
[佐貫亦男:「飛行機のスタイリング」グリーンアロー出版社 平成8年3月 P60]

ライト兄弟の初飛行から20年余りで航空機は実用化の道を着実に歩んでいた。


飛行機による航空業務は郵便飛行であった。(上述のチャールズ・リンドバーグも郵便飛行士であった。)世界公認の最初の郵便飛行はインド北部ウッタル・プラデシ州のアラハバードからジャナム川を越えて約8キロ離れたナイニ・ジャンクションまで6500通の郵便物をハンバー複葉機で空輸したものである。そして4日後には定期的に飛行が行われるようになった。

旅客を運送する飛行機の定期運航は1913年12月4日である。合衆国フロリダ半島西岸のセントピーターズバーグとタンパを結ぶ路線にエアラインを開設したのが初めてである。
ちなみに、このとき用いられたのはベノイスト14型飛行艇(単発複座)であった。運賃は体重100ポンド以下なら5ドル、1ポンド超過につき5%の割増運賃が必要であった。利用者は3ヶ月で1204人で欠航は8日のみであったと言われている。採算にのらず4ヶ月で運航中止となった。

ベノイスト]W型飛行艇
[帆足孝治:「名機250選」イカロス出版 1997.10 P21]

1919年にはパリで国際航空条約が締結されている。このとき30カ国以上が加盟した。

泊地で整備中のB314飛行艇群(3艇が1駒に写っているのは珍しい)
飛行中のマーチンM130
[帆足孝治:「ボーイング旅客機」イカロス出版 1994.4 P48]
[デビッド・マンディ他:「航空ギネスブック」イカロス出版 1998.3 P111]

飛行機は当然陸上機が主流であったが、渡洋飛行には飛行艇が好んで用いられた。
機体にもエンジンにも信頼性の乏しかった当時、業務用の航空機には単発より双発・三発機が好まれた。
万一、エンジン不調になっても飛行を継続出来るからである。
当然、不時着水に備えて機体は水密構造の舟形となる。これが飛行艇である。

航空機が大型化し、あるいは高速化すると離着陸速度も上がるので、滑走路も空港施設もそれなりに必要となるが、このような空港は限られていた。
これに対し水上機や飛行艇は波静かな広い水面があれば離着水が可能である。

1912年にモナコで世界初の水上機競技会が開かれ、翌年からシュナイダー杯レースが開催されることになり、水上機の性能は著しく向上した。
3年連続して優勝した国がトロフィーを獲得出来るというこのレースに、英米伊など各国がしのぎを削り、性能は格段に向上した。
未だにプロペラ機の速度記録は1934年10月に達成されたマッキ・カストルディMC72の時速709キロが破られていない。
ちなみに戦闘機の名機として知られる英国の「スピットファイア」は、シュナイダー杯競技用レーサーを作っていたスーパーマリン社がその経験を生かして初めて試作した陸上機である。

カーチス社が、前年に284km/hで優勝したCR−3に引き続き1924年にモナコに持ち込んだR2C2−2。
試行で365km/hを記録したが、この年レースは行われずに終わってしまった。
上翼を直接機体に取り付けられているが、前方視野は殆どない。
[デルタ出版:「航空の黄金時代」1999.9 P29]

当時、飛行艇のメーカーはマーチン・ボーイング・シコルスキー・コンソリデーテッド・ショート・ドルニエなど世界に広がっていた。

旅客艇は「チャイナ・クリッパー」などパン・アメリカンの機名にちなんでクリッパーと呼ばれていた。

当時珍しいB314のカラー写真
シコルスキーの傑作艇S42
[デルタ出版:「航空の黄金時代」1999.9 P15]
[石川潤一:「旅客機発達物語」グリーンアロー出版社 平成5年6月 P84]

軍用にも飛行艇や水上機は重宝された。占領直後の島嶼部などで新たな飛行場を整備する間にもVIP輸送・偵察などに飛行艇は多用されていた。日本海軍の「零式艦上戦闘機」の活躍は有名であるが、あの機体にフロートを付けて「二式水上戦闘機」として南方諸島で局地防衛に用いられていたことはあまり知られていない。

97式大艇(川西大艇と呼ばれていた)
2式水上戦闘機(零式艦上戦闘機にフロートをつけたもの)
[朝日新聞社:「航空70年史−1 1900-1940」朝日新聞社 昭和45年4月 P176]
[航空ファン:「日本海軍機全集」兜カ林堂 平成5年2月 P48]

米海軍は戦後、ジェット時代になっても大型飛行艇や単座戦闘艇を試作していたが、現在哨戒や救命に飛行艇を配備しているのは我が国だけである。

コンベアYF2Y1シーダート水上戦闘機
マーチンP6Mジェット飛行艇
サンダース・ローSR−A1水上戦闘機
[デビッド・マンディ他:「航空ギネスブック」イカロス出版 1998.3 P212]
[「応用機械工学」編集部:「航空機と設計技術」大河出版 昭和56年11月 P63]
[デビッド・マンディ他:「航空ギネスブック」イカロス出版 1998.3 P209]

クリッパーなどのの愛称で太平洋で運航されていた大型旅客飛行艇は夕方航路添いの環礁などに着水して夕食のサービスとベッドメーキングを行い、翌朝再び目標地点に向けて離水して行ったという。

泊地に着水してのディナー
食後はカードゲームで楽しむ
そして波に揺られて静かに就寝
[帆足孝治:「ボーイング旅客機」イカロス出版 1994.4 P50]


第1章第3節