イタリアの航空会社4社が共同製作したポスター。
マッキ飛行艇の下にイタリア半島を配し、運行ルートが描かれている。1926年頃の製作で、すでにウィーンやシシリー島へのルートが開設されているのが判る。飛行艇はよく見ると単発で、キャビンは艇首にあるユニークな設計だ。(以上原典から)
イタリア半島の東側がアドリア海である。 第一次大戦後のアドリア海の飛行艇を素材にした宮崎 駿のアニメ映画「紅の豚」は当時の雰囲気を表現している。 |
第1章 客船と飛行艇と飛行船(続き)
第2節 飛行艇
「オイローパ」・「ブレーメン」の進水した前年、1927年にはアメリカの無名の青年飛行家C.リンドバーグがライアン社の単発機「スピリット・オブ・セントルイス」で大西洋無着陸横断飛行に成功した。
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これを待っていたように航空機による大陸間飛行が次々と実施された。この中には、有名なメルモーズの「ラ・クロワ・デ・シュド」、スミス卿のフォッカーZB-3m「サザン・クロス」および同氏のアルテア「レディ・サザン・クロス」など弊ページと同じ「南十字星」と命名された機が含まれている。
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ライト兄弟の初飛行から20年余りで航空機は実用化の道を着実に歩んでいた。
飛行機による航空業務は郵便飛行であった。(上述のチャールズ・リンドバーグも郵便飛行士であった。)世界公認の最初の郵便飛行はインド北部ウッタル・プラデシ州のアラハバードからジャナム川を越えて約8キロ離れたナイニ・ジャンクションまで6500通の郵便物をハンバー複葉機で空輸したものである。そして4日後には定期的に飛行が行われるようになった。
旅客を運送する飛行機の定期運航は1913年12月4日である。合衆国フロリダ半島西岸のセントピーターズバーグとタンパを結ぶ路線にエアラインを開設したのが初めてである。 ちなみに、このとき用いられたのはベノイスト14型飛行艇(単発複座)であった。運賃は体重100ポンド以下なら5ドル、1ポンド超過につき5%の割増運賃が必要であった。利用者は3ヶ月で1204人で欠航は8日のみであったと言われている。採算にのらず4ヶ月で運航中止となった。
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航空機が大型化し、あるいは高速化すると離着陸速度も上がるので、滑走路も空港施設もそれなりに必要となるが、このような空港は限られていた。
これに対し水上機や飛行艇は波静かな広い水面があれば離着水が可能である。
1912年にモナコで世界初の水上機競技会が開かれ、翌年からシュナイダー杯レースが開催されることになり、水上機の性能は著しく向上した。
3年連続して優勝した国がトロフィーを獲得出来るというこのレースに、英米伊など各国がしのぎを削り、性能は格段に向上した。
未だにプロペラ機の速度記録は1934年10月に達成されたマッキ・カストルディMC72の時速709キロが破られていない。
ちなみに戦闘機の名機として知られる英国の「スピットファイア」は、シュナイダー杯競技用レーサーを作っていたスーパーマリン社がその経験を生かして初めて試作した陸上機である。
カーチス社が、前年に284km/hで優勝したCR−3に引き続き1924年にモナコに持ち込んだR2C2−2。 試行で365km/hを記録したが、この年レースは行われずに終わってしまった。 上翼を直接機体に取り付けられているが、前方視野は殆どない。 |
旅客艇は「チャイナ・クリッパー」などパン・アメリカンの機名にちなんでクリッパーと呼ばれていた。