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夜景


「南十字星」の由来 (about "Southern Cross")



「Southern Cross」南十字星は南天の小さな星座である。星座名としては南十字座とも呼ばれている。
残念ながら日本内地では鹿児島県や高知県の南端で、頂点のガンマ星が見えることがある程度で、十字には見えない。私がクルーズで寄港したところでは小笠原の父島・沖縄・台湾などで見えることになっているが、春先の宵の頃、南の水平線上にかろうじて見える筈である。

1970年頃、造船技師から研究所に配置換えになった直後に、大型船に働く波浪外力を評価するための国家プロジェクトの一環として、新造の11万トン級鉱石運搬船で瀬戸内海の製鉄所からアフリカの大西洋岸まで、途中無寄港で往復2ヶ月の実船計測に従事したことがある。
往路は、波浪の観測や船体の応答計測など、慣れない計器の調整やデータ整理に追われていたが、復路インド洋で真夜中、天の川の中に見た南十字星の印象は今でも鮮やかに思い出すことが出来る。神秘的であった。

その後2003年3月に「クィーン・エリザベス2」で、香港からシンガポールまで乗船し、上陸前夜にジュロン沖でプロムナードデッキから眺めることが出来た。1997年に「クリスタル・シンフォニー」でサンフランシスコからアカプルコまでメキシカン・リビエラをクルーズしたときも、2001年に初のワールドクルーズで横浜に寄港したP&Oの新造船「オーロラ」で鹿児島・上海・香港を経由してシンガポールまで乗船したときも、季節的に合わなかったせいか、見ることが出来なかったので再会したときは嬉しかった。

「南十字星」は、仏語では「la Croix du Sud」と言う。この名前は忘れることが出来ない。
航空路開拓時代に一人のパイオニアが居た。その名をジャン・メルモーズという。現在、フランスの航空機産業に往事の面影はないが、当時は意欲的にアフリカ・南米大陸を航空路で結ぶ遠大な構想が描かれていた。第一次世界大戦の2年後には早くも欧州からジブラルタル海峡を越えて北阿に路線を延ばしている。
その頃南フランスの航空会社ラテコエールに入社したメルモーズはナタール(ブラジル)・ブエノスアイレス線に従事していたが、ラテコエール28型機でアンデス越えの空路開拓に挑戦したり、ラテコエール社がエールフランスになった後、クージネ70型「アルカンシェール(虹)号」でパリ・ブエノスアイレス間往復飛行を行ったりしている。
1934年には「アルカンシェール」で8回も南大西洋横断飛行をしているが、同年エールフランスでは別の機長の手でラテコエール300型4発飛行艇により6回の横断飛行が行われている。
この頃の操縦士仲間に「星の王子様」の著者として有名になったサン・テクジュペリがいる。
その後、メルモーズが同型飛行艇で南大西洋横断の定期輸送を担当することになった。
そして1936年12月6日、南大西洋を飛行中に「後部右エンジンを停止する」との通信を最後に消息を絶った。
その飛行艇がラテコエール300型「la Croix du Sud(南十字星)号:機体符字F−AKGF」である。
フランス人にとってメルモーズの名は英雄であり、記念切手にも良く彼の肖像が用いられるし、フランスの客船の船名としても登場している。
ダグラス・ワード氏が乗船して客船の評価をしていることで知られているベルリッツ社のクルーズ年鑑2002年版には1957年5月にラトランティーク造船所でジャン・メルモーズとして建造され、後にメルモーズと改名され、当時ルイス・クルーズ社のセレナード”Seredade(ex Mermoz、Jean Mermoz):14173GT”として主に地中海方面でクルーズを行っていた。

大規模空港の整備されていなかった時代にはパン・アメリカンの一連の「クリッパー」に代表される飛行艇が渡洋空路に幅を利かせていた時代があった。
我が国でも戦前は大日本航空が川西大艇で、台湾・香港・シンガポール・トラック諸島を結ぶ空路を運航していた。

いずれ、この飛行艇時代・ツェッペリンの飛行船の渡洋航行についてまとめてみたいと思っている。

英語の「Southern Cross」には、もう一つ思い出すことがある。
日本が重工業を主体に戦後の復興を急いでいた1955年に、イギリスの造船会社ハーランド&ウォルフではショウ・サビル・ライン向けに新造客船「サザン・クロス」を完成させていた。 豪州と英本土を結ぶ定期航路に充て、閑散期にはワールド・クルーズを行う計画であった。
約2万総トンのこの船は従来の常識にとらわれない外観を示していた。当時、船のシンボルでありノルマンディを始め多くの有名な船が偽煙突まで設けて視覚的に高出力・高速力を訴えていた煙突を、目立たぬ程度に小型化し非常識とも思える程上部構造の後端に移動させたのである。
これによって従来、推進プラントが占めていた船体中央部をキャビンや公室に有効に活用出来るだけでなく暴露甲板を広いスポーツデッキとして解放することが出来た。プールを従来の船尾から上部構造トップに上げ、リドデッキの概念を一新したのも本船かもしれない。
機関部を船尾に移すことは、推進軸を短縮するメリットのほかに、動力プラントをキャビンと隔てることにもなり、乗客に及ぼす騒音や振動の影響を低減させる効果もある。
当時の業界誌は、この船を「ワン・クラス・ボート」と特筆していた。これは画期的なことであった。船旅では事情の許す限り上位等級の部屋を取れと言われていた。等級の差別がひどく、食事のメニューだけでなく立ち入る区画も厳しく限定され、3等船客は荷物に近い扱いを受けることもあったからである。船客の等級を廃して、どの施設やサービスも一律に提供しようと言うのが「ワン・クラス・ボート」の概念である。
1955年3月と言えば戦後やっと十年目であった。その時期にワンクラスで世界一周のクルーズを行う船が竣工したと、その2〜3年後になってやっと創刊(あるいは復刊)された月刊雑誌等で読んだときには戦勝国と敗戦国の差を見せつけられたような気がして溜息が出たものである。
日本が船舶建造量で世界一になったのはそれから数年後のことである。
ちなみに「サザン・クロス」は「オーシャン・ブリーズ」と改名され、2000年5月にインペリアル・マジェスティ・クルーズ・ラインに移ってフォートローダーデールを起点に2泊クルーズに従事し、ダグラス・ワード氏のクルーズ年間2003年版までは掲載されていたが、2005年頃バングラデシュでスクラップされた。半世紀近く活躍した長寿船であった。

(2009.05.01)


オーシャン・ブリーズ

写真:『Cruise Travel誌 2002年8月号』から転載



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