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癸巳淡水紀行 アーカイブ

2013年11月22日

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癸巳淡水紀行(1)

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ブログで知り合ったボストンUSA在住の鄭博士と、横浜の呉さんと合流して当時の鎮公所や淡水國小、三芝国小,を訪れて現地の人たちに歓待を受けてから3年が経過した。

その翌年、三重県の湯の山温泉で淡水会が開かれ十数名が参集し、昔話に花が咲いた。
しかし、昨年は淡水会が開催されなかった。

それで「今年は淡水に行きましょう」と呼びかけたが、福田マキ子さんが白内障手術の直後だったので今回は断念すると電話連絡があった。
マキ子さんが行くと典子さんと一緒に行く筈であるし、同世代の人が何人か行ったであろうがやむを得ない。
その後、電話で様子を聞いたところ「こんなに良く見えるようになった」と驚いていたから手術をして良かったのであろう。

現在馬偕博士の頭像のあるロータリーは当時、小公園とか三角公園とか呼ばれており、その辺りの地名を龍目井と言っていた。
現在は馬偕街と呼ぶようである。
その龍目井で生まれた3つ違いの妹、恭子も連れて行きたかったが差し支えがあり同行することはできなかった。

しかし幸運なことに、平成23(2010)年の淡水会で行き違いになった稲垣さんは両親や妹夫妻などと同じ日程で淡水に行くことが判ったので現地で合流することにした。

宿舎は淡水の福格大飯店に予約を入れ、私と娘は11月14日(木)9時広島空港発(桃園10時50分着)のチャイナエアラインで往き、17日(日)の同ラインで帰国する手配をした。

自宅からバス停に行き、リムジンで空港に向かった。
ちょっと早起きしたが、朝9時の国際空路が利用できるのはありがたい。

桃園国際空港に到着して國光バスで台北まで出て、圓山でMRTに乗って淡水に向かった。

2013年11月25日

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癸巳淡水紀行(2)

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リムジンバスは、國光客運1819号線を利用した。
桃園国際空港第2ターミナルから、第1ターミナルで満席にして高速道路を走るので快適である。
台北の重慶北路で降りて、淡水線圓山駅でMRTに乗り込めば、終点が目的地の淡水である。

上掲の写真は圓山のプラットホームから見た街路樹であるが、茶色い花のようなものがついていた。

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MRTの車輌は大きく、一編成の連結車輌が多い。
しかも座席がセミクロスシートだからメトロのラッシュ時にも対応可能である。
それに時刻表がない。常に「あと何分何十秒で到着」と表示されている。
台湾は儒教の国であるから、若い者が坐って居ると極自然に立って席を譲ってくれる。ありがたいことである。

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悠遊(イージーカード)である。
これをかざすだけでMRTにもバスにも乗れる。
コンビニでも使えるらしい。
高齢者は乗車料も割引きである。

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淡水でMRTを降りて河岸公園から見た駅舎である。
背後には大屯山が見え河岸には榕樹が生えている。

この駅のすぐ傍までマングローブの保護地区が広がっており、紅樹林駅から木道も整備されている。

駅の裏には漁船のための繋留柱が整備され、また少し新たな埋め立てが行われたようだ。
コインロッカーにコートや手荷物を入れてちょっと淡水の街を歩いてみた。


2013年11月26日

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癸巳淡水紀行(3)

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駅前広場から環河道路に出ると対岸に懐かしい観音山が迎えてくれる。

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MRT駅傍の舟溜まりの外に波抑えの小さな防波堤が築かれていた。
背景にはマングローブの保護林、竹囲・関渡の高層ビルが立ち、その上流は首都台北である。

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台湾の主要貿易港は基隆であるが、客船ターミナルもコンテナヤードも満杯になっているため、淡水河の河口に台北港を建設中であるが、コンテナクレーンが並んでいるのが見える。

現在、関渡大橋の河下は対岸と渡船で連絡しているが、将来計画では漁人埠頭のあたりから対岸の八里に淡江大橋が架かることになっている。

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陽射しが強いので日陰を行こうと思い、メインストリート中正路に出ると区公所(旧:鎮公所)に出た。

150メートルほど行くと右手に福佑宮、左手に公設市場がある。

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ここには観音様と媽祖様が祀られている。

その向かい側には新設された公設市場になっており、ここから眺める対岸の観音山の見晴らしがよく、市場の屋上は広い展望台になっている。

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公設市場に隣接して魚丸博物館がある。

この辺りは戦前、新店街と言っていたが、持ち主や店子が替わっても外装・内装を改装して未だに店舗として使われている。

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それにしても車道と言わず、歩道と言わずビッシリ並んでいるバイクは何時も呆然と眺めるのみである。

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馬偕三角公園まで来てしまった。

ここのあたりは戦前、龍目井と呼ばれていた。
ロータリーは当時、小公園と言っていた。

妹の恭子が生まれたのは、ボストンの鄭博士の家と斜め向かいの借り上げ官舎に住んでいたときのことであった。

2013年11月27日

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癸巳淡水紀行(4)

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小公園から細い小径を登ったところに戦前、木下静涯画伯が居を構えていた。

画伯は台湾美術展覧会創設を推し進めた日本籍画家の一人で、その台展と台湾総督府美術展覧会の審査委員であった。

画伯が台湾に上陸したのは、1918年に中国大陸(あるいはインド?)に画家仲間と行ったとき、仲間の一人が病気になり、台湾で入院したときに残って看病したのが機縁だと言われている。
その間に台湾各地で写生をしたりしてすっかり台湾に魅せられてしまったという。
1923年にこの地に居を定め、淡水河を見下ろす屋敷で風景や花を描いていた。

1946年に北九州に引き揚げ、1987年5月に満百歳を迎えられ、その翌年の8月27日に大往生を遂げられた。

新北市淡水区では三民街12号にある旧居が木下静涯記念公園として整備されている。

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この辺りは、淡水の街(旧称:滬尾)ができたときに中心地であった。
この辺りは龍目井、そこから河下側に烽火街、背後の高台の砲臺埔などには街役場、郡役所、郵便局などのほか、多くの商店も並んでいた。

街外れに淡水駅ができたので、この辺りから駅前まで商店街ができた。新店街である。
小公園のまわりは3年前に行ったときも下図のように古美術商などが軒を並べ、静涯画伯邸までは狭い石段を登らなければならなかった。

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新たに設けられた階段ではなく従前の石段から登ると「木下静涯故居」の門に出た。

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門から入ると、石灯籠を配置した庭であった。
半世紀以上放置されていた庭は随分繁っていた筈であるが新北市淡水区が2011年に歴史的建造物に指定されて以来、往時の様子が偲ばれるまでに整備されている。

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入ってきた正面の石柱を見返ったところである。

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庭の中央に吃驚するほど大きいアラビアゴムの樹が立っていた。
おそらく画伯が此処に住んで居られたころから立っているのであろう。

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庭からの眺めである。
左下に馬偕頭像のある三角公園の一部が見えるが、当時は視界を遮るような建築物はなかったので夕陽に染まる淡水河口や、対岸の観音山を正面に見る素晴らしい眺望だったに違いない。

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住居はそのまま残っており、その外壁に画伯の経歴や業績が描かれていた。

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そして庭の奧には画伯の言葉「好日 好日 又好日」を刻んだ石碑が置かれていた。

さらに進むと、紅楼に出た。

洪以南の屋敷であった達観楼が、現在レストラン紅楼として使用されている。

1906年当時、紅毛城内のイギリス領事館、水上機場を設置するために取り壊された鼻仔頭の黄東茂の公館とともに淡水の煉瓦建て洋館3棟の一つであった。

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写真手前は展望テラスカフェになっていた。

中正路まで降りる途中の石段から見上げた紅楼である。

中正路をMRT淡水駅まで戻って荷物を持って宿舎の福格飯店に向かった。

淡江大学への道路、學府路に面している。

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部屋は16階で大屯山に面しており、1601号室であった。

一休みして区公所に行こうとロビーに降りたら呉さんと出会った。

呉さんのへやも16階である。
しばし歓談して3人で区公所に向かう。
集合時間は現地時間午後4時である。


2013年11月28日

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癸巳淡水紀行(5)

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午後4時、新北市淡水区公所に行くと、2階の会議室に案内された。

そこにはボストンUSAの鄭博士、3年前訪問したときに台北まで迎えに来てくれ、当時の鎮公所や淡水國小、三芝国小まで我々を乗せてくれ、暗くなる頃台北まで送ってくれた博士の叔父夫妻、学童数千人の淡水國小の校長を務めた陳淑女女史などが来ていた。

やがて淡水鎮長から新北市淡水区長になった蔡葉偉博士が会場に現れて歓迎会が始まった。

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蔡区長の歓迎の挨拶は、いま兵役について和平公園の一滴水記念館のガイドをしている呉在鈞氏が和訳してくれた。

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その後、鄭博士がプレゼンテーションツールで戦前の淡水の状況を説明していた。

画面上、淡水会会員歓迎とあるが今回は、三年前に里帰りした鄭宏銘氏、呉信祐氏、それにもし福田マキ子さんが同行してくれるなら淡水会のメンバーも参加してくれるかもしれないと、「淡水人の集い」としてウェブで提案したものであった。

終戦後淡水からの引揚者有志の会合である「淡水会」のメンバーは一時は300名を越していたが、現在は百名程度である。

一昨年までは、毎年開催されていた。

幹事が会場を設定して案内状を出していた。
開催地で集散が基本であったが、毎回2泊で行われていた。
初日は淡水会の総会で、翌日は淡水小学校同窓会といった名目であったようだ。

一昨年は三重県の湯の山温泉で2011(平成23)年10月18/19日に行われた。
このときは呉さん稲垣さん我々親子を含めて17名参集したが、翌年は開催されなかった。福田マキ子さんの話によると在京の数人は頻繁に会合をもっているという話である。
マキ子さんは、いつも娘の典子さんと出席すると言うし、マキ子さんが行けば2〜3人は同行者が出るかも知れないと期待していた。

しかし、マキ子さんは9月に白内障の手術をうけたこともあって今回は断念すると連絡があった。

稲垣さんは親御さんや妹さん親子と淡く水に墓参に行くというので現地で再会することができた。

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席上、蔡区長からメンバーそれぞれに淡水榮譽區民證書が手渡された。
蔡区長と呉さんの受證記念写真である。

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稲垣さんの淡水榮譽區民證書は鄭博士が代理で受け取った。

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福田マキ子さんと恭子の淡水榮譽區民證書は純子が代理で受け取った。

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そして、それぞれに今年新たに編纂された淡水鎮志(3分冊)が贈られた。

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さらに黄仁傑氏の撮影した横枠写真「印象淡水」(淡水區長 蔡葉偉 敬贈)も戴いた。

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新北市淡水区の職員も退庁時間後まで一時間余り付き合ってくれた。

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鄭博士の右は、父 研一が帰台したときにお目に掛かった陳淑女女史である。

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そのあと、中正路の福来レストランで大きなテーブルを囲んで食事会となった。
鄭博士には大変ご馳走になった。
区長は都合がつかないので歓迎会で通訳をしてくれた呉在鈞氏が代理で出席してくれた。
氏は日本の大学で菓子造りを学んだそうだ。
兵役が終わったらパティシエとして店を持ちたいと話していた。

油車口で描いていた著名な楊三郎氏の美術館(新北市永和区博愛街)の夫妻も同席してくれた。

私は榮譽区民證書を戴くようなことはしていないのに、淡水の街の人たちが祖母や両親の頃の縁を覚えていてくれているためにこれ程歓迎して貰えるのであろうと感謝するばかりである。

2013年12月02日

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癸巳淡水紀行(6)

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淡水を訪問した日は福格ホテルに宿泊したが、毎夕就寝前に飲む睡眠導入剤を持ってくるのを忘れたので、明け方まで眠れなかった。
しかし、身体は休息しており、眼も閉じていたので眼が充血することもなく朝を迎えた。
そっと外を覗ってみると霧雨のようで正面にある筈の大屯山は見えない。

このホテルは岡の上の淡江大学に向かう學府路に面しており、眼下に鄧公國小がある。

登校時間になると、普段は交通信号の明滅している交差点に黄色い旗を持った交通指導員が身体を張って車をとめているし、交通信号機も数十秒毎にけたたましくなっている。

近くの学童は黄色い傘をさして歩行してくるが、1分間に数台の割合で学童を乗せてくる車がいるのには吃驚した。
校舎から推定しても学童数は千/二千ではないだろうし、車で送迎される学童も多いのであろう。

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これは、同小學の正門である。

ゆっくり降りて朝食を摂ることにした。

昨夜、バス何台かで到着した観光団体は別のフロアで食べて出かけたと見えて、カフェテリアは客も少なく、静かであった。
すでに椅子にはクリスマス用のカバーが掛かっていた。

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朝食を終えてロビーに出ると呉さんと孫秀さんと出会った。

ロビーには昨日、区公所で贈呈された淡水鎮志などが人数分届いていた。
持ち帰ることが出来ないので、ホテルから郵送することにした。

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ロビーに行くと私の在泊している部屋に雨傘が1本届けられているという。
到着した昨日は快晴であったのに、今朝は霧雨で使用に供して貰おうと誰かが届けてくれたのであろう。

この好意には恐縮した。

日本に郵送するものは段ボールで2箱になった。
ホテルのフロントが包装用テープや重量を計る計量器などを持ってきて梱包してくれた。
フロントは日本語があまり通じなかったが、居合わせた孫秀さんのお陰で発送を依頼することが出来た。
帰国後、トレースしてみると、11月15日10時に淡水中興局が受け付け、同月22日18時に基隆郵局で川崎行きの船便で送られたらしいことが判った。

発送が一段落して呉さんと孫秀さんと食後のコーヒーを飲みながら話していると、米国から帰国している周明徳さんのところへ行こうという話になった。

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周明徳さんは淡水の有名人である。
淡水國小創立百数年記念式典で5名の大先輩が表彰されている。
筆頭は台湾阿片撲滅政策功労者の杜聡明博士、
第二位は台湾の総統になった李登輝博士、
第三位が周明徳氏であった。
周明徳さんは気象技官であり、淡水の測候所やアジンコート(彭佳嶼)、新高山などで気象観測にあたっていたが、戦後長く合衆国に滞在したあと台湾に戻られている。
淡水の街の生き字引のような方である。

孫秀さんが小さな携帯電話で、今日訪ねていっていいかと聞いていたようである。
父の名も知っていて、私が傍にいるならと、替わって挨拶をしようと思ったがあまり良く聞き取れなかった。

後でゆっくり面談しようと言うことになった。

孫秀さんは、これから施さんの戸籍を五代前まで調べるから区公所に行くという。
そのあと、周さんのところに案内して貰うことになった。

孫秀さんは小柄ではあるが凄い人である。
貰った名刺には(社)日本関西吟詩文化協会高師範、国際日本語演講会創会顧問とあるが、関西吟詩文化協会からは先日、さらに高位の資格を授与されたそうだ。
三年前に帰ったときには会食のあと、杜甫の春望(國破れて山河あり)を朗々と吟じてくれた。このとき、呉さんは涙を流していた。

実は、今回淡水に行くにあたって「何処に行きたいか」と尋ねられたことがある。
しかし、何処に行きたいと言う意思表示はしなかった。
淡水の街に来たかったのである。

それで、ロビーで話をしているうちに、周明徳さんを訪問することになったのである。
ただし、孫秀さんは区公所に戸籍を調べに行くので、そのあと午後2〜3時にロビーで合流して行くことにした。

2013年12月03日

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癸巳淡水紀行(7)

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孫秀さんが、周明徳さんのところへ連れて行ってくれるというのでその間、誘われるままに呉さんの部屋に寄せて貰った。

呉さんは古い写真や、資料をいろいろ持ってきていて、見せてくれた。
それを見せて貰っていると、ホテルを出てコンビニで、ケース入りの缶ビールやつまみを持ってきて呉れた。

今まで何度か、呉さんとは話したことがあるが、これほどゆっくり話したことはなかった。
呉さんの長崎時代の話は、私が何度か長期出張したことのある街なので話が弾んだ。

しかし、すぐ出られるように準備をして待ち構えているのに、2時が3時になっても、4時になっても5時になっても孫さんから連絡はなかった。

午後6時過ぎに呉さんのメールに電話があった。
「2時からずっとロビーで待っていた。」という。
フロントに訊くと「外出している」と言うのでロビーで待っていたらしい。
フロントがルームキーを見れば、部屋にいることは判るはずなのに・・・

稲垣さんたちが向かいのレストランで待っていると言われて一緒に行った。

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稲垣(施)裕行さんとそのご両親などと再会した。
我々も孫さんと一緒に案内して貰うはずだった李邦孚と一緒に大きなテーブルを囲んだ。
そのあと2年前に明石で会った妹の華子さんも子供さんを連れてきた。

ここでも昨日と同様、20人近い大宴会となった。

李さんが周明徳さんの著書を2冊、見せてくれた。漢語版であった。

稲垣さんとは席が隣だったのでしっかりお話しすることができた。

孫さんも、よく色々なことを話してくれた。矍鑠としたものである。

宿舎の福格飯店のむかいだったのでホテルに帰ってからも呉さんの部屋で二次会をやっていたそうである。
本当に稲垣さんと呉さんは強い。

第二日目は、区公所からの贈呈品を日本に郵送し、周明徳さんと携帯電話でお話しが出来、稲垣ファミリーや孫さん、呉さんたちと会食をした。
今回はフロントの間違いで周明徳さんにお目に掛かることは出来なかったが、皆さんのご尽力で来年にはこの夢も叶えることが出来そうである。


2013年12月05日

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癸巳淡水紀行(8)

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16日は、鄭博士と呉さんと稲垣さんたちと18時半に台北の神旺大飯店のロビーに会うことになっていた。

これは日本を発つ直前に電子メールを確認した予定だったのであるがその後、昼食時にも連絡が入っており、これを見なかったために折角の好意を受けることが出来なかったのである。この件については後に書くことにする。

何度か台湾に来ることが出来たがその結果、高鐵(台湾新幹線)も長距離バスもMRTも市内バスも乗ることが出来るようになっていた。
悠遊は便利である。

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ホテルからMRT淡水駅まで出てバス停に行った。
中正路経由漁人碼頭に行くバスはすぐ来た。
悠遊をタッチして乗り込んだ。

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河岸でバスを降りて、ゴルフ場や忠烈祠(淡水神社のあと)、滬尾砲台へ通じる舗装道路を進んだ。日も射さず雨も降らない歩行には良い日である。

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やがて右手に「和平公園・一滴水紀念館の看板が見えてきた。

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入るとすぐに、合掌の手を模した和平公園紀念碑があった。

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一滴水紀念館が出来てから、水上勉の童話「ブンナよ、木からおりてこい」の主人公ブンナの石彫が幾つも設置されていた。

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和平公園の一番奥まったところに「一滴水紀念館」があった。

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一滴水紀念館は、未だ見学したことがなかったし一昨日、福来レストランの会食に同席してくれた呉在鈞氏が一滴水紀念館で、この日は担当していると聞いたので来てみたのである。
早速、入り口で記念写真を撮る。

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囲炉裏に下がっている自在鉤の使い方を説明し、見学者に実際に操作させていた。
この古民家は平屋建てではあるが天井裏で蚕を育てていたと説明していた。
ここに再建される際に、下から見て説明できるように天井板は外してあった。
職務とは言え、しっかり勉強しているなと思った。

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広縁の突き当たりには水上勉の文庫と文物展示コーナーが設けられていた。
その隣は台湾の誇る文豪、陳舜臣の著書などが展示されている。

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一滴水紀念館は和平公園の一番奥に再建されているので、有名な台湾ゴルフ倶楽部のコースでプレイしている人が池越えに見える。

丁寧に案内してくれた呉氏に礼を言って和平公園の裏に出た。

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和平公園を出ると滬尾砲台のすぐ傍であった。

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淡水神社のあったところには新北市忠烈祠が建っているが、この日も10台程度駐車して散策している人もいた。

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河岸まで歩いてバスを待った。
河岸も木製の遊歩道が整備されており、自転車で行き交う人も多かった。

ホテルに帰ってちょっと休憩。


2013年12月07日

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癸巳淡水紀行(9)

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16日は台北の神旺大飯店のロビーに18時半に来るように言われていた。

MRT板南線の忠孝敦化駅を昇ったところである。

ロビーで待っていると呉さんが来た。
間もなく鄭先生が来た。

別動の稲垣さんファミリーの一人の到着が遅れるらしい。

ホテルを出て、別のビルに入る。
入った途端、2階へ上る階段に夥しい人の列が続いている。

その間をすり抜けながら2階に上がる。そこにはデパートの食堂のように満席のテーブルが並び、その間を料理を持ったウィエイターが行き来している。

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その通路を直進して左折し、その突き当たりのドアを開けてさらに進むと右手に丸テーブルが2つある部屋があった。

そこには鄭先生の叔父さん夫婦など何人かが待っていてくれた。

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お茶を入れて貰いながら、予め卓上に出ていた飲茶を突きながらしばらく待った。

ここは24時間営業で有名な京星港式飲茶(Citystar Banquet Hall)であると教えて貰った。
京星港式飲茶(CITYSTAR 24HR HK STYLE RESTAURANT)と言うのは香港式飲茶のことらしい。

やがて稲垣さんご一家が到着し、会食が始まった。

やや遅れて華子さんのご主人が見えたのでご挨拶した。

右隣に着席した鄭博士に、昼になぜ来なかったと質問された。
この席の前に、龍目井に住んでいた頃、赤ん坊であった私を抱いてくれたこともあるという博士の従姉妹の美華さん達と一緒に昼食をしようと待っていてくれたのだという。

博士は電子メールで連絡してくれたのだが、私は何も受信出来る端末を持たずに訪台したため連絡が取れなかったのである。

博士の携帯電話を借用してちょっとお話しさせて貰った。

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福田マキ子さんに届けてとお土産も預かってきた。

前回訪台したときに車で一日案内してもらった上に、動画を編集してyoutubeに上げてくれた博士の叔父さんの席は我々の左であった。

叔父さんは航海計器や無線機器の営業をしていたとかで英語が堪能である。

写真を趣味にしていることはウェブで知っていたが、アマチュア無線交信のほか飛行機やヘリコプタの模型を無線操縦しているという。
珍しい鳥の写真などの撮影のほかに趣味の広いことに驚いた。

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デザートの西瓜の切り方が見事だった。こんな切り方を見たのは初めてである。

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我々は明日帰国するので、皆さんにご挨拶して先にMRTで淡水のホテルに戻った。


2013年12月10日

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癸巳淡水紀行(10)

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生まれ故郷 淡水を訪ねて夢のような時間が流れたが、もう帰国する日となった。

純子は「何も予定がないなら淡水河リバークルーズも良いかもしれないよ。」と言ってくれた。
とりあえず、カフェに行って朝食を摂る。

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和洋華何でもある。
人の少なくなったところでゆっくり食べた。

窓の外はエントランスの駐車場で、前夜宿泊した観光客が何台ものバスで出発したあとである。
このカフェがあまり混まなかったのは、団体客は別のフロアでサービスしていたらしい。
部屋に戻っていると呉さんから電話があった。
一昨日、孫秀さんが周明徳さんのところへ連れて行ってくれることにしていたがホテルフロントの連絡ミスで行き違いとなり、面会が果たせなかった。
その周明徳さんに渡す私の名刺を呉さんの泊まる台北のホテルに郵送で届けて欲しいと言う。
呉さんが孫さんに手渡し、それを周さんに渡してくれるという話である。
今日、我々は台北経由で帰国するのであるから南京東路の国王大飯店のフロントに預けることにした。

そうと決まれば、祖母が公会堂の管理人を辞めてから、父の同僚教師の丹羽さんが転居したあと住んでいた、当時龍目井と言っていた辺りをゆっくり歩いてから台北に出ることにした。

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MRT淡水駅前の河岸公園に行った。
この辺りには当時施合発の埠頭があり、製材工場や鉄道の引き込み線があった。

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河岸には漁船が舫われている。
台湾の漁船は外弦を水色に塗り、舳先には眼が描かれている。
沖合で操業していて、漂流してもこの眼玉を描くことにより祖様のお導きで母港に帰れると信じられているのであろう。

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戦前は大きな中洲があった。で蟹や貝を採りに行ったりしたものであるが、今は水流によってなくなってしまった。
それでも、岸辺近くに砂が堆積して洲を作っている。

MRT淡水線は、ほぼ戦前の臺鐵淡水線に沿って建設されている。
臺北駅を起点、淡水を終点にして途中、大正街、双連、圓山、宮ノ下、士林、芝山巌、北投、江頭(関渡)、竹囲の駅があった。

MRTを建設するとき、竹囲と淡水の間に紅樹林という駅を設けた。
戦前から在ったマングローブの保護林になっていて、今は立派な木道も設けられている。
戦前は、駅からほど近い鼻仔頭に黄東茂の豪邸があった。
当時、淡水に煉瓦造りの洋館が三ヶ所あった。
紅毛城内の英国大使館、崎仔頂老街の達観楼、それに鼻仔頭の黄東茂の公館である。

達観楼は洪以南の屋敷であったが、洪以南が淡水街に移管されたが戦後放置されていた。現在は往時の姿で復元され、レストランとして運営されている。

黄東茂は五舎と呼ばれていたが、その屋敷には大門、車庫、守衛所、汽艇庫、遊泳池などのほか網を張ったゴルフ場まであったといわれるが、1939年に水上飛行場を造るために全て日本に買収され、鼻仔村とともに一切消滅した。
いま辛うじて、MRT淡水駅舎の河岸側から學府路につながる道路に鼻頭街という名が残るのみである。

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河岸公園では何人かが釣り糸を垂れていた。

この写真の左奥には未だに水上生活者の杭の上に建った小屋が数軒残っている。
しかし、新北市当局も積極的に廃棄するでもなく朽ちるのを待っているように見える。

正面の煉瓦建て倉庫は嘉士洋行の「殼牌倉庫」(シェル倉庫)と呼ばれる建物で現在、淡水文化基金会の社会大学が使用している。
1897年にイギリスのシェル石油が買い入れていたものである。

そして、右奧に見えるのが浮舟のついた水上飛行機を整備したり、格納庫に収容するために引き揚げた斜面(通称「スベリ」)である。
この辺りも再開発のために埋め立てられるという噂はあったが、未だ残っていた。

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そのスベリの辺りは未だに軍が管理しているようで近づくことは出来ない。

ここに水上機の基地が出来ると台湾南部の東港から水上観測機が配備され、気象観測を行っていた。
飛行場があるから気象観測が必要なのか、淡水に測候所が出来たから気象観測を行ったのか判らないが戦後、ここに国府軍空軍の気象観測隊が配備された。

かれらの住居として、街長宅の傍にあり日本人が引き揚げて使われていなかった公会堂洋館が仕切り板で細かい区画に分けて使われていたという。

そして、素人のタコ足配線による屋内配線から漏電し、私の生まれた公会堂洋館は焼け落ちてしまった。

引き揚げたのは6歳の頃であるから、ここを基地にしていた零式水上観測機が河面を滑走していた姿や、バンコクやシンガポールと内地を連絡していた川西式大型飛行艇が着水していたことも覚えているが、水上飛行場や測候所と公会堂の縁があったことは後に判明したことである。

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河岸公園にそって馬偕博士の頭像のあるロータリーに向かった。


2013年12月11日

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癸巳淡水紀行(11)

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戦前、新店街と言っていた中正路を馬偕博士の頭像のあるロータリーまで歩く。
当時、そこを小公園とか三角公園とか言っていた。
そこに至るこの辺りは淡水の老街と呼ばれているが、すっきり整備され過ぎて老街らしくない。
確かに路側にバイクが所狭しと並んではいるが以前の老街はこんなものではなかった。

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これは1995年に引き揚げて初めて帰ったときの写真である。
路上の雑踏の中央に老婆が坐って野菜を幾つか束にしたものを売っていた。

この通りに直交する狭い路にも店があり、その中をプロパンガスのボンベを幾つか載せたバイクが進んでいたのには驚いたものである。

戦前、黒川さんという人が新店街で塩屋を商っており、その2階を借りて住んでいたことがある。

父の描き残しておいてくれた略地図でも、私の朧気な記憶でも小公園からほど近く、河を背にしていたと思う。

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この街路図は1936年当時の淡水街であるが、多田商店に隣接して黒川義夫(酒類大蔵)の文字が見える。塩も酒も煙草も専売であったから商っていた。
多田商店と言うのは、曽城という番頭さんの居た大きな文房具店であった。

ところが下の写真は場所も向きも違うようである。

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この写真の右の店には、横楕円の看板が幾つか掲げてあるが、右の2つは「塩」、「煙草」と読める。
黒川さんのほかに当時、塩屋はなく間違いないと思う。
この店は隣接する建物と共に現存している。

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これが最近送られてきたものであるが隣、先隣の2階の柱を見ても明らかである。
この写真の向かい側に緑色で「淡水信用合作社」とあるのは区公所に隣接する信用組合であるから、塩屋の黒川さんは反対側である。

1936年の街路図とは位置も向きも違う。
おそらく、私たち一家が龍目井に引っ越し、その後三芝に転勤したのでその後、黒川さんの店が移転したのであろう。

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歩いていると福佑宮の前に来た。
今日は日曜日だからであろうか、怪しげな見世物が出て人が集まっていた。

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また馬偕博士の頭像のあるロータリーに来た。

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奇麗に外装されたレストラン横の路地を入ると長老派教会の尖塔が見える。

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馬偕頭像の正面あたりからロータリー越しに木下静涯画伯跡を見上げたところである。

嘗てこの辺り、立っている近くに安武先生の住居があり、その裏庭続きに住んでいた。

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この写真は2010年9月に帰ったときに、孫秀さんに住んでいたところを教えて貰ったときのものである。
孫さんの話では「亨利屋家族(ヘンリー・ペットショップ)」と書いた青い看板を掲げた家のあるところだったという。
その建物は建て替わっていた。
写真の左隅に「陶笛」の文字が見える。

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そのとき撮った是誠陶笛店である。
その横の路地を抜けると淡水河岸である。

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当日は日曜日だったので店を開けていた。

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店員さんが曲を吹いていたがさすがに上手い。
尾道にも来たことのあるホフマン氏のラバーダックが最近、台湾に来たらしく、大きなダックのオカリナも置いてあった。

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様々なデザインがあるようで、弦楽器のオカリナもショウウィンドウに並べてあった。

2013年12月13日

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癸巳淡水紀行(12)

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陶笛屋の横の中正路11巷という路地を抜けると環河道路に出る。
右に曲がった先の中正路15巷は電信局と郵便局の間の路地であった。

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戦前からここには淡水郵便局があった。
いま、中華郵政の環河道路に面した建屋はスターバックの郵便局カフェになっている。
郵便のイメージカラーは日本では赤、ドイツでは黄であるが台湾では緑である。

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ここに幅20メートル程度の砂浜が残されている。
戦前、気象観測にあたっていた複葉・単浮舟・福座の零式水上観測機が着水に転覆してロープを結んで、ここで引き上げ作業が行われたことを思い出した。

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その先にも木陰のカフェが営業している。
大きな榕樹があるので「榕堤」という看板が掲げてあった。
右に隣接しているのは観光客用のインフォメーションセンターらしい。

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亜熱帯なので椰子の木が高い。
戦前も街のなかに高い椰子の木が立っていた写真がある。

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「榕堤」の河岸側はインドネシアのバリ島を思わせる外装であった。

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榕樹の陰に入ると、昼間でも暗い。
枝から下がっている髭根が地表に届くと、そこから根を張りぐんぐん大きくなって幹になる。
日陰で語らったり釣り糸を垂れている人も居た。

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ハイビスカスは四季を通じて咲いているようである。
仏桑華とも言うが、台湾のハイビスカスはハワイの物ほど大きくなく、色も赤のみである。
雌蘂が高く突きだしているのが特徴で、ランタンのように細かく別れた花弁が反り返ったものも栽培されている。

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中正路に出た。
観潮廣場という野外ステージが設けられていた。
正面は淡水藝術工坊である。
手前の潅木に沢山取り付けられているのは発行ダイオードらしい。

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観潮廣場ではステージの準備が行われていた。
日曜日なのでイベントがあるらしい。

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少し戻ると長老派教会の正面に出た。
以前は路地の奥であったが、中正路に面した建屋が撤去され、階段とスロープのついた廣場になっていた。

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馬偕博士の頭像のあるロータリーはすぐ傍である。
手前のAMMANDA喫茶店のある場所には、鄭博士の生まれた興亜醫院があった。

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MRT淡水駅でコインロッカーに入れておいた手荷物を持って台北に向かった。

中山駅傍の牛乳大王で一休みして、台北駅傍の国光客運のバスで桃園国際空港に向かった。

桃園の第二ターミナルで広島空港行きのチャイナエアに乗って帰国した。

淡水の方々に歓待された素晴らしい故郷帰りであった。

皆様に心からお礼を申し上げます。


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