両親が残しておいてくれたもののなかに、父の原稿を母の字で謄写版の原稿用紙にペン書きしたものが残っている。
苦難を越えてきた我が家の記録「轍の跡」である。
表紙に続いて二枚目に次の五行がある。
「越えて来た、幾山河。
轍のあとは、遠い。
今、静かに、来し方を憶ひ、
よろこびと、苦難を共にした
時子に感謝を捧げる」
時子とは母の名である。
三枚目には
「第一編、紀夫、生い立ちの記(誕生から大学入学まで)」
とある。
四枚目からページがうたれている。
そして22ページまで第一編の本文で、その次から年表が9ページ続いている。
本文の末尾は
「紀夫の大成と、家の幸福を祈念し乍ら
昭和三十四年十月二十五日 記す。
研一」
となっている。
昭和三十四年と言えば、私が大学に入学した1959年であり、10月は父が配管工から勤めて紆余曲折の末、水道会社の役員になった年で、戦後 衣食住の全てを失って家族を連れて原爆砂漠の広島で肉体労働に耐えて生き抜き、やっと過ぎ越し方を振り返ることが出来るようになった時期である。
これを見るたびに大成しなかったことを申し訳なく思い、もっと親孝行すれば良かったと反省する。
人に見て貰うものではないが、自身で記憶のないことだからご免を被って、2ページほど転記する。
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紀夫、生い立ちの記
昭和十五年二月十日の夜明、台北州淡水街砲台埔三八、淡水公会堂の奥の一室で生まれた。居合わせた者、広川研一、原田ユク、山本 保、その他で産婆は市川ヲコさんと言って一人息子積君を大東亜戦争の初期に戦死させた人で、引揚前、背の腫瘍の為亡くなられた。紀元二千六百年祭の前夜祭に生まれたのにちなんで、紀夫と命名した。
食べ初めの朝、祝の膳を枕頭に持って行ったら時子が泣いた。誕生祝には沢山のお祝をもらった。暫くしてうどんを柔く炊いたのを食べさせたりしたが、何しろ大事にし過ぎたせいか、胃腸が弱くよく医師の李樹林の厄介になったものである。
五月の端午の節句が来て、公会堂の高台に鯉幟や吹流しを立てた。資生堂の広瀬さんその他から贈られたものである。前日の夕方、小栗兄弟に手付ってもらって、柱を立てたが、その穴に埋めたのか、眼鏡をなくした。表側の平生若い者達が御飯をたべて居た部屋に武者人形を飾った。ばあちゃんや、佐賀の兄や、友人たちから贈られたもので大層賑かなものであった。松田校長の奥さんが古い武者人形まで持って来て呉れた。
最初黒川さんの二階に住んで居たが三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住み心地のよい家であったが、お産が近くなってからは、ばあちゃんの公会堂に来て居た。暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこにうつった。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じて居た。
窓側にかけひをかけ、縁先に四角な水槽を据えて、金魚を飼っていた。
当時ばあちゃんは、公会堂の管理人としての街役場の嘱託で、かたわら、宴会、会合等の仕出しをやり、板場や本島人の下婢も居たし、仲々羽振りがよく、交際も広く、気前もよし、元気のよい「公会堂の小母さん」で通っていた。
赤ちゃんが生まれて、抱きかかえられるようになるのを待ちかねて、方々え抱え歩いては自慢して廻った。戦爭の初期で街はいきいきして居た。軍人にも顔が広く、有名な「兵隊小母さん」でもあった。
遊んで廻るようになった。大きな機関車や、尻尾にセルロイドの二枚羽根を付けた金属製の飛行船があった。
(続く)
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上掲の写真は当時の新店街で、右に塩とか煙草とか楕円の看板の出ているのが黒川さんの塩屋である。
二階にベランダの見えるところに住んでいた。
この建物は持ち主や店舗は変わっても隣接する建屋と共に現存している。
今でも、楊芝琳さんが写真を添付したEメールで状況を教えてくれる。
有難いことである。