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来し方 アーカイブ

2013年03月11日

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来し方(0)

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別のブログで2005年の5月に「生い立ちの記」を書き始めた。

私が戦後初めて、生まれ育った台湾の淡水に行ったのは1995年3月のことで、そのときはクルーズ船で航き、基隆からタクシーで紅毛城まで行き、まだ開通前のMRT駅前をちょっと歩いただけであった。
その次に行ったのは2002年末から翌年に掛けて別のクルーズ船で、やはり基隆に行ったときで同じように日帰りであった。
空路渡台したのは、その一年後に福岡からルックJTBの3泊4日で、このとき初めてMRTに乗ったのを憶えている。
2004年頃から毎年のように台湾を訪れ、淡水の街を歩き回ったが、引き揚げたのが6歳になったばかりのことでもあり、龍目井と言っていた地名がどの辺りか、何処が新店街なのか、砲臺埔が何処なのか皆目判っていなかった。
街の主要部はすっかり変わっていたが、戦前の老街の面影を残すところもあった。
丘の上に登る石段があれば公会堂に通じているのではないかと朧気な記憶を辿ってみたりした。
当時、家族として一緒に住んでいたマキ子さんや、ブログで知り合ったボストンの博士やカリフォルニアのLCさん等に教えて貰いながら当時のことが随分判って来た。

2010年には博士に台北まで迎えに来て貰って、公学校であった淡水國小や、鎮公所(街役場)、それに三芝まで連れて行って貰った。
一緒に行った横浜のKGさんにもお世話になった。

それから、このブログで散発的に当時のことを書いてきたが、淡水の新店街のクリスチーナは、新北市淡水区となった現地の状況を知らせてくれるようになって喜んでいる。

他のカテゴリと重複するが、新しいカテゴリを作って当時の状況を眺めてみようと思う。両親や祖母が渡台した当時のことは関連が出てきたところで触れることにして、私が生まれたところから話を進めることにする。


2013年03月12日

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来し方(1)

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祖母、原田ユクは1923(大正12)年に、当時6歳の母、時子を連れて、淡水市営の海水浴場「和樂園」を任されていた親戚の浅野タツを頼って渡台した。
そのとき祖母は30歳であった。
1930(昭和5)年、淡水街の嘱託となって公会堂の管理にあたり、仕出し屋を経営していた。

父、研一はその年に佐賀師範学校を卒業して、横田尋常小学校に赴任したが、1937(昭和12)年に湊小学校に転勤となり、同年暮れに台北州庁の吉森八郎氏を頼って渡台し、年が明けて淡水公学校に勤務し、9月に判任文官に任官した。

当時、独身の教員は公会堂奥の右端の小部屋で食事をしていたという。
先輩教師の小栗常寿氏が取り持ったのであろうと思われるが、母と縁談が決まった。

話が決まってから、お膳の下に卵の特配があったらしい。

引き揚げのとき、アルバムから剥がして持ち帰った写真のなかに公会堂の写っているものはなかった。
ずっと後になって、父の教え子の呂添得氏が何度も、その後の淡水街の写真を送ってくれたが、公会堂の写真と言えば焼け跡が放置されて、お化け屋敷のようになっているものばかりであった。
その状態はしばらく、その状態だったらしく訪台した人の報告に貰ったカラー写真も何枚か残っている。

上掲の写真は、2009(平成21)年に訪台したときに滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)の学芸員に案内してもらって、その時掲示してあるものを撮影したものである。

このとき管理棟まで案内して、公会堂が建っていたところは淡水鎮の図書館の建っているところだと教えて貰った。
淡水古蹟博物館に礼状は出したが、大変お世話になった学芸員の姓名は未だ判らない。

2013年03月13日

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来し方(2)

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1939(昭和14)年5月20日に台湾神社で両親の結婚式が行われた。

佐賀県から父方の祖父母 慶太郎、オツも出席した(前列左)。
媒酌人は公学校長 松田常己、サト夫妻であった(新郎新婦の両側)。
母方の祖父が居なかったので、淡水街長の中原 薫氏に務めて貰った(前列右から2人目)。
当時、祖母の末弟 山本忠治夫妻(後列、神主の左)も、海水浴場「和樂園」の浅野タツ(同右)と共に出席している。
祖母のもう一人の弟 山本 保氏も淡水公学校の裏に住んでいたが、この写真に写っていないところを見ると、このあとで渡台したのであろう。
実質的に二人の仲を取り持った小栗常寿氏(後列右端)も同席してくれた。

このときに淡水神社で挙式したかったに違いないが、淡水神社の竣工、鎮座式は同年3月11日で僅かの差で実現出来なかったことと思う。

このときの新居は新店街の黒川さんの二階を借りていたのかと思ったが、マキ子さん(上の写真で祖母と街長の間)に聞いたところでは、公会堂から近いところにあった淡水小学校や女子公学校の近くにあった教員用宿舎に入っていたそうだ。

その後、新店街の黒川さんのところに移転したらしい。

私の戸籍簿によると
「昭和拾五年弐月拾日、臺湾臺北州淡水郡淡水街淡水 字新店 参拾七番地で出生
 父 廣川研一届出 同月弐拾日受附 入籍」
とある。


2013年03月14日

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来し方(3)

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両親が残しておいてくれたもののなかに、父の原稿を母の字で謄写版の原稿用紙にペン書きしたものが残っている。

苦難を越えてきた我が家の記録「轍の跡」である。

表紙に続いて二枚目に次の五行がある。

「越えて来た、幾山河。
 轍のあとは、遠い。
 今、静かに、来し方を憶ひ、
 よろこびと、苦難を共にした
 時子に感謝を捧げる」

時子とは母の名である。

三枚目には

「第一編、紀夫、生い立ちの記(誕生から大学入学まで)」
とある。

四枚目からページがうたれている。

そして22ページまで第一編の本文で、その次から年表が9ページ続いている。

本文の末尾は
「紀夫の大成と、家の幸福を祈念し乍ら
 昭和三十四年十月二十五日 記す。
 研一」
となっている。

昭和三十四年と言えば、私が大学に入学した1959年であり、10月は父が配管工から勤めて紆余曲折の末、水道会社の役員になった年で、戦後 衣食住の全てを失って家族を連れて原爆砂漠の広島で肉体労働に耐えて生き抜き、やっと過ぎ越し方を振り返ることが出来るようになった時期である。

これを見るたびに大成しなかったことを申し訳なく思い、もっと親孝行すれば良かったと反省する。

人に見て貰うものではないが、自身で記憶のないことだからご免を被って、2ページほど転記する。

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 紀夫、生い立ちの記

昭和十五年二月十日の夜明、台北州淡水街砲台埔三八、淡水公会堂の奥の一室で生まれた。居合わせた者、広川研一、原田ユク、山本 保、その他で産婆は市川ヲコさんと言って一人息子積君を大東亜戦争の初期に戦死させた人で、引揚前、背の腫瘍の為亡くなられた。紀元二千六百年祭の前夜祭に生まれたのにちなんで、紀夫と命名した。
食べ初めの朝、祝の膳を枕頭に持って行ったら時子が泣いた。誕生祝には沢山のお祝をもらった。暫くしてうどんを柔く炊いたのを食べさせたりしたが、何しろ大事にし過ぎたせいか、胃腸が弱くよく医師の李樹林の厄介になったものである。
五月の端午の節句が来て、公会堂の高台に鯉幟や吹流しを立てた。資生堂の広瀬さんその他から贈られたものである。前日の夕方、小栗兄弟に手付ってもらって、柱を立てたが、その穴に埋めたのか、眼鏡をなくした。表側の平生若い者達が御飯をたべて居た部屋に武者人形を飾った。ばあちゃんや、佐賀の兄や、友人たちから贈られたもので大層賑かなものであった。松田校長の奥さんが古い武者人形まで持って来て呉れた。
最初黒川さんの二階に住んで居たが三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住み心地のよい家であったが、お産が近くなってからは、ばあちゃんの公会堂に来て居た。暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこにうつった。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じて居た。
窓側にかけひをかけ、縁先に四角な水槽を据えて、金魚を飼っていた。
当時ばあちゃんは、公会堂の管理人としての街役場の嘱託で、かたわら、宴会、会合等の仕出しをやり、板場や本島人の下婢も居たし、仲々羽振りがよく、交際も広く、気前もよし、元気のよい「公会堂の小母さん」で通っていた。
赤ちゃんが生まれて、抱きかかえられるようになるのを待ちかねて、方々え抱え歩いては自慢して廻った。戦爭の初期で街はいきいきして居た。軍人にも顔が広く、有名な「兵隊小母さん」でもあった。
遊んで廻るようになった。大きな機関車や、尻尾にセルロイドの二枚羽根を付けた金属製の飛行船があった。
(続く)

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上掲の写真は当時の新店街で、右に塩とか煙草とか楕円の看板の出ているのが黒川さんの塩屋である。

二階にベランダの見えるところに住んでいた。

この建物は持ち主や店舗は変わっても隣接する建屋と共に現存している。

今でも、楊芝琳さんが写真を添付したEメールで状況を教えてくれる。
有難いことである。

2013年03月15日

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来し方(4)

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(承前)

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夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。或る日、部屋の中ではしゃいで居て、応接台の角に、こめかみを打ちつけて、肉が切れたので、慌てて李樹林の所に連れて行ったら、小さなかすがい見たようなもので、カチンと縫い合わせた。泣くだろうと思っていたが泣かなかった。
母親が知らぬ間に、バナナを皮ごと食べて、ヒマシ油をのませ大騒ぎしたのもこの頃である。虫類が好きであった。ある時、「とんぼに口があるの」と母親に尋ねた。面倒臭いので、「無いよ」と答えたらしいが、やがて大きな声で泣き出した。「とんぼ口があった」と言う。トンボをいぢって居る中に指を噛まれたのである。
私の勤めていた公学校に、母親と辨当を持って来るようになった。その日は一人で来たのだろう。職員室と教室の間に池があるが、これにはまった。女教員の陳氏速英、看護婦の李氏抱に引き上げられ、毛布に包んで、連れ帰ってもらった事がある。
戦争がはげしくなり、出征兵士の歓送迎がひっきりなしにあった。その度に公学校ででも、バンドを先頭に送迎の行進を行った。先頭の校旗の傍で指揮して行く私を家の門で見ては、如何にも誇らしげであった。
この頃、出征兵士を送る歌の最後の一節に「いざ行け、つわもの、日本男児」と言うのがあって、これを覚えては時折家の中でも、一寸高いところがあればそこに上がって「礼」をして「日本男児」とやり、又「礼」をした。学芸会の積りだったろう。
(続く)

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李樹林医師のことはカリフォルニアのLCさんがメールで教えてくれた。

毛布にくるんでくれたと言う陳氏速英先生は当時、父が浜崎(唐津)の伯父の処に送った公学校卒業記念アルバムに校長始め諸先生と一緒に撮影したで知った。
もし、現地で持っていたものなら、引き揚げのときに置いて帰ったものであろう。

陳氏速英、李氏抱などのお名前をご存じの方があったら教えて下さい。

2013年03月16日

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来し方(5)

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(承前)

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この龍目井の家で二人目の恭子が生まれた。昭和十七年の十二月八日、開戦記念日である。四才位の時、私が田舎の小基隆と言う処の三芝国民学校に転勤になり、そこの教員宿舎に引越した。田舎で、内地人も数える程しかなく、宿舎は学校の校庭の傍にあり隣に高鍬と言う教員、それから中島校長、道路の向側に鄭石と言う本島人の教員が居た。小遣の陳水路が毎日近くの井戸から水を汲んで呉れた。家の前と横は、広い野菜畑で、ここで茄子、きうり、いんげん豆、玉ねぎ、落花生まで作った。
昼食時には、教室へ辨当を持って来た。辨当箱でなく、丼を風呂敷で包んだのを、今にも解けそうな恰好ででもって来る。時には級長が運んだ。
ある時、授業中、生徒がざわつくので、気がついてみたら、欠席児童の空いた席に、紀夫がちゃんと坐っているのである。廊下側の窓下の空気抜きから這って入って来たものらしい。
戦争がぼつぼつ悪くなった頃で、すべて物資が乏しかった。撃滅米英、頑張りましょう勝つまではの頃で、子供の服も手製、それも再生の改造したものが殆どである。寒い朝であった。私が指揮台の上で全校生徒に話をしていると、生徒の視線がおかしいので、気が付いてみると、指揮台の私の傍に上がって来て、私の方を見上げては、いと満足げであった。それが何と大人の着物を作り直した黒っぽい縦縞のどてらみたいなものを着てゐたのである。菓子類も殆どなく、近所にある小さな焼菓子工場に、粉を持って焼いてもらったりして居た。
昭和十九年、私は教頭になり、学級を持たなくなったが、青年学校の軍事教練などで忙しかった。学級数十六で、内地人教員は校長、私、葛西、高鍬、山城(後に沖縄テレビ社長)、西辻、渋谷、位であった。
戦争ブームで、生徒たちが、紀夫を部隊長と呼んでついて廻った。部下は陳源壽、施天生、陳金水、等で、この連中は私が応召の時、襟章が真赤なのをみて、がっかりしたらしい。吾等が敬愛する広川先生は将校に非ず、兵隊も兵隊「赤兵」だったのである。その年の六月に召集が来て、台南の第四部隊に入隊することになった。
淡水の街に出て、紀夫を連れて、建設当時奉仕した淡水神社に参った。一夜、資生堂の広瀬さんの処に泊めてもらひ、翌日淡水を発ったが淡水駅で母親と見送って呉れた。私の出征後、暫くそのまま宿舎に居たが、不安なので、淡水に出て、母親は郵便局に為替係として勤め、郵便局の宿舎に住んだ。
淡水にも空襲があり初めた。その度に防空頭巾を被って、防空壕にかけこんだそうでサイレンが鳴るのをひどく怖がって居たそうである。その頃毛糸で編んだ飛行帽をかたどった茶色の帽子を被って、兵隊達に可愛がられて居たそうである。
その後、戦況は愈々悪くなり、時子は郵便局を辞め、烽火の市川さんの隣の家に移ったが、内地人子弟の淡水小学校でも、学童疎開で北投の山の中腹にある善光寺に行くことになり、ばあちゃんと時子は、当時の小学校の伊之坂校長に乞われて褓母としてついて行くことになった。
(続く)
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三芝の住所は
「三芝庄字埔興百十八番地」
であった。
三芝のことは比較的憶えている。
母がスポンジケーキを焼いたものを、盆に載せて仲の良い教員仲間のところに持って行けと言われたことがある。
それを私は陳水路がポンプを押しているところに差し出して、ケーキを濡らして届けたらしい。
帰るとすぐに、そこの女の子が飛んできて「小母さん、あのケーキは初めから濡れていたのですか?」と言うので、すぐに露見してしまった。
田舎なので夏には大きなホタルが沢山飛び交っていた。
蜜煎工場でザボンの皮を砂糖で煮る甘い香りが流れてきたことも憶えている。
母が勤労奉仕に出て、鎌で足に怪我をしたこともある。
銀色に塗った木製の三輪車に乗って、学童に押して貰った気もする。部隊長扱いされていたのだろうか。

郵便局の宿舎は
「淡水街(龍目井)(郵便局分館)」
であった。郵便局の私書箱みたいなものだからこれで良いのであろう。
郵便局の宿舎には市川ヲコさんが住んでいたと、マキ子さんに聞いたような気がする。
通信隊の兵隊が数人居て、賄いの奉仕をしていた。
そのなかに眼鏡をかけた兵隊が居て、妹の恭子は「お父さん」と言っていたらしい。
丸眼鏡を掛けていたことしか憶えていなかったのである。

紅毛城近くの烽火の住所は
「烽火十四」
であった。

烽火に移っても、空襲警報が鳴ると郵便局前に掘られた防空壕に走り込んだ。
妹は三つになるかならないかであったが、防空壕から出たがって「空襲警報解除よ」と叫んだりしていた。
民家でも、家の前庭を掘っていた。
これは防空壕とは言っても、坐って居ることの出来るくらいに掘って、上に蚊帳を掛けて土で覆っただけのもので、もしこれに入っていて近くに爆弾が落ちたら圧死してしまうようなものであった。
これに対して郵便局の防空壕は非常には防空指揮所になるほどの本格的防空壕であった。子供も弾片から頭部を護るように綿の入った防空頭巾を携行していた。
上記の「毛糸で編んだ飛行帽をかたどった帽子」は良く憶えている。茶色と言うよりも駱駝色であった。
空襲警報が鳴るとこの上に防空頭巾を被ったのであろう。


2013年03月17日

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来し方(6)

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(承前)

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此処でも数度の空襲を受けたそうであるが、他の附添の先生や、生徒達と一緒に終戦此処に居た。敵機の銃撃で、寺の近く松林がバリバリ焼けてくるのが、とてもこわかったと言って居た。
台南の部隊に居たのは僅かで、間もなく、枋寮の近くの山麓に出た。時折紀夫や、恭子の写真、三人で北投の温泉の川で写った写真などを送って呉れた。部隊暗号の撤宵勤務や、立哨などの時、今頃はどうしてゐるかなと頻りに案じた。
昭和二十年九月、台南部隊も解散となり、淡水に復帰した。間もなく、中国兵が大陸から金たらひや雨傘をもって進駐してきた。いろいろなデマがとび、物騒な空気となった。その頃油車口にあった海事会社に資材係として入ったり、人の引揚荷物の運搬をやって、中国憲兵につかまったりした。
昭和二十一年、内地人の送還が本格化して、俄に、その手続き、家財の整理、携行品の荷造りなどで忙しくなった。家財の大半を処分しなければ、持って帰れないと言うので、親しくして呉れた本島人達にやったり、二束三文に叩き売った。黒紋付きの上下も売った。淡水郡教育会から表彰された時の静涯さんの掛け軸もやった。時子の晴れ着もみなやったり、売ったり、芋や米に変わった。
三月中頃、物情騒然たる中にも、教え子が尋ねて来たり、送別会を開いて呉れたり、淡水駅出発の折は駅頭に街の幹部層、友達、教え子などが見送って呉れた。
(続く)

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父は応召、司令部附きの暗号班で勤務していたが、マラリアに罹り腎臓結石もやり、環境の悪い野戦病院に寝ていた。
我々家族に断片的に話すことがあっても応召中のことは殆ど話していない。
父の亡くなったあと、「兵隊」というメモを見つけた。
台湾でも北部と南部では、気温湿度に大きな差があり、台南の部隊に行って、ひどい湿度と気温に面食らったなどと書いている。
折を見てこのメモにも触れることがあろう。

父が応召したのは、1944(昭和19)年6月のことであった。
聯隊本部の暗号班に配属になったが、その年の11月にマラリアに罹病し、腎臓結石も患い、12月に発作、2年くらい続いた。

残った家族が学童疎開で北投の善光寺に行ったのは1945(昭和20)年5月のことであった。
台南部隊は9月1日に現地解散」となり、同日召集解除になった父は家族の疎開先の北投に立ち寄り、淡水に帰着した(烽火十四)。

写真は、父が応召した台南第四部隊(蓬一九七〇二部隊)の歩兵第二聯隊の営門である。下辺に父の字で「昭19.5 応召した処・・、第四部隊蓬102部隊、聯隊本部暗号班、間もなく台南州潮州付近に出営」とペンで記入されている。


2013年03月18日

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来し方(7)

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(承前)

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台北の総督府に集結した前後から時子が、発熱で寝込んでしまひ、台北駅までの引揚行列の時は荷物と一緒に荷車に乗せて哀れであった。台北駅前広場で汽車を待つ間、台湾の思ひ出に、まんじゅうとアイスクリームを小供達にも食べさせた。
基隆の岸壁で二、三日仮泊し、中国憲兵の携行品の検査があって、小さな海防艦の船艙に押し込められた。三月の末で海は荒れて、坐っても頭を打つようなせまい船室で、がぶられ、一同死人のよう態であったが、子供達は割と元気であった。
三月二十七日、鹿児島港に入り、天宝山小学校に収容され、味噌汁をご馳走になった。気温は低く、物価は高かった。博多駅に夜明に着いたら、構内に乞食がごろごろして居て、やれやれと思った。全国に散って行く永い友達と泣いて別れた。
浜崎の郷里に落着き、永らく一緒に居たマキ子は笠野へ帰った。紀夫が一年生入学で、町並みの裏手の田圃の中にある浜崎小学校に入った。この学校は新築当時、私が二十三か四の頃勤めた学校で、しかも紀夫の担任が、その当時の教え子の宮崎操である。全く妙な廻り合わせだ。学校の川土手には桜並木があり、小川の面に散り流れて奇麗であった。白いテント地で、中に木箱を入れた手製のランドセルを背負って、この土手の道を通ったものである。この頃、ランドセルごと学校において帰ったり、何か儀式のある日、時間がはっきりせず、出かけたら、間もなく帰って来る友達と出会って帰ってきたりした。成績は上の部で、言葉がきれいだとほめられた。
隣の古賀さんに義友君という体の悪い子が居たし、先隣り(反対側)の広川フミの家にも子供が居て、何か子供の事で母親同士が、いがみ合ったりした。
向ひ側に、亡くなった堤次郎という小父さんが、錻力屋をやって居たが、食物の乏しい頃に、時折団子などを子供に呉れた。柔和な口数の少ない人であった。私の母が、すぐ前の家ではあり、弟のように親しくしていた人だ。
猫の額程の僅かな空地にも、川岸にも、道路のへりにまで競って芋を植え、南瓜を育てた。すべて衣食住物資の乏しい時に方々から引揚者が身寄りをたよって帰って来るので、引揚者は寄生虫的な存在で白眼視されたものである。
常食も粥はいい方で、得体の知れぬ茶色の粉で平たい団子のようなものをこさえ、これを焼いたり、汁にしたりして食べた。子供達も気兼して、そっと茶碗を置いたりした。海で地曳網が曳ける時、行っては形ばかりの手伝いをしては雑魚を少し許りもらって帰って食べたが、小いわし、かなぎ、何でもおいしかった。
我が子の初めての運動会が来た。勢こんで応援したが、さっぱりであった。私が運動好きであったので意外だったのか、宮崎操が申訳のなさそうな顔をした。
私は横田の阿部さんの世話で一時、吉村義太郎商店の山師となって材伐監督に山の中に行ったが百姓屋の麦飯をたらふく食べられ食事が何より楽しみであった。間もなくそこで文具、玩具などの卸を始め、唐津のおくんちの時、請けて露天を出しに行った。売れ行きはまづまづで夜更けに松原を荷車曳いてばあちゃんと帰って吉村で慰労酒を振舞われた。時子が流産をして唐津に入院したのもこの頃である。
五人連れで、いつまでも浜崎の兄の処に厄介になっていても、時々女同士で気まづい事もあったりして具合が悪いので、当時、広島市水道に勤めていたばあちゃんの弟の山本忠治氏から招きがあり、ばあちゃんも山口筋では親戚も多く、その方を望んでゐる様子なので、留めるのを振り切って、山本氏の岩国に移った。昭和二十一年の暮で雪が降っていた。ここで紀夫の小学校遍歴が始まったわけである。紀夫は岩国東小学校に転校した。
(続く)

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写真は毎日新聞社が昭和五十三年九月五日に発行した「別冊 一億人の昭和史:日本植民地史[3]台湾」の87ページの写真に父が書き込んだものである。
「昭和21.3.22 淡水を出てここに集結、基隆出航便を待つ」として矢印を一階まで引いている。

マキ子さんを含めて、各自で持てるものだけ持って台北駅から基隆に向かった。
母が熱を出して寝込んでしまっていたので、何処から借りたのか荷車に荷物と一緒に父が曳いて行った。
台北からの列車は有蓋貨車に乗せられるだけ乗せられて行った。無論、満員電車のように建ちっぱなしである。

基隆の岸壁で二,三日仮泊した記憶はない。
ただ、海の上に仮設された便所から揺れる海面が見えて気持ち悪かったことは憶えている。
海防艦三十四号の艦尾に、爆雷庫か弾薬庫を改装したような狭い区画に入れられた。
艦が動き出したら、父が開閉蓋のついたハッチに上げてくれ「紀夫、あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言った。
途中で乗組員が握り飯か何か持ってきたが、ひどい船酔いで誰も手を出す者はいなかった。
皆、酔って吐くので、父は何度も暴露後半に持って上がった。
その辺りに撒くと波が洗い流していたようだった。
鹿児島に上陸して小学校の教室のようなところに収容されたが、鹿児島市を調べて見ると天宝山小学校と言う校名は見当たらない。甲突川に近く天保山中学校というのがあるがここかも知れない。

マキ子さんとは博多駅で別れて、彼女は山口県熊毛郡の実家に帰っていった。
博多の駅には乞食が沢山居たのを見た。
子供の乞食は食い物を貰ってはボスの処に持って行っていた。

三月末に引き揚げて、4月に小学校に入学したので、その辺りから憶えていることも多くなっている。
隣の義友君というのは憶えているし、浜で地曳き網を曳くときに行ったこともある。
線路敷きに生えている鉄道草というのを摘んだこともあるし、海水を汲みに行ったことも憶えている。
そのとき母は「砂糖はないだろうと思ったけれど、塩もないなんて・・」と言って居た。
本家の向かいの堤さんのことは憶えている。
家で採っていた新聞を届けたりしていた。
堤さんの家の裏に、愛知県犬山市の明治村にあるような枡席の芝居小屋があって、旅芸人の一座が来たりしていた。
母は洋裁も和裁も出来たが、田舎のことで頼みに来る人も居なかった。

山笠で有名な唐津くんち(宮日)に父が露天を出したときは付いていった。
隣の露天で山椒魚の粉と称するものを売っていたが、盥に入れていた山椒魚が逃げ出して溝を追っかけたり大変であった。

岩国に引っ越した頃、両親はどうやって子供達を養うか大変だったに違いない。
転校しても教科書もない。
父は友達から教科書を借りておいでと言って、疲れて帰ったあと大学ノートに書き写してくれた。
國語も、算数も、理科も、社会科も・・・・・


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