父のこと(1:出生から中學入学まで)
父のことを少し書いてみようと思う。
父は1912(明治45)年3月24日に本籍地の浜崎で生まれた。
佐賀県東松浦郡浜崎村である。
万葉集にも詠まれている鏡山と玉島川の間の半農半漁の村であった。
日本三大松原の一つ、全長5キロメートルの虹の松原の東にあり、松原の西には龍造寺氏の治める唐津藩の城下町である唐津町があった。
明治維新のとき廃藩置県にともない唐津県となったが、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県とめまぐるしい変遷ののち佐賀県が長崎県から独立した。
唐津は1889(明治22)年の町村制施行で唐津町となったが、1932(昭和7)年に周辺の村を合併し、唐津市となった。
浜崎村は1922(大正11)年に町となり、1956(昭和31)年に玉島村と合併して浜崎玉島町となり、1966(昭和41)年に浜玉町(はまたまちょう)となり、2005(平成17)年に唐津市に合併された。
本籍地の住所表記は浜玉町(はまたままち)浜崎である。
祖父は廣川慶太郎、祖母は肥前の松浦寅太郎の長女里勢(リセ)であり、長男 浚治、長女 壽賀(スガ)、次女 敏(トシ)がいたので父は次男であった。
平成3年に刊行された浜玉町史(資料編)によれば、藩政期に桝屋という醸造業を営んでいたらしい(廣川利兵衛)が、半右衛門の代に廃業し、理兵衛、半右衛門、喜兵衛のあとを次いだのが慶太郎である。
その春、浜崎から山中に入った七山村の池原に出来た小学校長に赴任するため、4月に父の宮参りを済ませた翌日、一家で移転した。慶太郎38歳、里勢30歳であった。
俳句を嗜んでいた浚治伯父は「児を入れて畚(フゴ)の片荷や 山桜」という句を詠んでいる。
校長兼住み込みの小使いさんのようで、大きくもない校舎を逃げ回る父を祖母が箒を振り上げて追いかけたことがあると、父が笑いながら話してくれたことがある。
その2年後の1914(大正3)年2月に櫻島が大爆発し大隅半島と陸続きになり、第一次大戦が勃発し日本は青島のドイツ軍を攻撃した。
1918(大正7)年、父は池原小学校に入学したが、1923(大正12)年4月に玉島小学校に転校した。
翌年唐津中学校入学を控えて祖父が玉島村の玉島小学校に通わせたのだろうと思っている。
父の下に、妹 田鶴と弟 功が生まれたが二人とも幼くして亡くなった。
1924(大正13)年4月に唐津中学校に入学し、虹の松原を自転車で通学した。