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淡水から広島までの一千浬 アーカイブ

2012年01月05日

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淡水から広島までの一千浬(1)

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私は1940年2月に淡水で生まれ、1946年3月までそこに居た。
その間、1943年3月に父が三芝国民学校に転勤したので三芝(小基隆)に転居していたが、淡水に戻り、1944年10月12日の淡水空襲にも遭っている。
1945年5月には、淡水国民学校の学童を北投庄の善光寺に疎開させることになり、その祖母や母が祖母として同行したこともある。
台南の部隊に応召して、マラリヤに罹病しジャングルの野戦病院に入院していた父も9月には淡水に帰宅した。
翌年3月に台湾総督府に集結し、基隆から鹿児島に引き揚げ、その翌月、本籍地で小学校へ入学した。担任は父の教え子であった。

引き揚げたときは満6歳になったばかりで、記憶も断片的なものであるが思い出すことを順不同に書き綴ってみようと思う。

2012年01月06日

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淡水から広島までの一千浬(2)

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父は唐津中から佐賀師範に進み、1930(昭和5)年から郷里で、横田尋常小学校、浜崎尋常小学校の訓導を勤めていたが、1936(昭和11)年の春に唐津の先の湊尋常小学校に転勤になった。

次男であった父は、何れはどこかに出なければならいと思っていたのであろうか? 翌年、台北州庁に勤めていた吉森八郎氏を頼って門司港から渡台した。

1937(昭和12)年3月に淡水公学校に勤務し、9月に臺湾総督府の教員免状を取得して判任文官である台湾公立公学校訓導となった。

母は幼くして父親をなくし、祖母に連れられて1923(大正12)年に渡台し、淡水小学校に入った。
祖母は当初、淡水街の経営する海水浴場「和樂園」の運営を任されていた伯母、浅野タツのもとに身を寄せていたが、懸命に働いていたようである。

昭和天皇即位大典(1928年11月10日)記念行事として砲臺埔の淡水稲荷神社隣接地に淡水街の公会堂が建設され、1930(昭和5)年4月に祖母は淡水街の嘱託として公会堂の管理人になった。
そこで板場さんのほか台湾人の料理人などと、和食や中華の宴会や仕出しを営んでいた。日本食の宴会は和室であるが、台湾料理は基本的に立食であるので本館横の煉瓦建ての洋館が用いられていた。

勤務を終わった独身教師連は、公会堂の奥の和室で食事をしていた。
淡水公学校の先任教員である小栗常寿氏が実質的な仲介者となって母との縁談が決まったらしい。
父は「話しが決まってからお膳の下に卵の特配があったり・・」とメモしている。

1936年に油車口で淡水神社の造営が始まり、1939(昭和14)年3月11日に竣工、鎮座式が行われた。

父と母の結婚式は1939年5月20日であった。

もし、3月に竣工することが判っていれば、淡水神社で挙式した筈であるが、縁談の決まったとき、まだ造営工事中で社務所もなかったのであろう。
結婚式は台湾神社で行われ、淡水公会堂に帰って披露宴を行ったようである。

2012年01月07日

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淡水から広島までの一千浬(3)

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台湾神社、社務所前で撮った両親の結婚写真である(1939年5月20日)。

列席者は、前列左から、(祖母)廣川オツ、(祖父)廣川慶太郎、(媒酌人)松田公学校長、(新郎)廣川研一、(新婦)時子、(媒酌人夫人)松田サト、(淡水街長)中原 薫、(新婦の従姉妹)山本マキ子、(祖母)原田ユク。
後列左から、森田鶴吉、(新婦の叔母)山本益子、(山本夫妻の次男)山本睦美、(新婦の叔父)山本忠治、宮司、(海水浴場:祖母の伯母)浅野タツ、(友人)小栗常寿氏。

祖父、廣川慶太郎は帰国して10月8日に66歳で亡くなった。

淡水に帰って、公会堂の洋館で披露宴が行われた。

両親が結婚したとき、淡水新店で塩屋を営んでいた黒川さんの2階に住んでいたそうである。
三間あり、広廊下あり、ベランダありでとても住み心地の良い家であったという。

しばらくして龍目井の丹羽先生が転勤になり家が空いたのでそこに移った。

郵便局の近くで、裏口は父の同僚である安武先生宅の裏に通じていた。

小路を入ったところであったが、通りに出ると傍に小川があり、筋向いに床屋があった。この床屋は戦後も営業していたことをLCさんの写真で知った。

2012年01月08日

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淡水から広島までの一千浬(4)

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龍目井は淡水駅から河口の方に寄ったところで、油車口から来る道(中正路)と山手に向かう道(建設街)が合流するロータリーは、新店街や駅の方から来る道路とつながっていたが微妙な接続で、新店街の方から見ても烽火街の方から見ても見通しが利かず行き止まりのように見える。

公會堂の建っていた砲臺埔も龍目井から遠くない。

龍目井の宿舎も、当時淡水に土地や借家を沢山持っていた中野金太郎氏が所有していた。

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この父の写真は断髪前に撮ったものだから龍目井に移転した直ぐあとと思われる。
写真には「小公園、安武さん宅前」とメモがある。安武さんは父の同僚であった。

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1942年12月8日、大東亜戦争開戦一周年記念日にここで妹 恭子が生まれた。

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この写真は年が明けた正月に、龍目井の宿舎で撮った恭子の宮参り記念である。

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この宿舎は道路(中正路)から小路を入ったところにあった。
これは家の前の土塀を背に撮ったものである。

父のメモによると窓際に筧を掛け、縁先に四角い水槽を据えて金魚を飼っていたという。
この年の春、父が三芝に転勤したので間もなく三芝の官舎に移転した。

2012年01月09日

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淡水から広島までの一千浬(5)

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1943(昭和18)年の春に、父は三芝国民学校に転勤になった。
内示を受けたとき、よほど淡水を離れたくなかったのであろう。先輩教員と夜中に「○○のバカヤロウ!」と叫んだと言っていたことがあるそうだ。

三芝国民学校の前身は1910年に老梅公学校の小基隆分校として発足した。
その翌年に小基隆公学校として独立し、逆に老梅公学校がその分校となった。
当時、相当な田舎で密度も疎らであったこの地区の人口が急速に増加して学童が増えたためであろうか?(その後、10年近く後に老梅分校は公学校として独立し、いまも老梅国民小學となっている)

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1941(昭和16)年に小基隆公学校は、三芝国民学校と改称された。

龍目井など、淡水街に住んでいた頃の写真は、ほかにも色々あるが、三芝(小基隆)に住んでいた頃の写真はない。

当時、写真は写真館で撮って貰うもので、普通の人がカメラを持ち、DPE店が出来るようになったのは戦後のことである。

三芝のような田舎には写真館のようなものはなく当時の面影を残すものは皆無である。

国民学校やその傍の教職員宿舎の周りは田圃で、蛙が鳴いていたり、季節には田植えした稲が判るほど、多数の蛍が乱舞していたり、それは長閑なものであった。

ここで一緒に勤めていた山城安次郎氏は沖縄で新聞かTVの仕事をしていたらしいが、淡水会(1988年:第22回於広島?)で挨拶したことがある。
私は父と、山城氏は娘さんと一緒に来ていた。

高鍬さんという人とも三芝で一緒に同僚であった。
母の話によると、タイタニックか何かの海難事件に関して、救難信号SOSの電信発信を、高鍬夫人が「エー・ソー・エー・ソー」と言っていたそうである。

近くに柑橘類の皮を砂糖で煮るミッセン工場や、パン工場もあり、時間になると良い匂いが漂ってきた。

ここで憶えているのは、母が稲刈りの勤労奉仕に出て、鎌を踏んで怪我をしたことくらいである。

3つくらいで、悪戯もしていた。
母が焼いたケーキを、近くに住む父の同僚の家に届けるように言われて、その盆を奉公人の押しているポンプの吐出口に差し出して水を掛けたものを届けたらしい。
確か、陳スイロ(漢字不詳)と言った。
届けられた家から、一つ二つ年上の女の子が、私が帰るより早く「小母さん、あのケーキ、初めから濡れていたんですか?」と駈けてきた。

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これは父が赴任した頃の三芝国民学校の写真であるが、教師と父兄たちであろう。

父は1944(昭和19)年の5月に教頭になり、6月に応召で台南の部隊に入営した。
給与は三芝国民学校から支給されていたはずで、その後も三芝に住んでいた筈であるが戦時末期には淡水で、空襲警報の鳴る度に防空頭巾を被り、郵便局などの防空壕に逃げ込んでいた。

いつ頃、淡水に戻ったのか記憶にない。

年が明けたので、一昨年になるがボストンの博士と淡水を訪れたとき、三芝に連れて行って貰った。

創立百周年を記念して作られた文物館に、当時の資料が整理保存されていることに感嘆した。

そして、三芝の街が大きくなっていることにも驚いた。


2012年01月10日

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淡水から広島までの一千浬(6)

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父が応召している間で、戦争も押し迫って来ているなか、三芝(小基隆)から淡水に戻ってきたようである。

そして、淡水郵便局の別棟(ここで、1966年にハリウッド映画「砲艦サンパブロ」のロケーション撮影が行われたというが、その後焼失してしまった)に身を寄せた。

そこは当時、私が生まれたときに取り上げてくれた産婆さんである市川ヲコさんが管理人をしていたそうである。

2階の一番左の区画に居たような気がする。
そこで、母たちは電信隊の兵隊に賄いの奉仕をしていた。
妹は、眼鏡を掛けた電信兵を「お父さん」と思っていたらしい(父も眼鏡を掛けていた)。

1944(昭和19)年10月12日から3日間、米第3艦隊の空母から来襲した艦載機が台湾全土を空襲した。
淡水は、その初日に銃爆撃を受け、民間人が20人くらい犠牲になった。
淡水駅の傍にあったライジングサン石油のタンクが炎上し、メラメラと燃える炎を背後に、祖母と母に手を引かれて夜道を山手に向かって逃げた。

妹はその年の12月に3歳となった。
当時は庭のある家では、そこに防空壕を掘っていたし、小さな子供にも綿の入った防空頭巾を持たせていた。飛び散った破片から頭部を護るためである。

当時は、警戒警報、空襲警報、空襲警報解除、警戒警報解除、防護警報などが頻繁にサイレンで響き渡り、このような子供にもそのときとるべき行動を教え込んでいた。

郵便局の前の大きい防空壕に逃げ込んだこともあった。
小さい妹は暗くジメジメした壕に居るのが嫌で「空襲警報解除よ」と言ったりしていた。
Mさんは、淡水の我が家から台北二高女に列車通学していたが、モールス信号や手旗信号を教わっていた。

末期には「送るも征くも、今生の別れと知れど微笑みて・・」という特攻隊を送る歌を涙ながらに唱うこともあった。

空襲で民間人の犠牲が出るようになって、せめて子供達だけでも生き延びて欲しいと学童疎開の話しが持ち上がった。

2012年01月11日

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淡水から広島までの一千浬(7)

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1945年になるとアメリカを主体とする連合軍側はルソン島に上陸を開始した。

次は台湾だと誰もが考えた。

そして、子供達だけでも助かるものなら助けたいと淡水小学校の学童疎開が検討された。
いろいろな疎開先が検討されたに違いないが、安全なところなどあるはずがなかった。

結局、北投庄の山の上にある善光寺に行くことになった。

引率出来る教員も限られ、子供達の食事や身の回りの世話をするものが必要であった。

父も出征していたし、祖母は淡水公会堂で料理や仕出しもやっていたこともあるので、我々家族は淡水小学校の保母として同伴することになった。

上掲の写真は、2004(平成16)年8月に、当時一緒に疎開した妹と、マキ子さんと北投の善光寺に行ったときのものである。

善光寺は半地下のような作りでその屋上が展望台になっていた。

奥にはパゴダ風の慰霊碑も建っていた。

あとで聞けば、本堂も当時のまま畳敷きであるという。
堂守にお願いして入らせて貰えばよかった。

当時は境内がもっと広いように思っていた。

本堂に向かって右側に学童の食事を用意するために竹で屋根を葺いた炊烹所が作られており、本堂との間の通路を行くと奥に防空壕が掘られていた。

ここには我々よりも先に、二人の婦人が疎開していた。
母の話によると自害用の短剣も見せて貰ったという。

我々が疎開しているあいだに、2機の戦闘機が飛来したことがあった。
名残惜しそうに3回、山の周りを旋回してから前線に向かって飛んでいった。

聞いた話では、特別攻撃に出撃して、母の疎開している善光寺に今生の別れを告げて往ったと言うことであった。

2012年01月12日

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淡水から広島までの一千浬(8)

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学童は、食事時には本堂に行儀良く正座して給食を待ち、皆で「頂きます!」と言ってから箸を取った。

箸と言えば、炒飯などに入っている肉の小片を、自分の箸箱の上に載せておいて食べたりしていた。
給食と言っても、山寺に疎開してのものであるから、一汁三菜など出来る訳がない。
普段は、野菜や細切れの肉などを入れた炒飯的なものしか出来ない。
その小さな肉片をとっておいて食べるのである。
母たちは「そんなことしないで食べなさい」と指導することもあったが、学童は多くて面倒見切れるものではない。
好きなものを残しておいて食べるあの流儀である。

昼間は寺の庭や、その周りで遊んでいたが、夜はどうだったのであろうか?
まだ、寝小便をするのも居る年頃である。
引率の教師や保母は気を抜く間もなかったことであろう。

時には皆で遊技や、学芸会もどきのこともやっていたように思う。
憶えているのは、教師のひとりが学童に「証城寺のタヌキ囃子」を教え境内で演じたことなどである。

この野口雨情の詩に、中山晋平が曲をつけた童謡は、木更津市の證誠寺に伝わる伝説に基づいているが、戦後、進駐軍兵士の間で「Come, come everybody. How do you do and how are you ?」と英語で歌詞をつけて爆発的に流行したことがある。
半島でも「北岳山の歌」という童謡に改編されていると聞く。

しかし、ここでも空襲警報のサイレンが聞こえると本堂裏の山に掘った防空壕に避難していた。

艦載機の空襲が常態化すると、山の中まで銃撃していた。
墓地の石碑も機銃弾で欠けていた。
そして、真鍮の薬莢が沢山落ちていた。

ある日、いつものように空襲警報のサイレンが鳴り、学童を防空壕に避難させたあと、本堂の縁で艦載機が北投の街を銃撃するのを見ていた。

突如、1機が善光寺に向かって上昇してきた。
慌てて逃げたが、飛行機は速い。逃げ切れるものではない。

母と祖母は、私と妹の手を引いて本堂の横の炊烹所に駆け込んだ。
そして流しの下に私達を押し込んで、その上に覆い被さった。

その母の肩越しにグラマンが12.7ミリの機銃弾を竹葺きの屋根に撃ち込んで、それが赤く炸裂するのが見えた。

アメリカには日本の武士道や欧州の騎士道に当たるものはない。
船舶を撃沈し、ボートや筏に載って浮いている者を機銃掃射で皆殺しにした例もある。
アメリカでは今でも自衛のために拳銃を持つことが認められている。
山の樵や、寺院の修行僧も、幼気な学童も容赦はなかった。

後に学生になってから、グラマンの銃撃を受けたと言っても信じる者は居なかった。

アメリカ軍の反攻は、連戦連敗の中華民国をあてに出来ず、台湾攻略を断念し攻撃対象を琉球(沖縄)諸島に変換した。
このため、父の居た台南部隊も留守部隊を残して沖縄に投入された。
多くは輸送船が潜水艦に沈没させられ、何とかたどり着いても殆ど戦死したものと思われる。
父はマラリアに罹り、腎臓結石なども併発して野戦病院に入院していたため聯隊本部で終戦を迎えた。

写真は2004年の夏、訪れた善光寺の屋上に建っていた慰霊碑である。

2012年01月13日

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淡水から広島までの一千浬(9)

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私は、善光寺にいるときにひどく母に叱られたことがある。
疎開していた学童にちょっと怪我をさせる悪さをしたのである。

そのとき母は学童の逃げ込む防空壕ではなく、別の小さな防空壕に連れて入った。
そして、私のしたことがどれほどいけないことかをしっかり注意し、叱った。
5歳になっていた私は、泣いて謝り許しを請うた。
そしてそのあと「お父さん!」と叫んだと、後に母は言っていた。

また、あるとき毛虫を掴んで棘の痛さに泣いたこともある。
灯火管制の本堂の縁側で、夕方の薄暗がりに何か動く物がいたので手で掴んでしまったのである。

善光寺には庭があり、時計草の実が成っていたのも微かに覚えている。

稀に下の街から登ってくる乗用車を上から見ていて、学童連が「流線型の自動車」と言っていたこともあった。

学童の給食用の大きな冬瓜を現地の人が天秤棒で担いで登ってきたりしていた。

稀に母が下の街に連れて行ってくれたこともあった。
買い物でもあったのであろう。
当時は菓子類が無かったこともあるが、善光寺では学童を与っていたので、おやつを貰うようなことはなかった。
公園の芝生の一角、温泉が湧いているところで鶏卵をゆでてゆで卵にしていた。
その傍で、甘酸っぱいカステラのような蒸しパンを母に貰って食べた。

地熱谷も近くで見た。

町外れの小川にも温泉が流れていて、淀みの一つはちょうど湯浴みに適温であったのであろう。
浮浪者が、衣類を洗濯して木の枝に乾して、その下で湯浴みしていた。

終戦末期にもそんなのんびりした風景もあった。

合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが死亡したという報道を知ったのも善光寺にいる時であった。

見出しの写真は戦後、訪れた善光寺の入り口近くに立っていた木瓜(パパイヤ)である(右に屋上展望台の手摺りの一部が見える)。

2012年01月14日

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淡水から広島までの一千浬(10)

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1945(昭和20)年8月15日には、重大放送があるというので善光寺の本堂に座って聞いたが、雑音が多くよく判らなかった。

しかし、天皇陛下の「終戦の詔勅」であることは判っていたようで、皆泣いていた。
父や夫を失う者も多く、家財道具も何もかも無くしてしまったが、爆撃や銃撃から逃げ回ることはなくなった。

善光寺から淡水に帰るときには、教員がラバウル小唄の替え歌を作り、「さらば 善光寺よ、また来るまでは・・」と唱いながら下山した。

僅か3、4ヶ月のことであったが、善光寺や北投のことはよく憶えている。

上の写真は2004年に訪ねたときに撮ったものである。

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北投の温泉街から急な坂道を登ったところに石段がある。

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この日本式石灯籠は戦後献納されたもので、1990年という字が読める。

淡水に戻って住んでいたのは、紅毛城近くの烽火一四であったと思う。

屏東の潮州で父は終戦を迎えた。
その前夜と前々夜、部隊本部で、これからどうするか話し合いが持たれた。
将校は当てにならないので下士官だけで、兵は父一人であったという。
山の蕃地に入り、あくまで戦うというもの、戎克で中国大陸にわたって向こうで活路を求めるなどいろいろ討議されたようであるが、結局結論の出ぬまま解散となり、パインの缶詰などをリュックに一杯詰めて部隊を後にした。
内地から来ていた兵隊は復員船で帰った。

父は、重いリュックを背負って、北投の善光寺経由帰宅した。
まだ3歳になっていなかった妹は、帰宅してもそれが父とは判らなかった。

引き揚げ船に乗るまでは、その日から家族を養わなければならず、衣類の売り食いなどをしていた。
父は船会社の倉庫番や、荷車曳きもやったと記している。

国府軍の進駐行進があったが、裸足で雨のなかを唐傘をさして、金盥まで提げての行進は淡水の街で歓迎しようと集まった人達を落胆させた。

その後、家の周りでも言葉の分からない警官だか兵隊だかがうろうろして、あるとき転がったボールを取られ、父に告げると取り返してくれた。

父が仕事で外出しているときも誰何されたらしい。
三回聞いて回答がなければ撃っても良いと言うことであったらしく、拳銃を構えて「誰か」、「誰か」、「誰か」と聞くのであるが、拳銃を構えた手がブルブル震えていたと笑っていた。

何も持って帰れないので、日本人は家の前で、家具や衣類を投げ売りしていた。
売って代価を得ても意味のないことであった。
国府軍政府は、それぞれの世帯人数あたり千円、現金を持ち帰ることしか認めなかった。不動産はもとより、有価証券も預金も全て接収し、自分で持てる範囲の物を持たせて厄介払いしたのである。
しかし、我々の親の世代は「以徳報怨」という宣伝にのせられて蒋介石をある程度評価していたようである。
半島や満州からの引揚者よりはマシであったが・・・。

やっと連絡があり、台北の総督府に集結したのは1946(昭和21)年3月であった。

2012年01月15日

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淡水から広島までの一千浬(11)

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北投の善光寺から帰って住んでいたのは、淡水街烽火14であったと思う。

紅毛城前の坂道から近くで、家の前は少し庭があって、前に煉瓦積みの塀や生け垣があったと記憶している。
場所は上の写真で、手前の瓦葺き家屋の左あたりになるような気がする。

台湾南部の潮州で部隊解散となって、リュックにパイ缶などを詰めて北投庄の善光寺を訪ね、やっと自宅に帰ったときは夕方で、あたりは薄暗くなっていた。

家族は無事の帰還を喜んだが、妹はあれほど会いたがっていたのに父と判るまでちょっと時間が掛かったようである。

ふと思い出したのであるが、私は小さなアヒルのヒヨコを数羽飼っていて、裏庭に小川が流れていてそこで放していたように思う。烽火に住んでいた頃のことであろう。
黄色い可愛い雛であった。

そこで、衣類や家具、それに公会堂のころ、祖母が料理や仕出しをやっていたので食器類やアイスクリームサーバーのようなものも含めいろいろあったが、現地の人に貰ってもらうなどして物を減らしていった。
神棚は粗末にならないように、庭で焼却した。
沢山のアルバムから、どうしても持ち帰りたい物だけを剥がした。

数ヶ月経っても、何時引き揚げになるのか判らなかった。
手許のものを売り食いしていたが、先の見通しもなく両親は子供を連れて不安であったことであろう。

半島や大陸では現地人が手のひらを返すように態度を変えたり、略奪もあったらしいが、台湾では戦前の安心で安全な社会がそのまま続いていた。

以前と較べて、戸締まりなどは注意するようになったであろうが、人命や資産を護るために自警団が作られたなどの記憶はない。

やっと、1946(昭和21)年3月に台北に集結ということになったときも、現地の人が淡水駅で見送って呉れた。

親しくつきあっていた人の中には基隆まで名残を惜しんで見送ってくれた人も居るという。

持ち帰れるものは、各人で持てる範囲のものに限られ、通貨は家族一人あたり千円であった。

台北の総督府であった煉瓦建ての建物も廃墟のようになっていて、通路の角には国府軍の憲兵が立哨していた。
大広間に何も無かった。何処から持ってきたのか藁を敷いてそこに座っていた。

その中には、台展審査員の木下静涯画伯も居られた。
画伯が集めていたコレクションも持って帰ることは出来なかった。

両親の残したメモによると
「1946(昭和21)年3月17日 引揚命令により台湾総督府に集結
            3月19日 基隆港に集結
            3月21日 基隆出発
            3月23日 鹿児島上陸」
とあるので、ここで2泊したことになる。

この間、母が体調を崩し、台北駅まで移動するときに、父が何処からか荷車かリヤカーを借りてきて母を載せて行った。

一緒に帰ったマキ子さんも手荷物を持って一緒に行った。

総督府から台北駅までほぼ1kmを、各自の携行品を持って歩いた。
いま思うと父も祖母もマキ子さんもよく頑張ったと思う。


2012年01月16日

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淡水から広島までの一千浬(12)

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台北駅では待たされて、有蓋貨車で基隆駅まで運ばれた。

通貨も貴金属も持って帰ることは許されなかったが、これらを荷物に中に隠して持ち込んだ者が見つかってひどい仕打ちを受けたなどと言うデマが流れていた。
おそらく、そういう筋から意図して流されたデマではないかと思う。

基隆に着いたら、港湾用鉄道引き込み線のレールを枕に皆、横になっていた。
貨物列車の日陰である。私はこの列車が動き出すことはないのか不安を感じていた。

基隆でも2〜3日、留められたから保税上屋のようなところにいたのであろう。

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基隆は淡水に代わって台湾北部の主要港となっていた。

鉄道の駅は基隆港に隣接して設けられ、そこから臨海鉄道のレールが何本も敷設されていた。

戦前も基隆から門司経由神戸への連絡船は対岸の客船埠頭に接舷していたが、艦艇や沖縄への連絡船は鉄道の駅に隣接する臨海線近くの保税上屋近くに接舷していたのではないかと思う。

1946年にアメリカは、引き揚げなどに使用するためにリバティ船を100隻、LST100隻ほかの船舶を日本政府に貸与した。

基隆に集められた引揚者は、順次入港する引揚船に乗せられたが、リバティ船の船倉に乗せられた人が多かった。

米軍は戦時中、大陸や南方からの物資の流通を阻止する目的で20000個以上のパラシュート付き機雷を九州沿岸、南西諸島、瀬戸内海などに航空機で敷設した。
終戦になって、先ずやらなければならなかったことは、この機雷原の一部を掃海して航行可能な海面を確保することであった。
このため、旧海軍の掃海艇や掃海母艦のほか、海防艦や駆逐艦まで動員して掃海作業に従事させた。
そして必要な海面の一部が確保されると、それらの残存艦艇を改装し、外地に展開していた陸海軍将兵の復員と、外地在住邦人の引き揚げに転用した。

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我々の便乗した海防艦34号は、3月21日に基隆を出航し、23日に鹿児島港に入港したが、ほぼ同時期に基隆から引き揚げた人の中には、リバティ船に乗せられて内地に入港するまで一週間くらい航行したと言う人も居た。
おそらく、機雷原を避けて、水深の深い太平洋か、大陸に沿って航行したからであろうと思う。

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この図は兵装を撤去した海防艦に便乗者用区画を設けたイメージであるが、瀬戸内海のような内水面なら可能でもあろうが、春先の東シナ海を基隆から九州まで、こんな小艇で航走すると暴露甲板に固縛した搭載物も吹き飛んでしまう。

もとより艇体内部に剰余空間等はないので、武装解除で撤去された弾薬室や爆雷庫に、便乗者が横になれる程度の棚を設けた船尾区画に入れられた。

基隆の港外に出たときに、父が艙口から外を覗かせ「あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言った。

外海に出ると小艇は木の葉のように翻弄された。

乗組員に聞いても、何処に入港するのか知らなかった。

ときどき、握り飯のようなものを乗組員が持ってきたが、皆 ひどい船酔いで手を出す者は居なかった。
父が、幾度となく汚物のバケツを波で洗われている甲板に棄てに行っていた。

二晩、この地獄のような状態で航行し、接岸したところは桜島が噴煙を上げている錦江湾の鹿児島桟橋であった。

桟橋で夏ミカンを立ち売りしているのがひどく高くて内地の風あたりの強さを感じたと父はメモしている。

2012年01月17日

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淡水から広島までの一千浬(13)

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鹿児島縣のウェブページから転載した鹿児島市街の航空写真である。

正面に桜島を望み、鹿児島港が見える。

鹿児島港と言っても、鹿児島中央駅(旧西鹿児島)から指宿枕崎線で4区間も離れた谷山港など、鹿児島港にはヨットハーバーを含め7つの港区がある。

写真のほぼ中央が本港区であるが、海防艦34号が入港したのはおそらく右端の新港区だったのであろう。
写真の右端に見える川が甲突川で、それを渡ったところが天保山町である。
天保山公園という小さな公園もある。その近くにある市立天保山中学校に引揚者は集合した。
ここで何日も留め置かれた人も居たようであるが、我々はその翌日、西鹿児島駅から鹿児島本線で博多に向かった。
列車が走行している間に詰め襟の学生のようなボランティアが「皆様、ご苦労様でございます。」と内地への帰還歓迎の挨拶をしていた。

父は「鹿児島本線の窓から山桜が見えた。私の34歳の誕生日であった。」とノートに書いている。

博多駅で、家族として一緒に暮らしていたマキ子さんは山口県熊毛郡に帰っていった。

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博多駅は、その後建て替えられ位置も少し変わったが写真は当時のものである。

博多駅で筑肥線に乗り換えて本籍地の浜崎に帰った。
駅構内の土間に、ごろごろと生きているのか死んでいるのか判らない浮浪者が沢山居た。
小学生くらいな乞食が何人も居た。
待合室にいる人に食い物を貰うと、そのまま彼の親分のような者のところへ持って行っていた。
人が見かねて「これは持って行かずに、ここで食べなさい。」と言っても食べずに持って行っていた。

Nijinomatsubara.jpg

本籍地は佐賀県東松浦郡浜崎町である(平成の大合併で、唐津市浜玉町となった)。

写真は鏡山から唐津湾を望んだもので、手前に日本3大松原の一つ、虹の松原が見える。
左端は松浦川の向こうに唐津の市街が広がっており、その沖の小高い島は高島である。

右端の稜線は福岡との県境である。

父は、浜崎の街から自転車で虹の松原を唐津中まで通っていた。

博多駅で筑肥線に乗り換えて、福岡県最後の駅が鹿家で、佐賀県に入って最初の駅が浜崎である。
鉄路はそこから虹の松原に沿って走り、写真の正面あたりに虹の松原駅があり、次は虹の松原西端の東唐津駅であった。

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今は国道が走っているが、明治・大正時代には軽便鉄道が走っていたとも聞いている。

3月下旬に父の義母が一人で暮らしていた浜崎の家に入居した。
昔の街道に面した家で、母屋と離れの間の庭には池があり鯉が棲んでいた。
その側に苔むした杉や石灯籠もあった。
海や川に近いので赤手蟹が歩いたりしていた。
母屋には庭に面した廊下があり、籐椅子が置いてあった。
そこから隣との仕切塀にそって渡り廊下があり、その手前に手水鉢があった。
母屋の屋根裏には機(はた)が2、3基あった。
雨戸の節穴から射し込む光で、障子に向いの堤ブリキ店が逆さまに写るのが面白かった。
離れは2階屋で、渡り廊下はさらに裏の厠まで続いていた。

裏庭には大きな柿の木があり、蘭のような花も植えていたが家庭菜園のようであった。

帰国したとき、夜は母屋で父と一緒の夜具で寝た。
重くひんやりとしたかい巻きで、掛け布団に袖がついていると思った。
何しろ寒いので身体が自然に動く。
父が「じっとしていなさい」と言うが、また動いてしまうので困った。

4月に浜崎小学校に入学した。
担任の宮崎操先生は父の教え子であった。

小学校への登校は1キロ程度で、川土手に桜がきれいであった。

しかし、終戦で引き揚げた内地に砂糖は無いと思っていたが、米も野菜も塩もなかった。
塩は浜から海水を汲んできて、それを煮詰めて調理に使っていた。

鉄道の軌道敷に生えている草や蕨を採りに行ったこともある。

土地の人も草を食用にしようと煮て食べたり、煎じて茶のように飲もうとして体調を崩すものが居た。

主食の米も魚も配給で、しかも量が足りなかった。

ヤミの食料品を食べないで配給食料のみ食べ続け、栄養失調で死亡した佐賀県出身の裁判官もいた。
彼は食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。
配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのに、それを取り締まる自分が闇米を食べてはいけないと思い、1946年10月初めから闇米を拒否するようになった。
彼は配給の殆どを2人の子供に与え、自分は妻とともに殆ど汁だけの粥をすすって生活していた。親戚や知人が食糧を送ったり、食事に招待しようとしたがそれも拒否した。自ら畑を耕して芋を栽培したりして栄養状況を改善する努力もしていたが栄養失調により病となった。しかし、担当の被告100人を未決の状態にしてはならないと療養もせず、1947年8月27日に東京地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決文を書いたあと佐賀県杵島郡で療養し、10月11日に33歳で死去した。
彼は被告人には同情的で、情状酌量した判決を下すことが多かったという。

このほか、東京高等学校ドイツ語教授、青森地裁判事などが食糧管理法を遵守して餓死している。

私も浜崎小学校に弁当代わりに蒸かしたサツマイモを持っていったこともある。

当時、戦災孤児も多かったが、彼らを救済するために学校給食を実施しようにも食糧難で実施出来なかった。

後に小学校の修学旅行に行ったときも、各自で毎食分の米を持参しなければならなかった。

2012年01月18日

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淡水から広島までの一千浬(14)

Hiroshima_aerial_view.jpg

引き揚げて、取り敢えず佐賀の伯父達がいた父の生家に身を寄せたのだが、父はいくら兄弟でも4人も連れて落ち着けなかったと記している。

衣食住すべて乏しいときで、外地に出ていた者が続々引き揚げてくるので、すべてに難儀で片身の狭い思いをしたと没後に見つけたノートに書いていた。

郷里で教員に戻れという伯父たちの言葉を振り切ってどこかに出ようと決心したのである。

居候で食うために、森林伐採の監督、玩具商の店員、そして近郊のお祭りの時は道端に座って出店もやったと書いているが、私も覚えている。
唐津神社の祭礼のときのことである。
隣に屋台を出していた香具師が盥に入れていた大山椒魚が溝に逃げ出した。

その年の暮、母の叔父が広島市役所に居て、誘われて焼け野が原の広島に出た。

私たち家族は岩国、人絹町の大叔父の家の片隅に仮住まいして父は列車で広島に通い、水道局に臨時で勤めたが、翌年1月、比治山の南麓、比治山橋近くの水道工事店に入った。

私は岩国東小学校に転校したが、肩から下げる鞄は、浜崎小学校に入るとき、母が縫ってくれていたが学期中半の転校で、教科書も無かった。
父が、クラスメートに教科書を借りてこいと言って、毎日筋肉労働のあと1時間掛けて列車で帰ってから、大学ノートに書き写してくれた。
國語も、算数も、理科も、社会も・・・。

父は現場で、ツルハシを振るいスコップで地面を掘るなど工員として働くほか、雑用も事務も、税務署の査察対応も何でもやった。

年が変わって、社長夫妻も住む事務所兼用の二階屋に家族で移転した。

私は広島市立皆実小学校に転校となった。
父はまた、全教科の教材を書き写してくれた。
担任はたしか、木下先生という女教師であった。

転校になって間もなく、学校から引率されて映画館に映画を見に行ったことがある。
映画が終わって現地解散となり、どうやって帰宅しようかと思った。
バス停2、3区間の距離であった。
まだ不法建築が建っていたり、空き地を利用して野菜や芋を植えていたところを他の学童の帰る方向について何とか帰宅できた。

事務所の裏の薄暗い区画に住んでいた。
私はやっと7歳になるころであったのであまり感じなかったが、両親は気兼ねしていたことであろうと思う。
厠のドアもなかったのである。風呂など無論ない。

母も気兼ねして掃除など雑用をやっていた。

そこで一年くらい住んでいた。
近くに、連れだって登校する友達も出来た。

広島市の中心部は原子爆弾と、その引き起こした火災で焼け野原のなっていたが、公園や陸軍墓地のあった比治山の裏には被災を免れた地区もあった。

広島駅から国道沿いに東の方向の西蟹屋町に社長の所有する古い民家があったが、放置されていたので雨が降ると家の中でも傘を差さなければならない程であった。

そこを何とか手を入れて、部分的に住めるようにして、1948(昭和23)年5月に引っ越した。

私は、またしても転校で、国道沿いの荒神小学校に通った。

まだ配給制度ではあったが、食糧事情は幾分改善されていたようで、パンの委託加工という店があった。
小麦粉を持って行くとそれに見合う分量のパンを売ってくれた。
ただし、その頃は増量のため轢いたトウモロコシなどを混ぜたものも多く、カウンタでそれを7割とかに査定していたと思う。

そこで8月に末の妹が生まれた。

しかし、父が水道工事店を辞めることになり、そこを出なくてはならなくなった。
筋肉労働はしていても謹厳実直な父と戦後、成り上がりの土建屋の親爺と合うわけがなかった。

父も途方に暮れていたと思うが、1人で大八車を曳いて水道工事の下請けをやっていた上岡氏が「うちに来い」と言ってくれた。
今は平和公園になっている中島に自力で建てた不法建築で、3畳ほどの空間と、やや広いスペースがあったが、自分たちが狭い方に入って、うちの家族を受け入れてくれた。

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よくこんな写真が残っていたと思う。
うしろに見えるバラックに寄寓していた。
いまは鳩の遊ぶ平和公園になっている中島(戦前の中島本町か、その南の材木町か、その本川沿いの元柳町であった辺り)である。
中島本町は、元安橋を経て本通り商店街が続いており、戦前は中島地区が広島市内で一番賑やかな場所であった。
まわりには飴のように曲がったガラス瓶や、熱線で焼けた瓦などが沢山転がっており、誰も拾うものは居なかった。

中島の不法建築で1949年の正月を迎えたが、父が自転車でどこからか買ってきた濁酒だか、上澄みだかを落として瓶を割ってしまったことがあった。

メモを読み返してみると1948年の11月から翌年の早春までの筈であるが、写真の父は半袖、半ズボンである。よく判らない。

私は、中島小学校に転校した。
8歳のことで、しかも短期間であり顔も名前も覚えていないが、後に就職してバス通勤していたころ、おそらくその時のクラスメートであったと思う顔に逢ったことがある。相手も何だかそんな眼で見ていたような気がする。

2012年01月19日

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淡水から広島までの一千浬(15)

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そんな生活をしていたとき、広島市の住宅課の人が訪ねて来た。実情調査であろう。
広島に来たときから何度も何度も市営住宅への入居を申請していたのであるが、幾ら建てても追いつかなかった。
新しく建てて入居させても、どんどん他所から入ってくるのである。
当初の都市計画では戦前、陸軍の軍営地であったり練兵場であった基町地区は公園にする計画であったが、千軒以上の市営住宅で埋まった。
その後も木造の市営住宅などを解体して高層アパートを建ててしまった。
そのとき、訪ねて来たのは槇さんと言って、我が家が入居した基町の市営住宅に彼も入居した。

まだ寒い3月に基町に新築された白壁の南鯉城住宅19号に入居した。

見出しの写真は広島城天守閣の石垣から西を眺めた写真である。

手前には広島城の内堀に植えられた蓮が繁っている。

その傍に比較的新しい白壁の2軒ずつ背中合わせに建てられているのが北鯉城住宅で、少し離れたところに同じ仕様で10棟、20軒建てられたのが南鯉城住宅であった。

基町地区で最も後に建てられたものである。

北鯉城住宅の左に見えるのは戦災孤児(原爆孤児)を収容していた新生学園である。
終戦で混乱している時期、陸軍通信隊の見習士官であった人が、市内のあちこちで泣いていた赤ん坊を収容するために、旧陸軍の暁部隊の施設を借りてひらいた孤児の施設であった。
余談ながら、当時は陸軍に舟艇部隊があった。全国何処へ行っても暁部隊と言えば船舶を運用する部隊であった。
ちなみに、陸軍の船には飛行甲板を持ち、連絡や偵察に使う軽飛行機を搭載している船もあれば小型潜航艇まで運用していた。
海軍は海軍で、戦車に似た甲装戦闘車両も持っていた。
余裕のあるときは師団、聯隊規模で陸軍のチャーターした輸送船で航洋し、海軍艦艇の護衛を受けたりすることも出来たが、お互いに予備兵力まで使い果たした戦争末期には陸軍が海軍に、また海軍が陸軍に支援を要請しても何も期待出来ず、自力で切り抜けるしかなかった。

その通信隊の見習士官は、フィリピンや台湾から引き揚げた孤児も収容していた。
そして、その後基町の堀端に移転したのが新生学園である。
今は東広島に移転している。

幟町小学校の1952(昭和27)年卒業名簿には、松組1名、竹組1名、梅組3名、桜組2名と7名もの卒業生の住所欄に「新生学園」と掲載されている。

このほか、基町には「光の園」という孤児施設もあった。
「光の園摂理の家」は、医師として被爆者の治療にあたっていたペドロ・アルペ神父の働きかけで別府の光の園理事長を迎え、安佐郡祇園町の三菱労務課の建物に設けられ、基町に移転してきたものである。
現在、広電バスの車庫の辺りにあった。
ここも高層アパート建設計画で立ち退きとなり、佐伯郡地御前村(現:廿日市市)に移転となった。

なぜ、こんなに遠いところが幟町小学校の学区になっていたかはこの地図を見れば判る。

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1894(明治27)年6月に山陽鉄道が広島まで開通した。

同年9月15日には日清戦争のため、大本営や帝国議会が臨時に広島に移された。

宇品地区を開拓した千田県令の名は千田町、東千田などの町名に残されている。

1889年の法律で国民皆兵が定められ、全国から動員された兵士が広島(宇品)港から大陸に送られた。

その前から広島城本丸には第5師団司令部が置かれ、二の丸には歩兵第11聯隊、野砲第5聯隊、その南の街の中心に西練兵場が、広島駅の東側には騎兵第5聯隊があり東練兵場が広がっていた。

市街地はその周辺にあったために学区割のときには、だだっ広い基町一番地に民家があり、学童が居ることは想定されて居なかったに違いない。

広島市の中心部に原爆スラムという大規模なスラム街が出来たのも、地主は居らず、倒壊した兵舎などの木材が不法建築の建材や薪として使えたからである。

旧火薬庫は石垣に取り囲まれていたが、その土塀の中は石油会社のガソリンスタンドとなっていた。
現在、土塀は取り除かれ、個人タクシーなどのガソリンスタンドとして営業している筈である。
先に述べた光の園の近くであった。

南鯉城住宅は、北鯉城住宅とともに最後に建てられたもので戦前、野砲第5聯隊と輜重兵第5聯隊とを隔てる外堀を埋め立てたところの様であった。

広島は太田川の三角州で、大雨や高潮のときはすぐに水浸しとなった。

この対策のため、市の西側に放水路が計画されたが始まった工事は戦争で中断されていた。

このため南鯉城住宅はよく浸水した。
特に一番北の我が家が一番条件が悪かった。
床下浸水には何度逢ったか憶えていない。
床上浸水になったこともある。
畳の上まで浸水すると何の対策も出来ない。
そのときは非常持ち出し品だけ持って夜、雨のなかを相生橋の傍の商工会議所ビルに一家で避難した。

野砲第5聯隊の跡の西側は、堀のあとの溝を隔てて隣接していたがそこには木造2階建てのバラック2棟からなる母子寮があり、保育園があった。

そこから幟町小学校に登校していた子も同学年も何人か居たが、当時まだ野砲の砲身がゴロゴロしていた。
屑鉄屋が持ち去るにはあまりにも重たかったし、砲身は分解も切断も出来なかった。

今でも当時の様子を思い出すことが出来る。
しかし南鯉城住宅は背中合わせの2軒長屋だったので偶数号となる裏筋は1、2軒しか憶えていない。

うちの右隣、17号は満州から引き揚げて来た玉井一郎さん一家であった。
奥さんは早月さんと言って、男、女、女の3人の子持ちであった。

先隣(15号)は川村さんと言って小さい女の子を連れた夫婦だったが、ご主人が若くしてなくなった。

その先、13号との間はコンクリートか煉瓦造りの大規模な基礎が残っており、これを避けて1軒分くらい瓦礫のままであった。
ちなみに、竣工当時の南鯉城住宅は板囲いのついた庭があり玄関の右、台所の出窓の外には槇の木、玄関の左には柊など、多少の植木も植えてあった。
それで、鶏やウサギを飼う家が多かった。

13号には浅野さん一家が住んでいたが、ご主人は生前、NKか何かの検査官をしていたらしい。浅野さんはアンゴラウサギを一匹と鶏(白色レグホン)を飼っていた。
それが放し飼いするものだから野菜を植えていた我が家の庭に入って啄むのに弱った。
浅野さんには2人の男子が居たが、兄は私より2〜3年年上で、修道高等学校を卒業して鳥取大学農学部に入学した。農学部としては由緒ある大学であった。
弟は私より1年下くらいで一時は遊び仲間であった。

11号の檜垣さんは宮島競艇の旗振り(スターター)であったが、易を副業にしている風であった。そこには小さな男の子が2人居たと思う。

9号は吉沢氏といって市の緑地課かどこかに勤めて居たらしい。
娘が2人いた。

9号と7号の間は通路になっていて、表通りの米穀配給所や銭湯とクリーニング屋の間から例の溝を石橋で渡って、同援住宅を経て10軒長屋という市営住宅の間を本丸の壕の方まで抜けられた。

このブログを見てくれている人の中には「なぜ、そんな細々したことを?」と思われる向きもあるに違いない。

この地域が、短期間(約20年?)の間に2度もリセットされ、その地図も残っていないからである。

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この航空写真は、戦後木造の市営住宅を数百戸も建てていた基町を再開発するために高層ビルの建設が始まったころ撮影されたものである。

既に広島市民球場、その手前の体育館などが建設されており、太田川を寺町側に跨ぐ空鞘橋も掛かっている。
手前には「光の園」のあったところに広電(広島電気鉄道(株))のバス車庫も出来ている。
市民球場の向こうの相生通りから手前は基町一番地で、左端に再建された広島城の天守閣も見える。
広島城の東側も基町であった。
天守閣の横の堀端に新生学園や、共同住宅と呼ばれた木造2階建ての集合住宅もあった。戦前は野砲兵第5聯隊のあったところである。

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戦前の航空写真と較べてみる。
新生学園や共同住宅のあったところは野砲5聯隊の兵営で、その手前に輜重兵第5大隊の建物が並んでいた。
野砲5聯隊の営庭だったところに道路が作られたことが判る。
一枚上の写真では、そこから写真中央寄りは母子寮や十軒長屋と呼ばれた市営住宅の撤去作業が進んでいる。
野砲5聯隊と輜重5大隊の境界線が戦後バス道路となったのである。

始めに掲げた写真は、天守閣から西(写真の右)を望んだものであり、幹線道路も含め白紙に線を引くように、戦前の道路と無関係に変えられたことが判る。

通常の市街地ならば、それぞれの区画に地主がおり、道路1本引き直すにも調整が必要であろうが、基町は広島城の西も東も官有の基町1番地であり、問題なかった。

市営住宅も、当初「市営住宅何号」という呼び方をしていたが、クラスメートの住んでいた551号などになると郵便配達にも支障が出たであろう。
そこで、城前住宅、同援住宅、鯉城住宅、朝日住宅、南鯉城住宅、北鯉城住宅などのほか、北区、東区、相生区、大手前、東基町などと適宜地名をつくって呼んでいた。

相生橋から写真下縁外の三篠橋までの河岸にも不法建築は残っており、市の中心部に原爆スラムと呼ばれる一帯が残っていた。

この基町再開発以前の戦後の基町を記録に残そうと、記憶を頼りに地図を描いてみたりしている。

市民球場が出来る前は、相生橋の近くに広島護国神社があり、相生通に面して大きな石の鳥居もたっていたし、その傍には児童文化会館というホールもあり、広島交響楽団が定期演奏会をやっていたことも知らない人が多くなった。

2012年01月20日

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淡水から広島までの一千浬(16)

HiroshimaMap_1.jpg

基町に移転してからの話の前に、もう少し書いておきたい。

戦後一時期だけ、ここに在った基町の様子を、何かに残しておこうと思った頃、塔文社から「昭和27年の広島と現在の広島」という市街地図が発売された。

しかし、「詳細広島市街地図」というその地図の基町地区は空白で、その縦横に2本引かれた道路も不正確なものであった。

騙されたと言って良いと思う。

motomachi_4a.jpg

描いてあるのは広島城本丸にある「広島城址」、「大本営跡」、「市民球場(?)」とその北の「基町高校」、「白島小学校」、「光の園」、それに派出所のマークと郵便局のマークのみであった。

基町の周辺部と言っても良い東部と相生通りの傍には、のちに移転した護国神社や裁判所、拘置所などの文字が見えるのみである。

これで出版物を捜すのを止めて、少しずつ思い出しながら自分でスケッチし始めた。


2012年01月21日

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淡水から広島までの一千浬(17)

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未だ建具も来ていない吹きさらしで、祖母が下の妹を負ぶっていた記憶があるから、熊毛郡の親戚に身を寄せていたのを呼び寄せたのであろう。

私は幟町小学校の3年生になった。
3年竹組の担任は渡辺菊子先生というちょっと怖い先生であった。
先生は小学校の近くの建設省太田川工事事務所の官舎に住んでいた。
この辺りで年次と記憶のずれがある。
竹組に編入になったのは4年生だと思っていたが、持ち上がりで4年になったのであろう。

当時、幟町小学校は流川教会の近くの校地に木造のバラック建てであった。

その頃、もう少し北の広島女学院(中高部)寄りの新しい校地に木造2階建ての校舎を建築中で、学童が自分の机を持って運んだ。

この年、あまり強くないのに身体に無理を重ねて父は肺結核となった。
母は、何かに縋りたかったのであろう。近くにあった天理教の布教所を経て、皆実町の白光分教会の信者となった。
もともと、祖母の嫁いだ原田家は神官であったらしいが、天理教の湖恩分教会を勤めて居たらしく、淡水在住のころは無沙汰していたが、浜崎で守浜分教会(当時は布教所?)を訪ねたこともある。

恭子は基町に引っ越して、ここで幟町小学校に入学した。
学校から比治山に花見に行って母と撮った写真がある。

この頃、上下水道の事業者や配管工の制度が整備されつつあり、父は広島市の第1回試験で配管工に合格した。

国家資格として配管工が技能検定の対象になった10年以上後のことである。
のちに給水工事主任技術者の認定を受けた際、広島市が配管工資格の返納を求めたことがあった。

ともあれ、1949(昭和24)年は、引き揚げて以来久しぶりに正規の住居を得た年であった。

この頃、小学校では1組、2組・・という組名を付けず、各校毎に組の名前を付けていた。幟町小学校では、松組、竹組、梅組と名付けていたが、戦後のベビーブームで学童数が増え、私の学級では櫻組までの4組があった。
それからも学童数は増え続けた。
校歌の歌詞も「一千余人もろともに・・・」と言う部分が「二千余人もろともに・・・」と改訂され、その後、藤、桐など、まるで花札のような組名が追加された。

4年竹組に田口秀樹というクラスメートが居た。
市営住宅の551号であったが、彼の父は絵描きのようで広くない住居をアトリエにしてイーゼルを立てていた。
当時の住所録を見ると基町北区551となっていたが、組替えで同じ組になった森武夫は第五基町461となっている。同じ列びの市営住宅であった。
無論、不法建築に住む学童も居た。これも住所録には基町相生区1などとなっていた。いい加減なものであった。

竹組で同じ組であったのは上記の田口のほか、笠間卓治、滝川雄壮、金子秀生、田中収、児玉信之、山本泰子、板谷冨美子、魚浜洋子などの名前を憶えている。
このうち滝川雄壮は後年、気象庁長官になった。

上掲の写真は入居した広島市営南鯉城住宅19号の玄関で妹と撮った写真である。
二人とも、足には下駄を履いている。
私が3、4年生で、妹はここで幟町小学校に入学した。

玄関脇には柊が植えてあったが、いま植えたばかりのような若木であった。

2012年01月22日

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淡水から広島までの一千浬(18)

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1950(昭和25)年4月、5年生になるときに組替えがあり、このときは転校生の挨拶をしなくて済んだ。
担任は小川武男という若いスポーツマンであった。
校庭が狭いのでグラウンドに対角線に百メートルコースを作って短距離の練習をしていた。

男27名、女34名であったが、男女比は4組とも似たようなものであった。

クラスメートは大体憶えている(男子は全員、女子は9割程度)。

広島は城下町であり、幟町のほか鉄砲町、蟹屋町、台屋町などの町名があったが男子6名、女子6名と基町勢が多かった。

クラスメートの寺本弘太は、修道中学校にも一緒に入学して同じ1組になったので長いつきあいになった。薬問屋の一人息子であった。

このほか、校長の息子や商店主の子弟や、双子の兄弟などが居たが、京橋川を渡って広島駅近くの大須賀町から通ってくる学友が居た。

彼は小児麻痺の後遺症で手足が少し不自由であった。
彼の通学路に架かる栄橋には三篠橋や相生橋と同様に爆撃で路面に穴が開いていた。
無論、防護用に柵は設けられていたが、彼は1人でこの橋を渡るのを怖がった。
それで毎日、栄橋を渡るまで彼をエスコートし、それから来た道を家路についた。
彼とは休憩時間もよく話した。当時未だTVはなかったが、ラジオの番組の話しなどをすると楽しそうによく話した。
彼の父か祖父は海軍軍人だったらしく旧海軍のアルバムを学校に持ってきて見せてくれたことがある。
彼の母親は、友達として付き合っていることを大層感謝していたようであったが、家には呼ばないように言っていたという。
彼の家のあったところは、ほかの地方都市と同じく駅の周辺であまり風紀のよい処とは言えなかったからである。

ここに掲げた写真は、卒業アルバムのために撮ったものであるが、男子27名のうち、彼を除く26名が写っている。
今でもこの写真を見ると往時のことが思い出される。

クラスメートの住んでいる地域は、東は広島駅周辺から、西は基町の太田河畔まで、北は白島から南は当時百メートル道路と呼ばれていた平和大通りの向こうまで、旧市街と言って良い程広がっていた。


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淡水から広島までの一千浬(19)

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この写真は、明田弘司著「昭和20年代→30年代:128枚の広島」(南々堂:2009年刊)から転載した「空から見た縮景園と白島通り」である。

1956(昭和31)年に撮影されたものであるが、中央左よりの2区画の校地は広島女学院の中学校と高校であり、その左上に幟町小学校の校舎とグランドが見える。

その西南角にはNHKの広島放送局があった。
NHKが後年平和大通りに移転したあとはデパートの商品倉庫として使われていた。

右上には基町の市営住宅が見える。

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この写真は上掲書に掲載されていた繁華街、八丁堀から西北を望んだものである(1952年、福屋百貨店屋上から)。

福屋デパートの上層部は貸事務所になっていたが1階、2階から順次売り場を広げていた。

幹線道路の相生通りにはまだ民家が居座っている。
路面電車の軌道を順次北寄りに移設している最中である。
中央に見えるバス乗り場は、郊外線バスの乗り場であった。

その向こうの広場は広島県庁の庁舎建設予定地である。
広島市民病院が出来て間もない頃である。

この頃未だ、写真の手前枠外には八丁堀という地名の由来である外堀の隅櫓の石垣が残っていた。

今は商用ビルの建ち並ぶ市街地になって当時の面影を偲ぶ縁も残っていない。

2012年01月23日

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淡水から広島までの一千浬(20)

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幟町小学校6年松組は、5年からそのまま持ち上がりの組であったが、男子27名に対し、女子は34名と多かった。

女子は国会議員の娘や当時、東洋工業と言っていたマツダの副社長の娘などが居た。
担任の小川先生はマツダの技術役員が取り寄せてくれたポピュラー・サイエンスという雑誌を見せてくれた。

女子の中で成績の良かったのはCHと言った。
算数も、國語も、理科も社会科も良くできた。

私は幟町小学校に落ち着くまで転校を繰り返していたが、当時小学校教育のカリキュラムが固まっておらず、カタカナから始める処もあれば、ひらかなを最初に教えるところもあった。
算数も、乗除算を習っているときに転校となり加減算に逆戻りしたこともある。
幟町に転校して5年生になるときに組替えがあり、やっと落ち着いたのである。
大体において授業内容を理解していたが、互角のレベルであったのはCHであった。
中学、高校と進学して先端を行くと思っていたが、ずっと後になって家庭環境からか心の病になり亡くなったと聞いた。

卒業後40年以上も経って、東京と広島でクラス会に参加したことがある。
いまでもやっているのであろうか?

2012年01月24日

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淡水から広島までの一千浬(21)

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小学校の修学旅行は別府であった。

国鉄の広島駅も横川駅もその頃、己斐駅と呼んでいた西広島駅も後年建て替えられたが、当時は広島駅にも学童が集まる適当な場所がなく、高架線になる前の横川駅から普通列車に乗った写真が残っている。

客車を増結したのかもしれない。
確か、見送りに来た母にチューブに入ったソフトチョコレートを買って貰ったと思う。

乗り換えの覚えがないので、そのまま日豊本線の別府駅まで行ったのであろう。

写真は、地獄めぐりの海地獄で撮った記念写真である。

ケーブルカーで楽天地に上がって温泉プールで泳いだ。
ちょうど、その日は雨であった。

別府港を見下ろす海岸沿いの児玉旅館に一泊して、帰りも列車に座って帰った。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

修学旅行の前であったが、小学校から己斐の茶臼山までの遠足があった。
片道4キロメートル以上ある。
山登りだから往きももバラバラで、帰りは学校まで戻らず帰宅した学童も居た。
今なら問題になっていると思う。

毎日、片道1キロを通学していたので、下校時にその倍くらい寄り道したり、帰宅後その程度の範囲なら、まだ部分的に瓦礫の残っている市内を歩き回っていた。

小学校で算盤も習った。
まだ貧困家庭も多かったので、学校で使う教材も「買わなくてはいけないことはない」と教師たちも気を使っていた。

それでも、広島の街はやっと復興の兆しの見え始めた頃であった。


2012年01月25日

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淡水から広島までの一千浬(22)

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龍目井で生まれた妹、恭子は基町に入居した1949(昭和24)年に幟町小学校に入学した。

この写真は4年生のときにクラスメートと校庭で撮ったものである。

世の中は、少しずつ落ち着いてきてはいたが、依然として主食の米は米穀通帳がなければ買えない配給制度が続いていた。

我が家も終戦以来、身体に無理を重ねて働いていた父が肺結核になった。
当時、ストレプトマイシンやパスなどの抗生物質が実用化されてはいたが、未だ若い人が結核に罹り、亡くなっていた時期である。
市営住宅で隣に住み、助け合って生きてきた奥さんも幼い3人の子供を残して結核で亡くなっている。
そのころ、結核になるとせめて滋養のあるものを食べさせて・・という状況であった。

父が倒れると、子供達を食べさせるために母も働いた。
洋裁や内職をやったりしていたが、淡水時代の縁で広島タクシーの車庫に働きに行っていた時期がある。
当時のタクシーは木炭自動車であった。
自動車に木炭を焚く窯を搭載し、細かく砕いた木炭を燃やして得たガスでエンジンを駆動するのである。
ガソリンに較べて力は出なかったがなんとか動いた。
しかし、始動時には窯に火をつけてからエンジンが掛かるまで時間を要した。
母は粉塵のなかでマスクで顔を覆って炭割をしてくれたのである。
最近、レトロブームで国内に幾つか木炭自動車があるという。
この近くでは西岩国で走っている動画を見たこともある。
ビュイックの木炭自動車もあったそうであるが、木炭のパトカーで逃走車を追跡できるのか疑問を感じる。

そんな中で、父は1949(昭和24)年、広島市の実施した第1回配管工試験に1級合格した。
父は前年辞めた水道工事店に呼び戻されて復職していた。

そんな中で、当時名門と言われていた広島大学付属中学校と私立の修道中学校を受験した。

修道中学の試験問題集を買ってくれたのを憶えている。
そのほか、教科書以外で買って貰ったものに少年朝日年鑑があった。
いま、古書を検索してみると昭和26(1951)年版が何冊かある様である。

広大の附属には小学校もあり、中学になるときは1クラス程度の人員しか採用しない。
中学の入試では入学定員の倍程度を筆記試験で選び、その中から抽選で入学者を決めていた。
この抽選に外れたとき母は大層残念がっていたという。

当初、基町の市営住宅から原爆スラムと呼ばれる不法建築群を抜け、相生橋から路面電車で御幸橋まで通学していたが、しばらくして中古の自転車を買って貰って、近くにあった母子寮の寮長の一人息子と、本通りの衣料品店の息子と3人で自転車通学を始めた。


2012年01月26日

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淡水から広島までの一千浬(23)

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修道中学校入学記念写真である。

こうしてみると当時の制服は、いわゆる学生服であれば良かったようで、黒も紺もグレーも居る。
襟も詰め襟、折り襟があり、制帽も学習院型もあれば慶応帽に近いのもいる。

1組には幟町小学校から進学した寺西、中村、田中らが居たが田中は高校卒業のときには一年次違っていた。病気か何かで休学したのかもしれない。

木造の講堂の前で撮影した。
中学1年1組の担任は、清水範一先生という國語の教師であった。
音楽が趣味で、昼の休憩時間には新入生に黒人霊歌などを唱わせ、自分は上手くないクラリネットを吹いたりしていた。
当時、映画化もされた竹山道雄の「ビルマの竪琴」を読んで聞かせたりもしてくれた。

新入生はおよそ360名で、6組に分かれていた。
中間試験や期末試験の席次が廊下に張り出されていたが、1年のときは40番前後だった。
そのまま行けば東大、京大に合格しそうな成績であったが「こんなものか」と気が緩んだのであろう。その後少し下がった。

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当時、中高部は本館のみ木造2階建てで、別棟に科学教室や敬道館という建屋があった。

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本館の正面右手には藩校時代の学問所から、私立修道学校を設立したときの山田十竹(養吉)先生の胸像があった。
この写真はPTA役員の写真であるが、前列右から3人目が校長の山尾政治先生である。剣道の有段者であった。

その脇に大きなシャコ貝が置いてあったが、謂われは知らない。

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本館の階下は教員室などがあり、2階に中学1年生の教室が並んでいた。
その裏には、長い2棟の木造(バラック)校舎が並んでいた。
本館の裏は温室や花壇があり、生物(植物)クラブの生徒が手入れをしていた。


2012年01月27日

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淡水から広島までの一千浬(24)

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入学した春には二葉山の東照宮などに遠足があった。

フェリーに乗って松山にも行った。
松山城や子規庵、道後温泉、石手寺などを巡った。
往きのフェリーは呉に寄港して三津浜に着いたと思うが、四国に行ったのはこのときが初めてで、海上でフリゲート艦を見たのも初めてであった。

一年生の頃、組で木を削って船を作り、校内の水路で走らせることを競い合っていた。
私は3本マストの帆船を作ったりしていたが、漁港のある坂町から呉線で通っていた柚木は船体を削るのが上手かった。他のものは木片の両端を削ったようなものであったが彼はフレアもシアもついた「船体形状」を形作っていた。
船を作ることに漠然とした興味を持ち始めたのはこの頃かも知れない。

夏には倉橋島の海越で臨海学校があった。
夏休みの分教場を借りて教室の床の間で寝起きした。
まだ、母親に頼まれて夜中に小便に起こされるものも居た。
朝食前に島の頂きに登ったり、夜は浜に寄せる夜光虫を手に取ってみた。
臨海学校だから水泳の教練が主体であった。
泳げない者は漁船で背の届かないところから浜に向かって泳がされた。
途中で教師が立ち泳ぎしているので、ホッとして足をつこうとする者も居た。
その後も臨海学校は継続して行われていたようであるが1992(平成4)年、サメ騒動をきっかけに中止となった。

修道の体育の時間は、雨が降ってなければサッカー、降っていれば柔道であった。
雨の日に、他人が着て汗をかいた柔道着は湿っていた。しかし、このおかげで受け身などは身についた。何時か本館の二階で廊下から地上に下げてあった非常用ロープで遊んでいた一年生が落ちたことがあったが、無意識に腕で受け身をしていたためか大した怪我もなかったと聞いた。高校になるころには「日本講道館初段(黒帯)」となった。昇段試験があるわけではない。市内で接骨院を兼ねた道場を持っている師範が練習を見ていて認定してくれるのである。

国体では、サッカー、水泳、バスケットが強く、野球は弱かった。私は体育系部活はやっていなかったが、同級生に一人、私を見つけると相撲をしようと挑んでくるのが居た。
休憩時間は相撲を取ることが多かった。学生服のズボンのベルト通しはみな切れていた。
体育と言えば「人絹一周!」を記しておくべきであろう。
忘れ物をしたとか、何らかの理由でよく土手を走らされた。
修道の中高部は南千田町にある。東は京橋川、西は元安川に囲まれ、傍に筏で運ばれてきた木材を浮かせている貯木場があり、南端には戦前、帝国人絹の工場があったらしい。
戦後は回収した破損ガラスなどを原料にした広島硝子工場があった。
運動場から正門を出て、土手に上り、それを一周するのである。ひどいときには「二周!」と言われることもあった。走ることがあまり得意でないのでこれは嫌であった。
いま、その一帯は下水処理場や広島市水道局の管理部などがある。

授業はどれも面白かった。
バラック校舎の掲示板には英語の教師が中学生向けの英字新聞を貼り解説したりしていた。
スエズ運河を巡ってエジプトとイギリスが軍事衝突していた記事は憶えている。

授業の開始と終了時刻にはサイレンがなったが、停電のときは用務員がチャラン、チャランと鉦を振って知らせていた。

音楽教室は敬道館という建屋の二階で、蓄音機も置いてあったが授業で聴くことはなかった。

中学のときの同級生にTと言うのがいた。
ターゲットを見つけると陰湿な悪戯や虐めをやっていた。
一度、下校時に往来で彼と取っ組み合いの喧嘩をした。
随分やっていたのだと思う。誰かが学校に告げに言ったのであろう。
数学担当の山崎教諭が来た。そして一言「今日は、黙って帰れ」と行った。
後にも先にも組んずほぐれつの喧嘩をしたのはこの時だけである。
高校になって別の組になって忘れていたが、結婚してから夜訪ねて来たことがある。
勘当されて、知人を訪ね歩いて生活しているようであった。
よく、訪ねて来たものだと思ったが飯を食わせて一泊させてやった。
帰り際に「幾らか恵んで欲しい」ようなことを言っていたと思う。
親はかなりの地位の公務員であった。

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修道中学校の卒業式は講堂で行われた。
教頭が神官であった。
「越天楽」が流れると、誰かが「黒田節!」と言うのを聞いて傍にいるものが笑い、壇上から睨まれた。
些細なことが面白い年頃であった。


2012年01月28日

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淡水から広島までの一千浬(25)

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修道高等学校には修学旅行がなかった。
その代わりが修道中学校の修学旅行であった。

別府、九重、阿蘇、熊本、雲仙、長崎の北九州めぐりであったと思う。
生徒数が多いので、宿舎その他が対応出来なかったのであろう。
2班に分けて逆回りで行ったと記憶している。

当時、広島から別府に行くには宇品から定期船が出ていたが、鉄道列車の貸し切りであったと思う。船に乗ったのであれば憶えているはずである。
小学校の修学旅行も別府であったが、船では引率の眼が届きにくいので列車になっていたのだと思う。

九重(久住)にも行った筈であるが写真が残っていない。

阿蘇の宿舎は、夏目漱石が泊まって「二百十日」を書いた山王閣で、雲仙の宿舎は、佐田啓治、岸恵子が、映画『君の名は』をロケしたときに宿泊していた「東洋館」であった。ここも写真がない。

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山王閣の庭で、外輪山をバックに撮った写真で、フィルムサイズ2センチ角ほどのプラスティック製玩具カメラである。

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阿蘇、中岳の噴火口では長田と中村と撮った。

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熊本城に行ったあと、三角から島原に向かう船上で撮った写真である。
右に写っているのは江田島から来た級友、津島英哉である。
なかなかの秀才であった。
彼は日本IBMの製造装置工業のシステムエンジニアをやっていたが、船舶推進器の動的応答に関する論文などを執筆している。
長野オリンピックのときは同委員会に出向していた。
2010年の那須ベテランテニス大会で優勝したスポーツマンでもある。

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こちらは廿日市から通っていた級友、永井勝彦である。
「根は優しくて力持ち」という感じで、電停から登校する道すがら、当時は所持許可など要らなかった空気銃の話しや当時まだ珍しかったプラスチック模型の話しなどをしていたことが思い出される。

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島原の船着き場で撮ったものであるが、彼の名は思い出せない。
編入生であったと思うが、修学旅行で小さなプラスティックカメラを持ってきていたのは彼である。

熊本城にも雲仙にも長崎にも行った筈であるが定かに憶えていない。
なにしろ半世紀以上前のことである。

2012年01月29日

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淡水から広島までの一千浬(26)

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高校になると中学時代に袖口に付けていた白線はなくなったが、襟章は持ち上がりであった。
白線は、袖口から10センチの処に1センチ幅の白テープを縫い付けてあった。
戦時中、空襲で避難するときに他校の生徒と識別するために付けられたと後で聞いた。
当時の中学は5年制であった。戦後学制が改められたとき、新制の高等学校に白線は付けなかった。

襟章は入学年度によって緑、黄、赤、白、金茶、青のうちの「修道」バッジが指定され、順調に進学すれば6年間変わらなかった。
卒業した年に入学した後輩がその色を引き継ぐのである。
従って、「Ⅰ」とか「Ⅱ」とか言う学年章は付けなかった。

いわゆる進学校であったので、中学2年までに中学のカリキュラムは修了し、中学3年からは数学や化学は高校の教科書を用いていた。
高等学校から編入した生徒は大変であったと思う。ただ一組増えるだけなので倍率が高く、その難関を通過した編入生はよく頑張って落伍するものは居なかった。

高等学校に上がるときに、音楽/絵画/書道を選択する者によって組編成が行われた。
音楽を選択したものは1クラスだけで、1組となった。そのほかは絵画か書道である。

3年生になるときに特別組(6組)が編成された。
東大、京大などを受験する組である。
当時、まだ蹴球はインターハイや国体で広大附属と2強が上位を占めていた。
その6組で、サッカー部のレギュラーとして活躍していたのもいた。
サッカーと言えば、当時国泰寺高校のグラウンドはサッカー競技場のように3方に芝生の観覧席があった。ここで行われる決勝戦は毎年のように付属と修道であった。

世間では進学校と言われていたが、ガリ勉などとは程遠く高校時代は楽しく過ごしていた。
弁当は1校時のあと食ってしまい、昼には自転車で近くのうどん屋に行った。
当時、TVの放送が始まったばかりで、朝のニュースのあと放送はなく、昼のニュースのあと料理番組が終わると夕方まで放送を休止していた。
その料理番組を見て学校に帰るのである。
たまに吉島の飛行場の辺りまで行き、授業が始まっていた教室に戻ったこともあった。

高等学校になっても貸し切りバスを連ねて備後の仏通寺などに行った。

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修学旅行の代わりにはならないが、我々の年は岡山の後楽園、鷲羽山に行き下津井に一泊して帰った。

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現在、鷲羽山には観覧車やホテルがあり、壮大な瀬戸大橋が展望できるがその当時は松の生えているだけの岩山であった。

見出しの写真は、後楽園で撮ったもので、懐かしい顔々が見える。
写っている先生は、後に校長を務められた楢崎先生(化学担当)である。

私が中学生か高校生の頃、山口県熊毛郡から山本マキ子さんが家に来た。
広島の的場町にある繊維関係の会社の一つに就職して、家から通うことになったのである。
淡水の頃のように家族で暮らすことになった。
マキ子さんは母のことを、姉さんと言い父のことを先生と呼んでいた。
今でも元気にしていることは有難いことである。

2012年01月30日

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淡水から広島までの一千浬(27)

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修道高等学校のイベントの一つは秋期運動会恒例の3年生による仮装行列であった。

それぞれ組毎に出し物を相談し、準備するのであるが、この年の一組は何でもありの成り行き任せであった。

ボール紙で作った兜をを被っている者、弁慶など僧兵に扮した者、鞍馬天狗のような頭巾を着けた者、丹下左膳、虚無僧、若衆などが居るかと思えば、日露戦争の陸軍兵士、大東亜戦争当時の将兵、果ては自衛隊の制服を借りて着用している者もいた。

中には真知子巻きのような気持ちの悪い女装や、いわゆるこも被りまで居た。

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上の写真の右隅から自分の影像を切り出したものである。

旧海軍士官の詰め襟は父が知人から借りてくれた。
制帽は広島市水道局の守衛から借りたものである。
双眼鏡は家にあったもので、手袋は綿の軍手、勲章のようなものはどこかの従軍徽章かなにかである。
この写真では判らないが、腰には短剣も吊っている。

この格好で、家族席に弁当を取りに行ったら「兵学校の生徒が来ている。」という声が聞こえた。
江田島は修道のある南千田の鼻先であり、その十数年まえまでは海軍兵学校の生徒が広島の街も歩いていたものである。

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プラカードは父が書いてくれたものである。
右の旧陸軍の仮装をしているのは一緒に浪人して広島大学に入学したHMである。
左の自衛隊の制服を着ているのはKである。
東京の私学に行ったと思うが、今頃どうしているのであろう。

当時、国立大学は個別に入試を行っていたが、受験生に2度の受験機会を与えるということで、試験期日を2度に分けていた。
広島大学は1期校、岡山、山口、愛媛、香川の各大学は2期校で、四国では徳島大が1期であったように憶えている。

当然、自宅から通学できる広島大学の工学部を志願し、2期校として愛媛大学に新たに設けられた電子工学科に申し込んだ。

合格発表の日に工学部に見に行ったが私の受験番号は載っていなかった。
3年生になると1、2年の頃ほど勉強に身が入らなくなったのである。
このときは5、6名で受けたが総倒れであった。

それで愛媛大学も私学も受験することなく浪人生活を決めた。
当時、広島には英数学館とYMCAの予備校があったが悩んだ末、YMCAに決めた。

ここで広島者のほか、山口県や鹿児島県から来た友人が出来た。

特に上関の対岸、室津から来たMMに誘われて、音楽喫茶に行くようになりクラシック音楽を好むようになった。

HMとは尾長のやまで小型ロケットの打ち上げ実験をやった。
東大生産技研の糸川英夫氏がペンシルロケットの実験をしていた頃である。
燃焼に用いる硫黄や亜鉛粉末は、高校指定の教材屋が何も聞かずに売ってくれた。
精密な観測機材はなかったが、終いには結構飛ぶようになった。
浪人時代も楽しい思い出が多い。

1959(昭和34)年3月9日に合格者発表に行き、船舶工学科の受験番号45番を確認した。
父は、よほど嬉しかったらしく「我が家のメモ」に現役で受験したときから合格するまでを数ページにわたって書いている。
父が合格者発表を見に行ってくれ、嬉しくて泣きながらバイクで帰ってきたという。
その夜、ビールを何本でも買ってこいと大いに祝杯を挙げた。
それから数日、祝杯祝杯でとうとう急性肝炎になった。
入院した広島市民病院の広本医師が良い目にあったのだからこれくらいは良いでしょうと笑ったという。父は笑われても嬉しかったとメモを締めくくっている。

唐津から広島大学に受験に来た従兄の雄二は応用化学を同じ受験番号45番で受験したが、上記HMとともに応用化学科に合格し、入学した。

彼らは、よく家に遊びに来て、食事のあと祖母を交えて麻雀や花札などをして帰った。

この年の10月に、父は復職していた水道工事店の専務取締役になった。
まだまだ裕福というには程遠かったが、やっと少し明るさが見えてきた頃であった。


2012年01月31日

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淡水から広島までの一千浬(28)

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1959(昭和35)年12月9日、祖母 原田ユクが亡くなった。
私が広島大学に入学した翌年であった。

祖母の67年の生涯は波瀾万丈の人生であった。
若くして夫に先立たれ、小さな女の子を連れて淡水の伯母を頼って渡台し、遮二無二働いた。

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そして淡水街の嘱託として公会堂の管理を任され、宴会や仕出しを営んでいた。
公会堂の小母さんと呼ばれて内地人からも現地人からも慕われていたという。

そして、私のことを赤ん坊の頃からかわいがって何処にでも連れて行ってくれた。

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それが戦争で一変してしまった。
戦時中は爆撃や銃撃に遭い、我が家は敗戦になって無一文となり、引き揚げてからも基町の市営住宅に入居するまでは山口県熊毛郡の親戚に身を寄せるなど肩身の狭い暮らしを忍ばざるを得ない時期もあった。

戦後の、そういう環境のせいもあってのことであろうが、晩年は喘息に罹っていた。

それでも、何とか広島での生活にも見通しがたつようになっていた。

祖母は晩年、「私の一生を書いたらそれは面白いものになる。」と笑って話していたことがある。

祖母と岩田や櫛ヶ浜、下松などに行ったこともある。
淡水で家族として一緒に住んでいたマキ子さんは下松の福田さんと結婚して息子、娘も授かっていたので下松にも行っていた。
福田さんも立派な人物であった。
私も大変お世話になった。

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私は子供の頃からお婆ちゃんの肩を叩いたり揉んだりしていた。
また、それを喜んでくれた。

亡くなったのはその年の師走であった。
私は入学して2年目であったが、妹の恭子は基町高校の卒業を控えて、三菱銀行に入行が決まっていたのを喜んでいた。

私のことは船舶工学科に入ったのだからと何も心配はしていなかった。
大学に入ると、桐の下駄や朴歯の下駄を買ってくれた。

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明治、大正期の学生のように、破れた帽子を被り、学生服の腰にタオルを下げた書生のような格好を見て喜んでいたように思う。
それで走ったり、跳んだりするものだから下駄は鼻緒が切れたり、割れたりした。

祖母は、母が女学生の頃から琵琶を習わせていた。
吟詠も好きだったのであろう。

広島市営の高天原墓園の一区画に「原田家の墓」として墓碑を建てたが、後年 母が詩吟の段位を取ってから墓地で祖母に聞かせようと漢詩を吟じたことを思い出すことがある。

そして翌年、恭子は基町高校を卒業し、三菱銀行広島支店に勤務した。


2012年02月01日

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淡水から広島までの一千浬(29)

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1959(昭和34)年4月、広島大学に入学したが、新制の広島大学は広島市東千田キャンパスには大学本部、文学部、理学部、教育学部などがあり、電停で一つ先の千田町キャンパスに工学部、そこから御幸橋を渡った皆実町に教養部があった。

このほか教育学部東雲分校、三原分校、福山分校、それに現在、広島商業高校のある江波のキャンパスに政経学部という風に別れていた。

旧制の広島文理大学に広島高等師範学校、広島工業専門学校、広島高等学校、それに新制の広島医科大学まで統合して出来た新制大学であり、多くのキャンパスに別れていた。

当時の教養部は一年次および2年次のおよそ半分、外国語や体育を含む教養各科目を履修していた。このため、教養部には広島高等学校のあった皆実分校が用いられた。

入学式も、見出しの記念写真撮影も皆実分校で行われた。
チューターは、ドイツ語の安田という教員であった。

工学部船舶工学科(定員30名)として26名のほか、工業教員養成課程枠の1名、それに復帰前の沖縄から1名、香港とパキスタンから私費留学生各1名で、総勢30名であった。

この中に、本当に船舶が好きで本学科に入ったのは、私のほかには1人しか居なかった。松山、愛光高校出身の日野久志であった。
彼とは学生番号が連続していたので、教養部の体育実技、物理の実験などペアで受講するときは何時も一緒であった。
松山は三津浜の出身だという。松山市の中央部にある駅は「伊予鉄松山」で、国鉄予讃線の「松山」駅は町外れであった。そこから海辺に出たところに三津浜の船着き場があり、伊予鉄もここまで延びていた。松山観光港と言われる高浜港はさらにその先で、伊予鉄の駅まで短距離のバスが接続していた。
関西汽船などの観光船を繋岸するために設けられた外港である。
その頃、広島との連絡線は三津浜に接岸していたが、いまは高浜に集約されているのだろう。

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授業だけでなく、遊びに行くのも何時も日野と一緒であった。
彼とは岡山にも遊びに行ったし、彼の知人宅にも二人で行き、「御神酒徳利のよう」と言われたこともある。

機械工学科や電気工学科は何処にでもあるが、船舶工学科あるいは造船学科というのは極めて少なかった。
国立大学では東京大学、大阪大学、九州大学、横浜国立大学の4大学で、公立では大阪府立大学のみ、私立では三年制の長崎造船短期大学があるだけであった。
短期大学と言っても2年間で造船技師を養成するのは無理で3年制であったが、後に4年制に移行し、長崎総合科学大学となった。
学科定員は各大学とも30〜40名程度であった。
校内実習や夏休みを利用した造船所における実習を考えても、それ以上定員を増やすことは無理であった。

教養部として社会科学や自然科学を、他学部生と一緒に学ぶのは良いと思った。
当時、市内各地にキャンパスが分駐しており、教養課程がなければ同じキャンパスに学ぶことは出来なかった。

しかし、教授、助教授など本来同格である教員が、教養部に在籍していることで一段低く見られることがあったようで、後年教養部は廃止され、総合科学部が新編された。

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2年生になると、皆実分校の教養部と千田町の工学部で授業が行われた。
物理、数学など各学科共通の授業もあり、船舶算法とか鋼船構造法など船舶工学固有の授業もある。

教養部と工学部の位置は数百メートルしか離れていなかったので、午前中は教養部、午後は工学部で授業を受けることは可能であった。

当時は若い者の間で、社交ダンスが流行っており、各科の追い出しイベントもダンスパーティをやることが多かった。
卒業して入社した造船所でも毎年、設計部恒例のダンスパーティが開かれていた。
ダンスなんて何だか柔弱に思えて習う機会を失った。

当時はカクテルが流行っており、安月給のサラリーマン家庭にも錫製のシェーカーがあった。
大学祭でも、ウィスキーの水割りみたいなものはメニューになく、炭酸水とシェーカーで振ってグラスにレモンスライスで香りを付けていた。
缶ビールが、日本で発売されたのは大学に入った年であったと思う。

当時、喫茶店にもよく行っていた。
入学前に国鉄広島に勤めて居た叔父が連れてくれて行ってくれた、駅前の「パール」はまだ営業しているそうである。
そのころジュークボックスというのがあった。

何時か、船舶クラスメートの日野と田島と、胡町の喫茶「モンブラン」に入った。
3人とも、だれか珈琲代くらい持っていると思って注文したのであるが、誰も持っていなかった。
田島が「ちょっと待っていてくれ」とパチンコ屋に行って珈琲代を稼いできた。
そこのレジの小母さんにも名前を覚えられた。

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冬になると皆で、県境のスキー場に行った。

駅のプラットホームを降りるとそこがゲレンデで、線路まで転んでディーゼル車に当たるものも居た。

当時はスキーウェアにこだわる者もおらず、またそういう時代でもなかった。


2012年02月02日

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淡水から広島までの一千浬(30)

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大学2年生の夏、酒類卸売店でアルバイトをした。
オート三輪の助手席に乗って、小売店や飲食店にビールケースを納品するのである。
角帽を被り、酒屋の前掛けを締めてビールケースを運び込むのであるが、2階の倉庫に納めたり、狭い地下に運び込んだりして思ったより大変であった。

たまに小売店などで、冷たいお絞りやアイスキャンデーを貰うとことがあると本当に助かった。
そこの店主は荒二井芳衛と言って、旧陸軍の連隊長を勤めた人であった。とても厳しい主人であったが、終了日には日給計算にボーナスを付けてくれた。

船舶工学科では3年次と4年次に造船所実習がある。
学生は上京出来るからと、横浜ドックを希望する者や、神戸の新三菱重工や川崎重工、当時世界一の建造量を誇る長崎造船所に生きたがる学生が多かった。
旅費付き、宿泊付き、日当付きで週に一度くらい飲みにも連れて行ってくれるという。

1961(昭和36)年7月に、3年次の実習で私は三菱造船下関造船所を選んだ。

折角、2〜3週間も造船所に通えるわけであるから、大型船を連続建造しているようなところより軽合金の魚雷艇や、当時はやりの水中翼船、それにタグボートやキャッチャーボートなど、いろいろな船に巡り会えると思ったからである。

両親は、実習が決まると綿の煙管服を買ってくれた。
いわゆる「つなぎ」である。
煙突などに入る必要のある場合、上下の作業服を来ていると腰の辺りから粉塵が入り込んで始末が悪いのでワンピースが用いられていた。
しかし、真っ白な煙管服は目立った。

宿舎は、船主監督官や艤装員の宿であった彦島寮であった。
同時期に実習したのは広大船舶4年生の和田氏と、他大学から来ていた大鶴氏(機械科)だけであった。
大鶴氏は就職した事業所で偶然再会することになる。

実習が始まって、父に手紙で状況を報告したら、折り返し返信があった。
いまも手許にある。

下関造船所では当時、海上自衛隊の「第10号魚雷艇」を建造していた。
艇体は軽合金で、エンジンはイギリスのナピア社から輸入したデルティック・ディーゼルエンジンである。
その建造のための監督官もそこに駐在していた。

工作部の事務所に連れて行かれ、係長が材料力学の問題を作ってくれこともある。
船台で作業する作業班に預けられて、溶接やガス切断のまねごともやらせてくれた。

終末には実習生の歓迎と、班員の慰労を兼ねて海水浴にも連れて行ってくれた。

工作部の課長、係長、担当技師などが小さな料亭で歓迎会などもしてくれた。

彦島は本土の下関から橋が架かっており、バスでも徒歩でも街に出られた。
当時、捕鯨の盛んな頃で駅のガード裏には「まるは通り」もあった。
彦島寮に勤める人と映画を見に行ったこともある。

寮の管理人は、淡水公会堂の管理人をやっていた頃の祖母を想像させるような女将で、嫁と孫もいた。よく面倒を見てくれた。

造船所としては中小の造船所と同じように忙しくしていたが、基本設計の原田課長が電話でドイツ語で交渉していたのを聞いたときはちょっと驚いた。
造船設計課長の野口良平氏にもなにかとお世話になった。

忙しいなかではあったが、飽きないようにいろいろなことをやらせてくれた。
何時だったか、ドックに注水し浮かんでいる船に潜り込んで作業していたら酔って気分が悪くなったことがある。

トルコから受注した中型貨物船を3隻建造していたが、そのうち1隻の試運転にも乗せてくれた。

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船名はたしか「ガジ・オスマン・パシャ」といった。
別に仕事はない。速度や旋回性能など契約仕様を確認する重要な試運転であり実習生は見学しているだけであった。

宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をしたことで有名な巌流島の大部分は造船所の所有地であった。
今は観光船の上陸ポイントにもなっているらしい。

実習しているときに甲子園で行われた高校野球の決勝も彦島寮で監督官たちとTV観戦した。差し出されたコップのビールを一気飲みしたら女将が注ごうとしたが、この時は流石に遠慮した。

監督官は、軽金属を製造している神戸製鋼所長府製作所を見学するなら紹介しようかと言ってくれたが短期間の実習であり機会を逸した。

ときどきフグや鯨を食いに下関に行くが、その時の実習から半世紀近く経って、関門海峡から造船所を眺めたことがある。

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2009(平成21)年に呉の海事歴史科学館(大和ミュージアム)で「船の文化検定」を受けたときに主催者の体験乗船会があり、北九州市の海事広報艇「みらい」で約1時間の乗船を楽しむことが出来た。


2012年02月03日

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淡水から広島までの一千浬(31)

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このシリーズ第19回で提示した写真で郊外線バス乗り場があったあたりに朝日会館というビルが建った。
オープンは1958年12月であった。

7階にはロードショウ劇場があった。
そのエレベーターホールの脇にはコンサートホールがあり、何時もレコードコンサートをやっていた。クラシックの曲が多かった。

屋上には、広島で初めてのビアガーデンも開設された。
ステージが設けられ、ハワイアンバンドが連日演奏していた。

1962(昭和37)年6月16日、クラスメートに朝日のビアガーデンに行こうと誘われたが自宅に居た。

4年生になったその年の6月6日に、広島造船所で三菱造船の採用試験があったのである。
採用試験とは言っても面接だけである。面接室では造船設計部長、造船工作部長、研究部(広島)長、人事担当副所長が窓を背に掛けていた。
流体力学の基礎知識を問うような質問もあったが、実施中の卒業研究についていろいろ聞かれた。
当然、希望する配属地や業務内容についても聞かれたと思う。
その結果を聞くまで何となく飲みにゆく気がしなかったのである。

午後5時過ぎ、電報が来た。
当時、家に電話を敷いているところは少なく、急ぎの知らせは電報であった。
紙屋町の電報局には青く塗った電報配達用の50ccのバイクがズラッと並んでいた。

6月16日、マルノウチ、コ4,25
サイヨウキマリタ」アトフミ」ミツビ シゾ ウセン

広島局の受信は午後4時55分である。
同期の合格第一号であった。

歩いて朝日ビアガーデンまで行って、クラスメートの仲間と飲んだ。
800cc程度のの大ジョッキを6杯くらいで、後は中ジョッキにした。
女学院短大の英文科も同席していたと思う。
工学部に入って女学院の英文科と一緒にハイキングに行ったりしたことがあり、何度か連携したことがある。
(同期の一人はそのとき知り合った人と結婚している。)

そのあとは、中央通りのスタンド「山」に行った。
ここは船舶工学科行きつけのスタンドバーで、上級生が居ると飲み代を払ってくれた。
「船舶」のノートもあった。
当時、この店では勘定のとき飲んだ量をセルロイド(?)の物差しで測っていた。
「何センチだから、代金はこれだけです。」というのである。
何でも、店の名前は山岳部の先輩が始めたからとか聞いたことがある。
宝塚劇場脇の歩道から地下に降りた小さな店であった。

広島の朝日会館は、その後「アラビアのロレンス」など洋画のロードショウを見に行ったりしていたが2010年の暮れに解体工事が始まって、そのあとは新しいビルを建設しているらしい。

その間、ほぼ半世紀であった。

工学部の教官は、三菱広島の設計課長であった浜本先生と、九大の造船科から造船所の実習に行き、その騒音に驚いて研究室に残った川上先生が教授で、そのほか助教授、専任講師が数名居た。
何れも我々が在学している頃、学位をとった。

中には、その先生が街に飲みに出る日と、パトカー出動の相関係数の高い先生も居た。
近郷の名士だそうであるが、街で行き会う人に説教をするのである。
パトカーが来て決着の付くことが多かった。

学部に進学して我年次のチューターであった先生は金属材料の分野に特化し名古屋の大学に転勤になった。

卒業研究は推進器や舵に関する流体力学に関するものであった。
指導教員の専門とは少し異なっていたが、何しろ先任教授であったために必要な機材など研究費に困ることはなかった。

ただ、卒業研究の発表会では指導教員と対立する教授の追求が厳しかった。
そういう人間関係を見聞したり、小規模ながら高度な技能を持つメーカーとの交渉などで実社会を少し経験したような気がした。


2012年02月04日

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淡水から広島までの一千浬(32)

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卒業パーティは平和公園の平和記念資料館の東館で行った。
東館には講演会などを行うホールの他、大小のブースがあり当時は市に申し込めば利用できた。

テーブルを壁際に寄せてカウンターを造りウィスキー、ブランディ、ジンなども持ち込んだ。

カセットテープレコーダーは開発されたばかりの時期であり、リンガフォンなどもオープンリールのテープレコーダーで再生していた時代なので、音楽はレコードプレーヤーを持ち込んだ。

しかし、ダンスは知らなかったので飲んでばかりで、ジンをコップで飲んだりしていたので酔ってしまった。

誰かが家まで連れて帰ってくれたらしい。

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卒業式も平和公園の公会堂で行われた。
広島大学には卒業式の出来るような講堂はなかった。

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このとき初めて作って貰ったスーツである。
手に卒業証書の紙筒を持っている。
式には両親が来てくれて、このあと紙屋町地下のレストランで一緒にランチを食べた。

基町地区は再開発のために木造住宅を撤去して公営のアパートが建ち始めていた。
卒業した年の春に、家族は父が勤めて居た会社の2階を住居に改装して皆実町に引っ越しをした。

基町東区南鯉城住宅19号に一人で住んだ。
家賃は月千円であったと憶えている。

就職の決まった三菱造船からは社内誌が郵送されていたが、入社までに通信教育だの、レポート提出だのはなく、至極のんびりしたものであった。

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4月に入社式に上京した。
大学卒の男子は本社採用で、高卒男子と短大卒の女子は事業所採用であった。

東京では10日前後、代々木の私学会館に宿泊して本社に通い、社長や役員の講話を聞いた。各事業部や事業所の歴史や現況などの話であったが、明るいうちに開放され、四谷や原宿を散策したりしていた。

宿舎の部屋割りは長船班101名、広船班91名となっていた。
三菱造船では、事業所のことを「場所」と呼び、長崎造船所の略称が長船、広島造船所の略称が広船である。

戦後の財閥解体で三菱重工業は 東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に分割されたが、当時はそれぞれ三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船に社名変更していたが、三菱造船には長崎造船所、広島造船所と実習に行った下関造船所があった。
そして、本社における集合教育が終わる頃に、配属事業所の発表があった。

広島大学船舶工学科からは5名入社したが、船岡が長崎造船所、私と北川が広島造船所、江崎と加藤が下関造船所に配属された。

その前年までは長崎配属組は広島で、広島配属組は長崎で約1ヶ月の実習があったようであるが我々の年は、途中で一泊の見学旅行になっていた。

この1ヶ月の実習期間で見初めたのか見初められたのか、長崎から広島に嫁いできた人は沢山居たが、逆は皆無であったと聞いたことがある。
長崎は余所者にすぐ打ち解けるところがあるが、そんなことが影響しているのかも知れない。

本社の集合教育では自宅から通っていたのが2〜30名居たが、事業所での教育は全寮制で私も三菱観音寮に入った。
和室で4人部屋に3人棲まいであった。

私は毎週、洗濯物を持って家に帰り、自分で洗濯することはなかった。
後で同室であった者に聞くと、掃除の仕方に注文を付けたことがあるらしい。

応募要項には月収2万1千円となっていたが、初任給を貰ってみると2万1百円であった。
勤労部の説明では、春闘が決着していないのでベースアップが遅れたらしい。
7300円であった本給が、7月頃7600円に改訂された。
複雑な給与体系で、よく判らなかった。

2012年02月05日

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淡水から広島までの一千浬(33)

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三菱に入社し観音寮に入寮して、工場実習が始まった。
広島造船所は、埋め立てと並行して建設が進められ、同時に第一番船の建造に着手していた。

徳川幕府が長崎に鎔鉄所を開設し明治政府に移管された官営製鉄所を、三菱商会の岩崎彌太郎が払い下げを受けて三菱会社長崎造船所が設立された。

日露戦争中の1905(明治38)年に社船の入渠、修理のために神戸造船所を開設し、1914(大正3)には彦島造船所(後に日立造船彦島造船所を併合し下関造船所となる)を創業、1935(昭和10)年には日本郵船の横浜船渠を合併し、1943(昭和18)年には若松造船所を建設するなど事業を拡大していたが、大東亜戦争を戦い抜くために東洋一の造船所を建設することが決議された。

第1候補であった周防灘に面した福岡県の苅田は、水深が浅く、浚渫してもすぐ埋まり、交通も不便なため土地は無償提供されるというも断念され、静岡県の清水、富山県の伏木、兵庫県の広畑、愛媛県の三津浜なども候補に挙がったが、新造船所建設地は広島に決まった。

日清、日露の戦争で軍都となった広島(宇品)港からは幾百万の将兵が戦地に赴いたが、宇品地区の西、吉島、江波、観、庚午、草津にわたる130万坪の地先を埋め立て、大工業地帯を造成し、1万トン級の船舶の接岸出来る港湾設備が計画された。
1940(昭和15)年11月のことである。

埋め立て工事が始まると、当時の広島県知事相川勝六をはじめとする政財界の要人が東京、大阪で誘致活動を展開した。
当時、三菱重工業と社名を変更していたが1942(昭和17)年3月30日に観音地先埋立地(広島工業港第5区)を、次いで同年7月10日に江波地先埋立地(同第4区)の売買契約が交わされた。
双方で60万坪にのぼった。

1943(昭和18)年4月に工場建設に着手し、翌年三菱重工の2つの独立した事業所になった。

観音地区に建設中の新工場には「N工場」と仮称がつけられ、神戸造船所に設けられた陸上機械工場拡充計画委員会の主導により、神戸造船所から技術者の第一陣が派遣された。江波地区の工場の仮称は「S工場」とされ、長崎造船所がその支援に当たることになった。

「S工場」には、船台を8基並べ、それぞれ複数の乾ドック、繋船堀が設けられる計画で、埋立地の北で輸送船から降ろされた鋼板は、マーキング、ガス切断、小組立の過程を経てブロックとなり、一方向に移動しながら船台上で船体となり、進水するという理想的な工場内物流であった。

「N工場」はディーゼルエンジンや蒸気タービンその他の主機、補機のほか発電所用水車など陸用の大型回転機械などを建設する計画であった。

1944(昭和19)年3月15日、N工場は広島機械製作所、S工場は広島造船所として発足した。

既にその前年、埋め立て中に構築されていた第1船台、第1船台で第1番船、第2番船が起工されており、1944年6月20日に第1番船「久川丸」が進水した。

まだクレーンもなく、未完成であった船台で、先輩が苦労して建造したのであろう。
広島造船所の創設20周年にまとめられた小冊子には「罫書きされた鋼板は金鋸でひき、ハンマーで叩いて曲げた」と書いてある。

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これは1956(昭和31)年当時の広島造船所である。

入社したのは、その7年後のことである。

江波の埋立地の南西側はまだ陸だか海だか判然としていなかった。
東側の艤装岩壁と、その南側に第1船台から第3船台までが出来ており、第4船台は中途で建造が中止されていた。

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そんな状況なので、当時の江波担当副所長の梅住 剛氏が「私の在任中に構内の道路舗装を終えたい」という挨拶を憶えている。

約10日間の本社集合教育が第1期教育であり、事業所に移ってからは第2期、第3期の教育が始まった。
第2期教育では、観音地区配属予定者は江波で、江波地区に配属が予定されているものは観音地区で現場実習が行われた。
技術系も事務系も一緒であった。
第3期教育では配属予定の部課で、職場体験実習のようなものであった。
それぞれに指導員が付き、毎日実習日誌をつけて第2期では勤労課長、第3期では配属予定先の部長まで査印を押していた。

新入社員を希望していた部課では、入社のときから成績や本人の申告書から配員を決めていたようであるが第3期実習にかかる頃、造船設計部長と造船工作部長の面接があった。
私は設計技師も現場の担当技師も希望していたが、申告書には造船工作部志望と書いていた。
ところが部長面接の前夜、一緒に入社した北川がどうしても現場に行きたいと言うのである。
一日中、大勢の居る処で机に向かって座っているのは考えただけでも嫌だというのである。
とうとう根負けして、北川に工作部を譲ることにした。

部長面接の当日、両名とも現場志望と言ったが、結局1人は設計部に行くことになり「私は設計部でも結構です。」と言った。何様のつもりと思われたことであろう。
梅住工作部長は私が工作部に行くものと思っていたようであった。

7月1日付けで「造船設計部基本設計課殻計係」の見習甲となった。
見習工のようであるが正式な職名であった。


2012年02月06日

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淡水から広島までの一千浬(34)

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私が卒業して三菱造船に入社した年の8月に、広島市営の高天原墓園(区画番号:2級118号)に原田家の墓として墓碑を建てた。

そしてその翌年の1964(昭和39)年に西蟹屋で生まれた妹、由起は広島市立舟入高等学校に進学した。

その年の5月20日は両親の結婚25周年記念日であった。

結婚して数年もしないうちに戦争になり、無一文で引き揚げ、原子爆弾で70年は草木も生えぬと言われた広島に住んで、20年近い年月が経過していた。

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会社の厚生課に申し込んで、宮島保健会館に3人で食事をし、両親はそこに泊まって宮島を観光して帰った。

その保養所は厳島を対岸に望み、海面に立つ朱の鳥居もよく見えるところにある。

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ここにはスナイプ級ヨットの艇庫があり、焼き玉エンジンの漁船も1隻あった。

休日には職場単位で釣りや海水浴に行き、釣った魚を賄いに持って行き、ビールを飲んでいると煮魚にしたり、焼き魚にして持ってきてくれたりする良い雰囲気の保養所であった。
私もその頃行った覚えがある。

その頃はとても和やかな家庭的な雰囲気であったが、管理人が変わると従業員に「そんなことはしなくて良い。それもするな。」と言い、手のひらを返すようにサービスが変わった。
何でも、焼き玉エンジンの漁船は前の管理人に退職金代わりに譲渡したと聞いた。

2012年02月07日

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淡水から広島までの一千浬(35)

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1963(昭和38)年4月に三菱造船に入社し、7月に広島造船所に配属になった。

当時は、造船ブームを控えていた時期で、設計も現場も月に数十時間の時間外勤務が定常化されていた時期であった。
しかし高卒、学卒の新入社員は、一年間仕事をさせてはならず、まして残業などさせるとそこの部長が勤労課長から注意を受けるほど大事にされていた。
(しかし当時、女子の新卒は事業所採用で、しかも女子短大が対象とされていた。大学卒の女子は短大卒と同じ条件で採用されることがあった。その頃は、女の子は結婚したら辞めるという見方が多く、結婚相手を見つける為などと考えるものも居たのではあるまいか?、従って、学卒男子の新入社員を「見習甲」、高卒男子を「見習乙」と呼び、女子は「雇」、「雇員」と言っていた。まだ、職員、工員の身分制の頃である。)

7月に配属されると、指導員と相談して研究テーマを決め、3月にレポートを書き発表するのである。

それがパスすると、技術系の「見習甲」は「技師」に、事務系は「事務」に、技術系の「見習乙」は「技手」に、事務系は「書記」という身分になった。

技師になったばかりの1964(昭和39)年に、国内便の航空機で東京に出張を命じられた。
広島造船所には修繕用船渠がなかったが、広島の東郊、坂町にあった旧陸軍の船渠を財務局から借用運用していた。
そこに入渠したリバティ船のディープタンクの隔壁が錆び落ちており、図面上4区画であったタンクを1区画に変更することになった。
区画割を変更することは船体の改造に当たるので、船級協会の承認が必要であった。
それで、通船で鯛尾船渠にゆき、油まみれになって船内を調査し、皆が退社した設計部に戻ってフリーハンドで区画変更の図面を書いた。
机の上には国内便航空機のチケットがあり、それで本社の営業経由、ABS(アメリカ船級協会)の責任者に逢って船体改造の承認を取ってこいという。
その船は翌日出港させるから急ぐのである。

朝方、着替えのためにタクシーを呼んで自宅に帰ったが、作業服がドロドロで座席に座れないので大きな図面を何枚か敷いてそこに腰を掛けた。
タクシーに手持ちがないので運賃を借りるというと「オーダーは?」と言う。
社内では人件費も経費も全てオーダーで処理していた。
街のタクシーもオーダーが使えるのかと思ったが、その後長崎造船所に出張に行って、飲み屋の支払いまでオーダーで処理できたのには驚いた。
何桁かの数字を口頭で言うだけである。
長崎は企業城下町だという意味が判った。

このときは本社修繕船部の長島氏がABSに付き合ってくれた。
ABSの責任者には錆びた鋼板の残り厚さを測れと言われた。
長島氏には昼をご馳走になり、初めてギネスを飲んだと思う。

承認さえ取れれば・・と言うのか帰りは呉線まわりの特急の切符があてがわれた。呉線沿線を走っているとき鯛尾ドックを出渠するリバティ船が見えた。
鋼板の厚みを測るように言われていたがどうしようもない。

リバティ船とは、第一次大戦で欧州に軍隊を送るときにイギリスから船を借りなければならなかった事例により大量建造された戦時標準船である。
合衆国における造船の大立て者ヘンリーJ.カイザーを中心とする造船企業が2000隻以上建造した1万トン級で、電気溶接を広範に用いることにより短期間で量産したが、航行中に船体破断などの事故が続いた。
主船体の電気溶接による脆性破壊であったことが解明され、我々が入社した頃は部分的に鋲接接合部が残っていたが、数年で全溶接構造に移行した、工学の失敗を教訓に活かした事例として有名になった。


2012年02月08日

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淡水から広島までの一千浬(36)

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1964(昭和39)年11月11日に、広島造船所の第1船台で第20次計画造船の太平洋海運向け7万トン級タンカーの起工式があり、12月10日に船台上で建造が始まり、翌年5月31日に進水式を行う予定になっていた。広島造船所で建造される第175番船(進水時に「平和丸」と命名)である。

この油槽船の主機には広島造船所観音工場で製造された9UEC85/160が搭載されることになっていた。
9UEC85/160という、三菱造船の開発したクロスヘッド式舶用低速ディーゼルエンジンで、直径85センチメートル、ストローク160センチメートルのシリンダ9気筒という型番である。

船体長さ226メートル、船幅34メートル、深さ16.5メートルの同船の固有振動数を推定したところ、主機の常用回転数と共振するおそれがあった。
共振すればブリッジのチャートテーブルで航海日誌を書けなくなることも考えられる。
海上試運転で振動が発生したら、推進器の翼数を変更して取り替えねばならないことも予想された。

当時、長崎造船所に導入されたばかりの電子計算機IBM7040で船体の重量分布や数十箇所に分割した船体の剛性分布を入力して固有振動数を計算する必要があると設計部では判断した。
その計算のために1〜2週間、図面を携えて長崎研究所制御研究室に出張を命じられた。
当時のコンピュータは数値計算を行うために、剛性分布や重量分布を数値入力することが必要で、出力もラインプリンターで出力される厚さ10センチ単位のアウトプットから手でプロットしなくてはならなかった。

この時は、広島造船所の基本設計課に、広島研究所に出来たばかりの構造強度研究課、長崎造船所の船体設計課、長崎研究所の計装研究課が支援にあたった。

私は昼間、入力データをIBMカードにパンチするためにデータシートに記入し、駅前の旅館に帰っては図面から寸法を読み取っていた。

この辺りが、その後コンピュータに関わるようになったきっかけのような気がする。

広島研究所から出張に来た森主任が、一度街に連れて行き、ビフテキで有名であった「銀嶺」というレストランに連れて行ってくれたことを憶えている。
後に、広島研究所に配置換えになって森主任に指導して貰うことになる。

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この写真は、当時の長崎研究所の一角で、中央に見える5階建ての建築物の中に計装研究課があった。
その左の2階建ても長崎研究所が会議室などに使っていた。
5階建てのうしろにある2階建ては平戸小屋寮という独身寮であった。
なお、手前に見える工場は三菱電機の建屋である。

三菱電機は、もともと三菱造船の電気部門であったので、長崎も神戸も造船所に隣接している。

2012年02月09日

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淡水から広島までの一千浬(37)

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1964(昭和39)年2月に、広島研究所に第二計装研究課(金田彰夫課長)が新設され、計装係(課長兼務)と電子計算係(成富義係長)が設置された。

同年6月には長崎研究所から電子計算機IBM1620が移設された。
日本IBMから数年間レンタルされていたものであるが、長崎地区のセンターマシンとしてIBM7040の導入に伴い、残期間を広島で使おうとしたのである。

メモリ素子はコアメモリで、可変ワード長の2万桁から6万桁まで拡張可能であった。
10桁を1ワードと換算すれば20KWということになる。

ALUはなくテーブルを参照して演算を行い、加減算には100桁分、乗算には200桁分のメモリを使用したテーブルを用いていたという。
除算はオプションで、浮動小数点演算オプションとは同時に装備できなかった。

論理回路は真空管ではなくレジスタートランジスタロジックであった。

プログラミング言語はアセンブリ言語の他、FORTRANが使用できた。
FORTRANⅡもあったが、4万桁以上のメモリを必要とした。
IBMではGOTRANという単純なインタープリタ方式もあったらしいが、
GOTRANⅡと言うのは後に三菱重工の役員となる長崎研究所計装研究課の野口技師が開発したと聞いて、凄い人が居るものだと思った。
H175番船の固有振動数を計算するために長崎に出張していたときにお目に掛かったことがある。

補助記憶装置もなく、テレタイプ用紙テープに穿孔されたソースプログラムは、言語処理プログラムにより、一度紙テープに穿孔され、別のプログラムを読み込み、そのデータとして読み込ませると実行可能プログラムが生成された。
同じように穿孔したデータテープを読み込ませてやっと演算が始まった。
数元の連立方程式の解を得るまで数分を要するので、一寸した実用プログラムは順調に行っても数時間を要した。

従って電子計算機係の研究者は、そのあいだ碁を打っていたらしい。
広島造船所で囲碁大会があったときに優勝したりしていた。

当時、長崎から転勤してきたプログラマには、後に鈴峯女子短大の教授になった橋本邦夫氏、入社年次1年先輩の桜木英彦氏と宮崎公明氏が居た。
桜木氏には広島造船所、広島研究所在勤中、プログラミングの指導を受け、その後も浚渫船の自動化プロジェクトで一緒に仕事をするなどとてもお世話になった。
宮崎氏は、その後何度か転勤されたが名古屋の電子制御技術研修所に勤めていたとき、公私ともに大変お世話になった広島大学の先輩でもあった。
その年に、川島氏、堀木氏が新入社員として配属になった。
女子プログラマの先駆者であった小西さんは長崎研究所から転勤してきたのであったろうか。

そのころ、同社ではオープンプログラマ制が採られ、研究者だけでなく設計部門でも工作部門でも経理など事務部門でもコーディングをしたり、入力データを作って依頼していた。
しかしながらIBM1620は事業所のセンターマシンとしては非力であった。
ちょっとした計算は本社に設置されたIBM7044に依頼していた。
プログラムや入力データは所定のフォームに書き込んで、東京に送るのである。
それがカードにパンチされ、バッチ処理としてコンパイラーに掛けられ、アウトプットが手許に帰って来るのに1週間かかった。

千行あまりのプログラムを書いても、コンパイルエラーがなくなるまでに1ヶ月では済まなかった。
カンマとピリオドが違っただけで何十行もエラーメッセージがプリントアウトされて帰ってきた。
テスト用のデータを送ってデバッグをしているとテスト回数が40回近くなった。
従って、今日のようにいい加減なコーディングをしてコンパイルさせるわけに行かなかった。
眼光紙背に達するほどチェックしていた。

広島に移設されたIBM1620は、すぐ処理能力の限界に達した。

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IBM1130が導入されたが、すぐにパンクしてしまった。
事業所のセンターマシンとしてCDC6400が導入された。

その頃までコンピュータと言えばメインフレームのことで、空調の完備した大きなスペースに設置され、白衣を着た技術者に扱われていた。
IBMのコンピュータは販売されることはなく、設置された役所や企業にその演算機能を提供し、長期のリース契約となっていた。
我々は、売ってしまうと解体されて機密が漏れるからかと思っていたが、そうではなかった。
24時間、完全看護で面倒をみなくてはならず、商品として売れるようなものではなかったのである。

IBM1620やIBM1130の頃は、計算器室に入り込んでデバッグやプロダクション計算を行っていたが、さすがにCDCのメインフレームが設置されると計算器室に頻繁に出入りすることがなくなった。

造船設計部基本設計課の船殻計画係に所属していたが、この基本設計課という職制は造船設計の機能を掌握しているところであった。

船主や船級協会への承認申請に必要な膨大な仕様書や基本設計図の権限を握っていた。
そのため、見積係、船体基本係、船殻計画係、船艤計画係、機関基本係など約40名の職員と製図工など工員さんもいた。
勿論、図面の出図は管理課の仕事であり、船主や官庁、船級協会などは営業部の仕事である。

船殻計画係は渡辺係長、橋国技師、鈴木技師、松前技師、沖本技師、岡上技手のほか伊藤さんが居た。
何れも一騎当千の猛者であった。
橋国技師が、いわゆる担当技師で、係員が数十日かけて仕上げた図面を構造強度面や法規あるいは船級協会規則に抵触していないか、艤装や機関部との調整も含めてチェックするのである。
英文のロイドやアメリカ船級協会ルールブックの年次改正も彼の頭には入っていた。

そんな中で一部の図面を書いていたが、朝出社すると「今日は3Hで良いでしょうか?」と、その日製図に用いる鉛筆の芯から伺いを立てねばならぬような状況であった。

造船技師は、機械屋や電気屋のようにメーカーの持ってくるものを検品するだけではなくすべて手と頭で処理しなければならず、一人前になるには2、3年掛かると言われていたが、船体設計では5年くらいでは一人前扱いされなかった。

そんな中から、製図を担当しながらコンピュータで処理できる計算をプログラミングするのが私の仕事であった。

基本設計段階でよく使われたプログラムに、船体縦強度プログラムや、初期設計段階で船殻重量を推定するプログラムであった。

この当時、入力データはすべて手入力であり、ラインプリンタの出力を手作業でグラフや図面にしていた。数秒の計算で済むのにそのデータ処理で何日も深夜残業していた。

プロッタやグラフィックディスプレイはデータショウなどに展示モデルはあったが実務で使えるようになるのは後年のことであった。

2012年02月10日

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淡水から広島までの一千浬(38)

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当時、日本のコンピュータ事情を思い出してみる。

1964(昭和39)年にIBM7090が3基輸入されたが、1基は日本IBMのデータセンターに、1基は三菱原子力工業(後に三菱総研となる)に、1基は東芝に設置されたという。
ちょうどその年は三菱造船が新三菱重工、三菱日本重工と合併して三菱重工業になった年である。
三菱グループ企業としてこのIBM7090を利用することが出来た。
これより先、新三菱重工にはIBM650が導入されていてらしい。
三菱造船の長崎研究所にIBM1620が導入されたのは、その利用技術の研究のためであったのであろう。

三菱重工業に合併したころに本社にIBM7044が導入され、長崎のコンピューターはIBM7040にリプレースされた。
このときに社としてオープンプログラマ制が採用された。
研究部門、設計部門、製造部門、企画や経理など事務部門も誰でもプログラミング出来るように社内で講習会を行ったりしていた。

数百ステップくらいなら、2パスか3パスにしてもIBM1620で何とかなったが、ちょっと複雑になるとお手上げであった。

コーディングシートやデータシートを毎日の夜行列車に載せて東京でコンパイルや実行テストを行うのである(当時、当局はこの制度を郵便法違反であると文句をつけていた)。しかし、テスト計算の段階になると、処理結果が一週間後に戻ってくる方式では間に合わなかった。
東京に出張してテストを行うのである。
当時、代々木会館のような出張要員の宿泊施設が完備しておらず、本郷あたりの大きな屋敷を借り上げて利用していた。
長崎からの出張員と相部屋になったりしていた。
長崎研究所や広島研究所の女子プログラマもここに滞在していた。
風呂に入ろうとすると「いま、女子が入浴しています。」と待たされることもあった。
勿論、深夜も終末も時間を決めてコンピュータを利用していた。

当時はコンピューターメーカーと言えばIBMで(UNIVACなどあったが)独占状態であった。
そんなときに、聞いたこともない会社が1万ドル代でコンピュータを販売するという話が出た。
IBMはコンピュータを売らない(売れない)のである。
自社のハードウェア/ソフトウェア・エンジニアが調整しないと順調に作動せず、客先に納品できるようなものではなかったのである。

しかし、いま思うと画期的な商品開発が行われていた。

それがDEC(Digital Equipment Corporation)であった。
12ビットのPDP8は爆発的に売れ、ミニコンピュータ時代を開いた。

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国内のメーカも、樫尾、日立、日電、東芝、松下、沖、三菱などがミニコンピュータの開発・販売に乗り出した。

当初はパネル前面にトグルスイッチを並べただけの筐体で何が出来るかと冷ややかに見られていたが、そのうち紙テープ、DEC独時に開発した双方向読み書き可能な3/4インチ幅の磁気テープ装置など補助メモリおよび入出力端末を接続すると実用的コンピュータとして成長していった。

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DECでは、18ビット型のPDP7やPDP15、24ビット型、36ビット型など様々なミニコンピュータが開発されたが、16ビット型のPDP11型が主流となった。

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IBMのコンピュータは空調完備の大きなスペースに置かれたマジックボックスでユーザー側が触れることも出来なかったが、DECのコンピュータは内部アーキテクチャも各装置間のインターフェース公開され本格的コンピュータシステムになった。

国内の電機メーカーからは、富士通のFACOM230シリーズ、日立のHITAC10/20シリーズ、日本電気のNEAC3200シリーズ、東芝のTOSBACシリーズ、三菱電機のMELCOMシリーズ、沖電気のOKITACシリーズ、松下通信工業のMACC7シリーズなどが発売された。

広島研究所にも埋立地の掘建小屋にMELCOM70が導入された。
入出力はカードベースで、毎週月曜日のシステム立ち上げには半日を要したものである。このシステムにはアナログ、ディジタルのプロセス入出力装置が用意されていたのでオンラインデータ収録やプロセス制御も可能なシステムであった。

MELCOM70に関しては三菱電機の鎌倉製作所に出張したこともある。

当時、社内でコンピュータの利用技術に関して理解している人は限られていた。
またインターネットが一般に使える状態ではなく、今日のようにウェブから情報を得ることも出来なかった。
このメルコムが設置されたことにより、自分で種々のテストが出来ることは非常に有難いことであった。

2012年02月11日

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淡水から広島までの一千浬(39)

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私は造船設計部基本設計課で7年半勤務したのち、広島研究所の構造研究室に移籍となった。
そこでも、疲労強度など船体構造強度に関わる研究に従事する傍ら、静的、動的な構造応答のデータ解析や自動化システムの開発に従事してきた。
これは真空管時代のコンピュータからトタンジスター世代、DECや三菱電機のミニコンピュータ、これに引き続くマイクロコンピュータの利用技術と無縁ではない。
従って、コンピュータとの接点のできた頃の話の関連として、もう少しコンピュータとのかかわりを記載しておこうと思う。

1971年になるとマイクロプロセッサ、あるいはマイクロコンピュータと呼ばれるものが実現した。

これは日本のベンチャー企業が発案したものを元にアメリカのインテル社が契約期限切れを待って発表したものである。

当時、国内で電卓の開発競争が激しく、数十社がこの業界に参入していた。
小型化、低価格化、計算精度(桁数)向上、機能(関数等)拡張に凌ぎを削っており、毎月のように新製品が発表されていた(いまは淘汰され、カシオとシャープくらいしかないが・・)。
日本ビジコン社は、この開発競争を乗り切るためにアイデアを考案した。
10進一桁を扱うための演算素子や記憶素子を開発し、新しく開発する電卓の仕様が決まったらこれを組み合わせて開発期間を短縮しようとするものであった。

これが最初のマイクロプロセッサ、i4004である。

このとき、インテル社で作られた16ピンのDILのチップには、ほかにROM、RAM、シフトレジスタがあった。

「i4004」の名称は、10進一桁を処理すれば良いので4ビット単位のデータが扱えれば良かったので4千番台がつけられた。
ROMが「i4001」、RAMが「i4002」、SRが「i4003」、そして最後に残ったのが演算部分の「i4004」であった。

後にマイクロプロセッサと名付けられた。

ところが、売り出してもぱっとしなかった。
それで8ビット版の「i8008」を作ったが市場の反応は鈍かった。

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それでハード的にも改良し、インストラクションを体系化して売り出した「i8080」が爆発的に売れた(「i8080A」は改良版を示す型番である)。

1976年、エド・ロバーツが「i8080A」を用いてマイクロコンピュータ・キット「ALTAIR8800」(MITS社)を400ドルを切った価格で発売すると最初の2〜3週間で4000台を越える注文が殺到したという。
キーボードもなく、トグルスイッチで二進表示で、インストラクションやデータを入力し、結果は八素子LEDで表示するものであった。

プログラムやデータは電源を落とすと消えるので、その都度入力する必要があった。
フィリップス社の開発したカセットテープレコーダに300ビット/秒で記録できるようになったときユーザー(オウナー)は喜んだ。
すぐに600bps、1200bps、2400bpsと高速化していった。

これに、ビル・ゲーツたちの書いたBASICがROMで提供され、キーボードとCRTディスプレイを付けて、パーソナルコンピュータになった。

BASICはもともと、タイムシェアリング用言語として開発された言語であったが、配列計算機能などを省いて、パーソナルコンピュータ用には最低限度のモニター機能が付いていた。

入社した1963(昭和38)年当時、広島地区にはコンピュータのことを聞こうにも知っている人はおらず、専門の書籍もなかったので独学で何とか設計業務の中から電算化出来るテーマを見つけ、プログラミングしていたが、DECのミニコンピュータが出現し、1970年代になるとマイクロコンピュータが登場し、コンピュータのシステムやアーキテクチャを改めて理解することが出来た。

もう、その頃はセンターマシンと言われる大型計算機はハードもソフトも複雑極まるものになっていたのである。
ミニコンピュータやマイクロコンピュータは非常に単純で、各機能を再度学習するには良いタイミングであった。
三菱造船は入社した翌年、新三菱重工、三菱日本重工と合併し、三菱重工業となっていた。

基本設計課に配属されて、基本構造図の製図を分担しながら、造船協会(のちの「日本造船学会」)の構造委員会・西部地区部会に出席して研究作業を行ったり、設計部門の各種計算業務などをプログラムにしていた。

船殻設計課長会の電算小委員会や船殻重量推定委員会にも出張していたが、長崎、神戸、横浜はそれぞれの専門家が出席していたが、設計陣容の薄い広島と下関は、どの委員会にも同じ担当が出ていた。

いま考えると、造船技師(Naval Architect)兼プログラマをやっていたことになる。
センサーシステムやインターフェースまでを含めたシステムエンジニアとは言えないまでもソフトウェア分野では社内造船部門で何とか議論に参加出来る程度になっていた。

後に、DECの代表的なミニコンピュータPDP11をウェスタン・ディジタル製LSIチップ4個を中心に再現したLSI11で、浚渫運転支援システムMIDASの開発を担当したときに、必要なルーチンをアセンブラ言語で組むことが出来たのもこの頃の経験のお陰だったと思っている。

2012年02月12日

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淡水から広島までの一千浬(40)

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1965(昭和40)年の1月に、家族で本家に行った。
本籍地に住んでいる浚治伯父は1月1日生まれであり、誕生祝いを兼ねて家族全員で浜崎に帰った。

そして、伊万里、松浦を鉄道で諫早まで行き、そこからバスで雲仙にある会社の保健会館(保養施設)「雲仙荘」に行った。
1月2日であったと思う。

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その翌年、妹の恭子と私が相次いで結婚したので、結果的に終戦前後から一緒に生活してきた家族としての最後の旅行となった。

今年(2012年)になって冷え込んでいるが、地球温暖化の影響か近年だんだんと暖かくなっているようである。
当時はとても寒かった。
雲仙の仁田峠に登り、そこからロープウェイで頂上の妙見神社にお参りしたが、霜で真っ白であった。

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宿泊した雲仙荘は雲仙山上の温泉街の入り口にあった。
そこから、地表に硫黄の匂いのする蒸気の噴き出す「地獄」と呼ばれるエリアのまわりには「富貴屋」、「九州ホテル」、「有明ホテル」など有名なホテルが並んでおり、一番奥まったところに「東洋館」があり、その前がバスターミナルであった。

硫黄蒸気の噴き出す傍には、その熱湯で茹でた鶏卵を売っていたり、写真屋が三脚をもって待ち構えたりしていたが、本当に寒かった。

そのころ、越路吹雪のシャンソンが流行っており、「サン・トワ・マミー」などが聞こえていた。

とても楽しい旅であった。
何度も、そのこぢんまりとした温泉街を歩いたが、温泉街によくあるストリップ小屋などはなく良い雰囲気であった。

1月の2日と3日を予約していたと思うが、あまり楽しいので管理人にもう一泊、泊めて貰えないかと相談したところ、明日から休館となり、朝食の用意も出来ないが、それでも良いならと泊めてくれた。

その夜、宴会場では従業員の慰労会が行われていた。楽しそうであった。

その翌年の11月6日に恭子が河本馨氏と結婚式を挙げ、12月11日に同じ会場で私たちも結婚した。

それまで、就職した1963(昭和38)年から、独りで基町の市営住宅に住んでいたが、大竹から列車通勤していた星野君を一緒に棲まわせていた。

基町は木造の不法建築が立ち並ぶ原爆スラムと呼ばれる地域が広がっており、火事になると消防車も近寄れないので大火が屡々発生していた。

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その前にも数十メートル先の木造家屋が燃えたことがあるが、そのときは類焼せずに済んだ。

しかし、星野君を棲まわせていたときに、近火が発生し2〜30軒燃えて、うちにも火が点いた。
台所から見ると窓ガラスが熱でパリパリと割れていた。
夜の火事で、書籍などを窓から外に出していたら朝方雪が降ってきた。

派出所に行って警察の電話で、皆実町に住む家族に連絡することが出来た。

この時は、当時預かっていた星野君に何かあってはいけないと心配した。

2012年02月13日

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淡水から広島までの一千浬(41)

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私が造船設計部基本設計課(略称:船基設)に配属になった頃、第1船台では大同海運向けの3万4千総トンの鉱石運搬船「ろんぐびいち丸」(H168番船)が建造中で、第3船台では国土総合開発向けの8千馬力大型ポンプ浚渫船「第二国栄丸」が中断されていた工事を再開したところであった。

沖合のブイには完成した邦明丸(H158番船)が繋留されており、艤装岸壁ではソ連輸入公社向けの油槽船「リホスラブリ」(H161番船)が艤装中であった。

第2船台上には貨物船(H167番船)が起工されたものの、船主の資金繰りか何かの事情で建造中止状態であった。

このように私の入社直前には造船工事が無く、現場の工員さんたち(本工)の仕事がないので出勤しても工場の草抜きとか設備のペンキ塗りなどをしていた。

これは戦前から造船所の宿命のようなものであり、そのため造船所が直接雇用している工員(本工)の人数を局限し、造船工事を受注したときに臨時工を雇うか、下請けに工事を発注していた。
そのため、構内には一次下請、2次下請などの事務所が並んでいた。
造船所は十年に一度のブームで、それまでの累積赤字を取り返すという噂があったほどである。

実は、第1船台のH168番船は、本来取得すべき運輸省の認可を受けずにほそぼそと工事を行っていた。本工の仕事を確保するために海上から、新造船と識別されない限界で船底部分の工事を行っていたのである。

そのような状態であったが1963(昭和38)年頃からの造船ブームで、H161〜H166(ソ連向けオイルタンカー)、H169、H170(ソ連向け球形LPGタンカー)、H171〜H173(インド向け鉱油兼用船)、H174(日本郵船向けパルプ専用船)、H175(太平洋海運向け油槽船)、H176(中村汽船向け貨物船)、H177、H178(リベリア向けバルクキャリア)、H179(新和海運向け鉱石運搬船)、H180(日本郵船向け鉱石専用船)、H181(輸出タンカー)、H182(日本郵船向け鉱石専用船)、H183、H184(リベリア向けバルクキャリア)、H185(日本郵船向け鉱油兼用船)、H186、H187(リベリア向けバルクキャリア)、H188(ギリシャ向けバルクキャリア)などを連続受注し、設計部は多忙の時期を迎えた。

忙しいだけでなく、技術的にも実に面白い時期であった。
往時の外航船の代表と言えば、貨物船であった。
貨物船にも欧州航路、北米航路のような航路を定期運航するカーゴライナーと、トランパーと呼ばれる不定期船がある。
前者は絹などの貨物と、海外の任地に赴任する人など乗客も乗せて社旗とファンネルマークも誇らしげに走っていた花形であった。
後者は、荷物のあるところを渡り歩く、いわばドサまわりである。

それが、この頃から専用船化されつつあり、穀物などをばら積みするバルクキャリア、石炭を専用に運ぶ石炭運搬船、比重の大きい鉄鉱石を積む鉱石専用船、仕向け地によって原油を運んだり鉄鉱石を運んだり出来る鉱石兼油槽船など、新船種が続々と現れた時代になった。

船舶は飛行機と違って1隻々々が、いわば試作船であった。
同型船と言えども、共通化出来るのは基本設計のみで、船級協会や船主に承認申請図は各船ごとに行われるし、鋼板を発注したりマーキング、切断、溶接などの工程は新設計のときと変わらない。

船舶を受注する度に機構や構造強度を検討し、図面上で具体化して行った。

実に面白い時期に船体基本設計部門で仕事が出来たことはいまでも感謝している。

ベテランは製図、諸計算に専念し、私たちは研究所や学会の構造分科会などで実験を行ったりシミュレーションを実施したりすることもあった。
試験研究のテーマは、次から次へと出現した。

船種も船体構造方式も革新期にあったので、船級協会の「鋼船構造規定」改定のための委員会に出席し、改定案を提示したこともあった。

写真は、上から「H158番船:邦明丸」、「H160番船:第二国栄丸」、「H161番船:リホスラブリ」、「H167番船:ドン・アントニオ」、「H168番船:ろんぐびいち丸」である。

2012年02月14日

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淡水から広島までの一千浬(42)

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1956(昭和31)年にイギリスを抜いて世界最大の造船産業となり、船台や新造用船渠を新設するなどにより船型の拡大、新船種へのニーズも促されて右肩上がりに推移してきた日本の造船業界を震撼とさせる出来事が発生した。

「ぼりばあ丸」と「かりふぉるにあ丸」の沈没である。

「ぼりばあ丸」は1965(昭和40)年9月に、石川島播磨重工の東京第2工場で竣工し、ジャパンラインに引き渡された、載荷重量5万4千トンのバルクキャリア(撒積貨物船)で、主要寸法は全長223メートル(垂線間長:213メートル)、型幅31.7メートル、型深17.3メートル、喫水11.5メートルであった。
ペルーから5万トン余の鉄鉱石を満載して川崎港に向かっていたが、1969(昭和44)年1月5日に東京湾の入り口に近い野島崎沖で波浪のために船首部を折損して航行不能になり、遭難信号を発信したが、その嵐の中で沈没した。
付近を航行中の健島丸が漂流していた乗組員2名を救助したが、船長を含む31名が行方不明となった。

「ぼりばあ丸」の海難について調査が行われていた翌1970(昭和45)年2月10日、同じ野島崎沖の海域で「かりふぉるにあ丸」が沈没した。

「かりふぉるにあ丸」は「ぼりばあ丸」とほぼ同時期に三菱重工業横浜造船所で竣工した、第一中央汽船向けの載荷重量5万6千トンのオアキャリア(鉱石運搬船)で、主要寸法は全長218.25メートル(垂線間長:210メートル)、型幅32.2メートル、型深17.8メートル、喫水12メートルであった。
ロサンゼルスから東京湾に向かっていて、野島崎沖で荒天のため航行不能になり救難信号を発信し、沈没した。
乗員29名中25名は救出されたが、船長は沈み行く本船に残り殉職した。

建造後4、5年というのは最新鋭の船舶と言って良い。
現在就航中のクルーズ船「飛鳥Ⅱ」は船齢20年を越しているし、ショウ・サビル・ラインの客船「サザンクロス」は転籍、改名を重ねながらほぼ半世紀にわたって運航されていた。

「かりふぉるにあ丸」の沈没した年に、財団法人日本船舶技術研究会に第124部会(SR124)「大型鉱石運搬船の船首部波浪荷重および鉱石圧に関する実船試験」が設けられた。
1970(昭和45)年9月から1975(昭和50)年3月まで実船計測や模型による構造強度実験、衝撃波浪応答などの研究行われた。
1970(昭和45)年9月〜1975(昭和50)年3月までの長期研究で、研究費はおよそ3億5千万円規模であったように記憶している。
この研究資金のスポンサーは船舶振興財団(現:日本財団)であった。

この実船試験の供試船となったのが、広島造船所で建造中のH213番船であった。
総トン数6万6千トン、載荷重量11万トンの鉱石運搬船で、船主は大阪商船三井船舶であった。進水時に「笠木山丸」と命名された。

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1970(昭和45)年4月27日に第3船台で起工され、8月31日に進水、11月30日に竣工したが、船台上で建造中から船首部や船底の外板に孔を開け、水圧計を取り付けるなど大変な準備工事が行われていた。

「笠木山丸」には計測室を設けて新規開発の観測機器やデータ収録装置を搭載し、露天船橋には波浪を撮影するステレオカメラなども設置された。

当時、産業の米と言われた形鋼や鋼板の需要は大きかったが、鉄鉱石の生産地はアフリカや南米など政情の不安定なところや、インフレなど経済的変動の大きいところが多く、三菱商事などが安定した濠州に大規模な露天掘りの鉄鉱脈を開発していた。

第一次航は往復2ヶ月の南米チリに行き、その後は片道10日で行けるオーストラリア北岸に数度乗船観測を行った。

私は設計部から研究所に移籍したばかりであったが、設計部の杉岡技師と往復2ヶ月のアフリカ西岸まで実船計測第8次航に乗船することになった。
ちなみに杉岡技師は船舶工学科の2年後輩で、新米コンビみたなものであった。

見出しの写真は、構造実験場で行われた「かりふぉるにあ丸」の部分縮尺模型に荷重をかけて歪みや座屈の状況から実船の最終強度を確認するために行われたときのものである。

2012年02月15日

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淡水から広島までの一千浬(43)

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先に書いたように1966(昭和41)年の11月6日、妹の恭子は河本馨氏と結婚式を挙げた。
その当時、いまのようにホテルや葬祭業者の結婚式場が乱立する以前で、舟入の本川沿いに建ったばかりの結婚センターでの挙式であった。

その1ヶ月後に私は、同じ式場で結婚した。
両親はいろいろと大変であっただろうと今にして思う。

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仲立ちをしてくれたのは大阪商船三井船舶の通信長夫人であった。
翠町にあった笹川繁清氏宅で見合いをした。
結婚相手は満州から引き揚げた耳鼻科医の三女であった。

結婚式では造船設計部の三沢次長夫妻に媒酌をお願いした。
披露宴には高校や大学の級友なども参列してくれた。

式場での披露宴が終わって、会社の施設で職場のパーティでも挨拶し、宇品港から九州へ新婚旅行に出掛けた。

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当時の別府航路は船底の広間に雑魚寝であった。

別府には早朝に接岸したので陸の交通機関が動き出すまで船室に留まってもよいと言う。
別府から久住(九重)高原、阿蘇、雲仙を経由して長崎まで行ったが、その日は九州で珍しい大雪であった。
九州では、バスもタクシーも雪に慣れていないので行く先々で交通が麻痺していた。

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これはそのとき、グラバー邸から撮った長崎造船所である。

戦前、戦艦「武蔵」を建造した第2船台と第1船台はガントリークレーンが撤去され、そのあとに広島造船所で作った門型クレーンが設けられていた。

ガントリークレーンはフレームや外板を搭載するのに便利であったが、地上でブロックに組み立てて船台に搭載する方式では制約になった。
建造船舶の大型化時代には船体幅も制限されるので後年すべて撤去された。
当時、まだ本館は建っていない。

家族が皆実町に移転してからも、1人で市営住宅に住んでいたので、新居は新築の市営アパートに入ることが来た。
基町16番17号422である。
間取りは6畳2間に、3畳の小部屋とダイニングキッチンであった。
洗濯機を置く流し場があったのでそこにユニットバスを入れた。よく入ったものだと思う。
ベランダの水槽に金魚を飼って布袋草を浮かべたりしていた。
南向きの展望の良い部屋で、夏には市民球場の照明設備が明るかった。
広島カープが得点をすると歓声がよく聞こえていた。

グランドフロアには果物屋などの店舗になっており、市場もあったので雨でも濡れずに買い物が出来た。

1967(昭和42)年に本家の義祖母、オツさんが亡くなった。
オツさんは、松浦氏から嫁いできた里勢(リセ)さんが1931(昭和6)年に50歳で亡くなったあと、祖父慶太郎の後妻として、私の両親の結婚式にも出てくれた。
時々父と帰郷すると、寝所にしていた離れの二階に上がってきて遅くまで話し込んでいた。
父は「うん、うん、大丈夫。」とときおり笑顔で聞いていた。

1968(昭和43)年の4月から7月末まで、母は天理教の修養科に入った。
1963(昭和38)年に、天理教白光分教会の役員に任命されていたこともあったのであろうが、一時期 信仰一筋の世界に身を投じて精神的な拠り所を求めようとしたのであろう。
本社に出張の帰途、母に逢いに行ったこともある。

その年、造船設計部は改編され船殻設計課基本係となった。


2012年02月16日

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淡水から広島までの一千浬(44)

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1969(昭和44)年の1月に、父と母と広島で生まれた妹が、バスで南九州の三社参りに行った。
その年、妹は短期大学を卒業し、大洲の会社に入社した。
上の妹、恭子のところでは5月27日に明子が生まれた。
昔、海軍記念日と言っていた日であった。

この年の11月1日、第3回淡水会の総会が広島地区で開催された。
会場は、厳島の対岸に出来た安芸グランドホテルであった。

1970(昭和45)年1月25日に純子が岩国の病院で誕生した。
その頃、日本の造船業は定常的な繁忙期を迎えており、造船設計業務を電算化するプロジェクトが始まっていた。
私は横浜造船所の船坂恭平、神戸造船所の平山俊次、長崎造船所の梅田 博の各氏と一緒になって各造船所の設計業務分析を行っていた。
その数年前まで三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船の基幹造船所として、ときには同じ商談を競い合ってきた横浜造船所、神戸造船所、長崎造船所は数十年から百年の伝統があり、基本設計、船体設計の各段階に実績と標準を持っていた。
これを引き合い段階から鋼材の発注、マーキング、ガス切断、曲げ加工、溶接、ブロック組立、船台上での搭載まで一貫統合した船体構造設計システムと各船毎のデータベースを構築しようと言うものであり、壮大なプロジェクトであった。
1月には横浜造船所で3週間ほどの業務分析を行い、計画仕様書のようなものをまとめていた。
一度帰って岩国の病院を訪ねたこともあったが、予定は少し遅れていた。
横浜の宿舎は、高島町の病院を改造した艤装員宿舎であった。
クリーニングなどを頼むと寮の従業員に「これはお客様のためのサービスですから」と、我々を厄介者扱いしているような言われ方であった。
電話で「産まれた」と連絡を受けた。

出産のため入院していたのは岩国市山手町1丁目12番1号の富山産婦人科であった。
1月25日午後4時17分に産まれた。
身長:52cm、頭囲:34cm、体重:3520g、胸囲:33.5cmであった。

長崎造船所から来ていた梅田氏を誘って、桜木町の展望レストランみたいなところで祝杯を挙げた。

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この写真は、横浜で設計業務分析を行っていた頃撮ったもので、隣は梅田 博氏である。

そして、その年の10月1日付けで、それまで広島研究所構造強度研究課から構造研究室に移行したところへ移籍となった。

職場は江波工場の中にあった。
1961(昭和36)年に建設された構造実験棟は東西に何度か増築された。
舗装道路を隔てて、北側に海洋構造物用実験水槽が建設されていた。
当初は暴露水槽であったが、計測部分に上屋が設置された。
後には水槽全体を覆う建屋が建てられた。

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造船設計部などの配置されていた江波本館の南側にあたる。

西側の外階段を上がったところに研究要員、実験要員が30名程度居た。

そして今年(2012(平成24)年2月18日に「三菱広島研究所 江波50周年記念祝賀会」が開催されると往復葉書で案内があった。
寄せて貰おうと楽しみにしている。

2012年02月17日

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淡水から広島までの一千浬(45)

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広島研究所に移籍したのは、船舶工学科を卒業して造船会社の設計部に入社して7年半が経過した時点であった。

三菱重工業として合併する前年に入社したのであるが、三菱造船に新入社員として入社した192名のうち長崎研究所、広島研究所に配属予定の者はすべて大学院卒業の修士か博士であった。
構造強度研究室にも同期入社が2人居たが、2人とも九州大学の工学研究科卒の修士(航空工学と土木工学)であった。

そのまま移籍するという話であれば考えたことであろうが「2年間、勉強してこい。2年経ったら連れ戻してやる。」という上司の言葉で移籍したのである。

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20世紀中期に、その原因究明により後の構造物設計の安全性に寄与した事故を3つ挙げるとすれば、米国ワシントン州の吊り橋「タコマ・ナローズ橋」、米国の戦時標準船「リバティ船」、それに英国で開発され最初に定期就航したジェット旅客機「デ・ハビランド・コメット」である。

「タコマ・ナローズ橋」は突風・波浪など構造物に掛かる自然外力の応答解明に寄与し、その後ニューヨークの「ベラザノ・ナローズ橋」(1964年部分開通)、瀬戸大橋(1988年開通)などにその成果が活かされている。

戦時標準船「リバティ船」は、従来鋲接であった船体構造継ぎ手に電気溶接を採用し、画期的な建造日数短縮に成功したが、電気溶接の熱影響部の低温脆性が劣化し、接岸中や航行中に船体が破断する事故が起こった。2〜2件であれば見過ごされたかもしれないが比較的新しい船の事故が多発したために、学会のみならず造船所や船体用鋼板を製造する製鉄所などが原因を探究し、仮に船体外板に亀裂が生じても、その進展を阻止するE級鋼が開発され、間もなく船体構造の鋲接は廃止された。

ジェット旅客機「コメット」は美しい姿態で華々しく登場したが、航行中に空中分解する事故が続き、徹底した原因調査に基づいて、実機に水圧で繰り返し荷重を掛ける大がかりな実験を行い、継ぎ手部の疲労強度が原因であることが究明された。

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私が移転した頃、構造物の不連続部に荷重を掛けたり、振動を与えたり、50トンもの不規則荷重を与える疲労試験機などが導入され、静的応答実験に較べて膨大なデータ解析が必要になってきた。

船体構造の疲労寿命推定のために不規則荷重を何万回も掛ける実験を行う傍ら、有限要素法などのプログラムで応力集中係数を求めたりしたが、そのインプットデータの作成、チェック、それにアウトプットデータの図面上へのプロットなどを当時は手作業で行っていた。


2012年02月18日

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淡水から広島までの一千浬(46)

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数日前の本欄で述べたように、質量ともに世界の先端を走っていた日本の造船、海運業に衝撃を与えた「ぼりばあ丸」と「かりふぉるにあ丸」の東京湾の入り口に近い野島崎沖における海難の原因を究明するために、財団法人日本船舶技術研究会に「大型鉱石運搬船の船首部波浪荷重および鉱石圧に関する実船試験」(第124部会:略称SR124)が設立された。

1970(昭和45)年9月から1975(昭和50)年3月まで、実船計測や模型による構造強度実験、衝撃波浪応答などの研究を実施する総額3億5千万円という国家的プロジェクトであった。

広島造船所で建造中であった大阪商船三井船舶向け第25次計画造船の載荷重量11万7千トンの鉱石運搬船(総トン数:65849トン)が供試船となった。

船首船底部外板などに衝撃波を計測する圧力計が20点以上設置され、船体構造部材には静的、動的歪みゲージが多数取り付けられた。

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船橋で当直航海士から目視波高、波長を訊き記録するほか、航空測量用カメラをプロトタイプにして開発された3次元波浪撮影用カメラを露天船橋に設置し定時観測も行った。
長時間にわたる波浪を測定するために投下式波浪観測ロボットも開発され、毎航何基か投下した。これは電池内蔵式で長時間にわたりブイの上下加速度や振幅を受信記録するものであった。
毎日、圧力計と船体構造部材に貼り付けられた歪みゲージの出力を記録するために、ディジタル式データレコーダーも搭載された。

このような計測機器や写真現像用の暗室などのために大きな事務室がいっぱいになった。
その第8次航に計測員として乗船することが決まった。
広島造船所の杉岡技師と2人で往復2ヶ月のアフリカ大西洋岸のアンゴラまでの航路であった。

第1次計測は、往復2ヶ月の南米チリ往復であったが、第2次航から数航海は内地出航後10日目には到達できる濠州北岸のポートダンピア、ポートヘッドランドであった。
三菱商事などが政情不安定なアフリカや年率100%にもなるインフレのリスクを回避するために濠州に大規模露天鉱山を開発していた。

乗船は決まったものの、準備から大変であった。
ビザを申請するために訪れた官庁の窓口で、アンゴラとは何処か?どこの大使館が代行しているのかと聞かれても困るのである。
福山港から出港するのに、アフリカ航路であるという理由で黄熱病の予防注射を受け、イエローカードを発行して貰うために夜行列車で羽田空港まで往復する必要もあった。

2012年02月19日

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淡水から広島までの一千浬(47)

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笠木山丸は、日本鋼管(現:JFE)福山製鉄所に鉄鉱石を運搬するために建造された。
従って日本船舶技術研究会の実船計測は鋼管の原料岸壁が本拠地となった。
我々が乗船する前も、笠木山丸が乗船する度に広島研究所から計測機材や補給品を積み込んだキャラバンを仕立て、計測支援チームを派遣された。
定宿も契約されており、本船の入港前から出港を見届けるまで福山に滞在した。

私たちが乗船したのは1971(昭和46)年8月11日の朝であった。
備後灘を南下し、航行船舶の多い備讃瀬戸をゆっくり東航し、屋島と小豆島の間を通過したころ正午になった。
航行中の船舶は航跡を海図上に記入する。我々の計測日誌には正午位置(ヌーンポジション)を記入することになっていた。
笠木山丸は大きいので来島海峡は通れないので、播磨灘から明石海峡を抜け、大阪湾に出て紀淡海峡から紀伊水道に出た。

太平洋に出ると海の色が青インクのようであった。
この航海で太平洋とインド洋、それに大西洋の海水の色が違うのを体験した。
日本海軍の潜水艦は上空の哨戒機から身を隠すために上面は真っ黒に塗るが、ナチスのUボートの塗装はグレイである理由が判ったような気がした。

食事は毎食、キャプテンズテーブルであった。
船長と機関長、それに時々一等航海士が同席する。

船長が「どうですかね?」とか「計測は順調ですか?」とか「昨夜は少し揺れたけれどよく眠れましたか?」などと声を掛けてくれる。
飯は給仕長がよそおってくれ、茶碗の飯が少なくなると、後から銀色の盆がすっと出てくる。
最初のうちは恐縮していたが、2〜3日も経つと当たり前のような気になってしまった。
一等機関士、二等航海士以下は隣のテーブルで自分で給仕して食べていた。
それぞれに当直時間があるので非番の時に食事をし、睡眠を取るのである。
4時間の当直が終わると航海日誌記載事項などを引き継ぎ、8時間の非番になる。
午前0時から午前4時までの当直のあとは午後0時から午後4時である。

私たち計測員にも居室が与えられていた。
私は船橋に近いDデッキ右舷側の部屋で、相棒の杉岡計測員は計測器室に近いアッパーデッキ右舷フロントであった。

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8月12日の正午位置は種子島の東方で、13日は沖縄本島と宮古島の昼間であった。
こうして第8次航は始まった。

この辺りに来ると、気温は高いが日本内地の蒸し暑さはなくなる。
デッキはスニーカーで歩くと足の裏が熱く、油を敷いて卵を落とすとサニーサイドアップが出来上がりそうだ。

それから、トビウオが沢山歓迎してくれた。
トビウオにとっては歓迎どころではなく、鯨より大きい怪魚から逃げるために空中に飛び上がるのであろう。
船首先端の一等航海士プラットホームで、どのくらい跳ぶのか測ってみた。
40秒、50秒でも結構長い時間だと思うが、1分以上跳ぶのが居て見飽きなかった。
往航で船は軽く、乾舷が高いが一等航海士の話では満載状態では船がデッキに飛び上がってくることもあるという話であった。

14日の正午位置にはバシー海峡に掛かり、台湾の蘭嶼島の近くであった。
15日はルソン島西側の南シナ海に入り、16日にはベトナムの東方海上、17日の正午位置はプロコンドル諸島沖まで南下していた。もう北緯7度台である。

2012年02月20日

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淡水から広島までの一千浬(48)

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福山港を出港して1週間後の8月18日の夕刻にはシンガポールの沖合を航行していた。
海岸道路を走る自動車がヘッドライトを点灯するころであった。
左舷後方にビンタン島が過ぎ、バタム島が見えるころ右舷側はシンガポールのチャンギー空港から市街地に向かう街路が見えていた。

沢山の船が停泊しており、航行している船も多かった。
マラッカ海峡にかかる頃、夜になった。船橋から見ると右舷側にも左舷側にも航海灯や舷灯が移動していた。
レーダーの画面を見ると無数の点が散在し、この水域で巨大船を操船するのは容易なことではないと思った。

19日の正午位置はペナン島の沖合であった。
先の大戦では日独の潜水艦基地のあったところである。

20日にはスマトラ島の北西端をまわり、インド洋に出た。
これから何も無いインド洋を、南東に針路をとって10日間も走り続けるのである。

このインド洋航行が大変であった。

東シナ海、南シナ海のように点在する島はなく、インド亜大陸の南に僅かにモルディブ、ラッカディブ諸島があるのが例外のような大洋である。
従って、常時吹く貿易風により、最初は数メートルほどの風浪が成長を続け、波長数百メートル、波高数十メートルのうねりが生じている。

居室はDデッキだから上甲板から10メートル程度高い。
海面からは20メートルを優に超える。
その側面の窓から、平水を航行中は遙か遠くの水平線が見えていたが、インド洋に入って2〜3日すると小波を浮かべる海面が見えるようになった。
そして数秒後には水平線を通って雲の浮かぶ空が見えるようになる。
さらに数秒経つと空の雲が上に移動して水平線が見え、波立つ海面が見える。
横揺周期十秒前後で本船がローリングしているのである。
ある日、定常の観測業務を終えてキャビンのドアを開けて驚いた。
テーブルが4本足を上にして転倒しており、戸棚や天袋に入れておいた物が部屋中に撒き散らされていた。
船舶の内装は揺れに対応した仕様になっている。
扉には煽り止め付けられ、引き出しにも多少の傾斜で滑り出さないようにストッパが設けられている。
しかし、これがあまりきついと日常の動作が大変なことになるのである程度に調整されている。
それが全部外れて部屋中に散乱していた。
片付けるのに2〜3日掛かったと思う。

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こうなると食事の時刻に食堂に行っても空席がある。
二等機関士が欠席していた。それが2〜3日続いたと思う。
船酔いで寝台で寝たきりだったのであろう。
船長でも航海士でも船酔いすることはあるようであるが、やはり機関士のほうが船酔いには弱い人が居るようである。

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インド洋に入って8日目くらい、マダガスカル島に近くなってモーリシャス島が見えたときにはブリッジでクォーターマスターが双眼鏡で覗いていた。

日本との通信もインド、セイロン付近を通るの東経100度辺りから途絶えてしまった。従来は船舶局も3直で、無線を傍受し、自局宛でないものは再送(リピート)していた。従って、大西洋上からも何度か中継されて銚子局などに届き、電報で連絡することができた。
しかし、船舶局も局長さんと次席さんだけになり、他局宛の電報の中継も行わなくなっていたのである。
当時は衛星通信などは高価で緊急の連絡にしか使えなかった。
局長さんは「三角大福だと。」とテーブルで話題提供していたが、これは三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫が、佐藤栄作総裁を後任を競合していた話である。

機関長は、主機故障(復航に発生し、洋上で巨大なピストンを引き抜いてジャケットを取り替えた)などのトラブルがなければ、朝から紐の付いたゴルフの玉をひっぱたいて、マストに掛かれば登って回収していた。
運動をしなければ身体が鈍ると言っていた。

午後に、データを整理していると電話で「計測員ですか?船長がお呼びです。」と電話が掛かってきた。
サロンに行くと「1人足りなかった。」という。麻雀の時間であった。
本船では、流石に午前中にはやらなかったようである。
下船する前に精算するのであるが「わしは麻雀はしたが、賭け麻雀はしていない。」と払わずに降りた猛者も居たらしい。


2012年02月21日

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淡水から広島までの一千浬(49)

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時化るときは船橋にまで衝撃が伝わるように思ったこともある。

5万総トンのクルーズ船「クリスタル・シンフォニー」が竣工後、乗客を乗せて航行中に時化に遭い、船橋のフロントグラスを損傷したことがあると聞いたことがある。
航行中に海が荒れたら逃げ場がない。

しかし、海象が穏やかなときは、当直以外全員でリクレーションもやった。
こんな時は厨房で、遠足の時のような折詰弁当を作ってくれた。

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運動会をやったときには局長さんも作業帽を被って、やる気になっていた。
ただ、航行中の船上で綱引きは難しかった。
広い場所も限られているし、デッキにマンホールの様な起伏があるところではそれを足掛かりに頑張った方が有利である。

航行しているうちにインド洋も乗り切っていた。

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8月29日の正午位置はマダガスカル島の真南、東経45度であり、9月1日の昼過ぎには南アフリカのポートエリザベス港が見えた。
アフリカ大陸最南端アグラス岬までは一日の航程となった。

アフリカの南端を喜望峰と思っている人も居るようであるが、最南端はアグラス岬で、喜望峰はテーブルマウンテンで有名なケープタウンから2〜20キロ先である。

喜望峰はよく見えたが、ケープタウンの街はテーブルマウンテンの奥なのでよく判らなかった。
2日の正午位置はアグラス岬沖、3日の正午位置は南アフリカ共和国と南西アフリカ(ナミビア共和国)との国境に近かった。
この辺りはダイアモンドの産地として有名である。
4日の正午位置はナミビアにある南アフリカ共和国の飛び地、ウォルビス沖で、5日の正午位置はナミビアとアンゴラの国境で、この頃になると海岸線に沿って航行していた。

大西洋の海の色はインド洋より薄く、青より緑がかっていた。

そしてその日の22時15分に目的地モサメデスの沖に投錨した。
アンゴラは、ポルトガルの植民地であった。
当時、ポルトガルはアントニオ・サラザールが首相、あるいは大統領として独裁者として君臨していた。
アンゴラにある鉄鉱石の積出港もポート・サラザールと呼ばれていた。

翌朝、船橋に上がって行くと、パイロットボートが接舷し、ポルトガル人のパイロットが到着したところであった。
階段をあがると「モーニング!」と声を掛けられた。

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午前7時前に抜錨し、朝霧をついてやってきた2隻のタグボートに曳航され、船首を港外に向けて鉱石埠頭に接岸した。
航海日誌には、7時15分接岸と書き込まれていた。

鉱石ヤードから長いコンベヤの先には、クルップ(独)製ローダーが設置されていた。

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12万トンもの鉄鉱石の搭載前後の船体応答を計測するための準備もセットした。

本船の接岸時は空槽だから喫水は浅く、船橋の海面上からの高さは高かった。

ローダーの背景は高い崖になっていたが、その上には原住民の集落があり、モスクもあったようである。
寄港して上陸するのが楽しみで、後で撮影しようと思ったのがいけなかった。
本船は連続して荷役しているので、明くる日に見ようと思ったら船体が沈んで崖の上を見ることは出来なくなっていた。

乗組員も上陸が楽しみな様子で、昨日も一昨日も司厨員が臨時の散髪屋さんとなり繁盛していた。


2012年02月22日

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淡水から広島までの一千浬(50)

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当時、アンゴラはポルトガルの植民地で、モサメデスという街はモサメデス州の州都であった。

そこから少し離れたところに鉄鉱石の積出港ポート・サラザールはあった。

アンゴラが独立して、州名はナミベ州に、街の名はナミベとなった。
2004年の統計でナミベの人口は13万人余りで、これはナミベ州人口の4分の1に当たるという。

港は切り立った岸壁の横にあった。
積載重量11万トンの鉱石運搬船「笠木山丸」の満載喫水は16メートルである。
これを接岸させる水深の専用港湾にクルップ社製のコンベア付きローダーが設置されていた。

鉄鉱石は奥地の山岳地帯から鉄道で輸送され、ここから積み出されるとあるが鉄道線路は見えなかった。
モサメデスからダンプカーで移送したものであろうか?

モサメデスの街から大陸奥地に敷設されている狭軌の鉄道はいまでもモサメデス鉄道と言うらしい(在アンゴラ大使館:「アンゴラ情勢(2012年1月1日)」)。

モサメデスの街までの道路には並木が植えられていたが、その遙か向こうでは放牧が行われていた。おそらく牛であろう。

コンベアの敷設された港湾に隣接した高台の上は原住民の集落のようであった。
接岸時にはモスクのような建物も見えた。

崖下には小船を繋ぐ桟橋もあった。
ここで釣った小魚は自分たちの糧食になるのであろう。
ここではアジの大群が湧くことがあり、その時は地元民は数名で海に入って手づかみで採るという。

ポート・サラザールには沿岸漁船の基地らしい設備があり、幾棟かの建屋があったが、とてもバザールと言えない。
笠木山丸を接岸するためにパイロットボートと2隻のタグボートは、ここに居たものではなくモサメデスから呼び寄せたものであった。


2012年02月23日

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淡水から広島までの一千浬(51)

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海岸沿いの並木道から2〜3百メートルほど砂漠に入ったところにも原住民の集落があった。

鉱石圧計測の準備も済ませたので歩いて行って見ることにした。

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近づくと小屋の間に人影が見えた。

何をして生活の糧にしているのであろうか?

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子供達が出てきた。

写真を撮ろうとカメラを構えて子供達の方へ歩み寄った。

その時、母親らしい婦人が血相を変えて走ってきた。

ここの人たちに追いかけられて逃げきれるものではない。

カメラを抱えて海岸道路の方へ走って逃げた。

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船上から眺めても走る車など居なかったのに、運良くフィアットが通りかかった。

子供を4人も乗せたポルトガル人の若夫婦であった。

モサメデスの街まで乗せて貰った。

2012年02月24日

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淡水から広島までの一千浬(52)

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道路から見ると、所々に原住民の小屋が建っているのが見えた。

近くで狩猟の出来るようにも見えないので農作業用の小屋であろうか

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明らかに原住民の家とは違う廃屋も幾つか見えた。

何れも海岸線より砂漠の方に寄っている。

真水の出る井戸を掘って住んでいたのに、その井戸が涸れて住めなくなったのかもしれない。
それにしてもこんなところで自給自足で生活が出来たのであろうか?

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川も流れていたが、橋などない。
車は浅い河床を渉っていた。

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並行して鉄道が走っていた。
貨客混載の2両編成で小型のディーゼル車が牽引していた。

奥地のサ・ダ・バンデイラ(現:ルバンゴ)との間に敷設されている。
鉄鉱石はこの鉄路でポート・サラザール(現:ナミベ第2港区)に運ばれて来たのであろう。


2012年02月25日

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淡水から広島までの一千浬(53)

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モサメデスの街はパステル画のような美しい街であった。

レストランもあり、野外映画劇場もあった。

街角の小公園には常緑樹が赤い花を付け、オウムが飼ってあった。

それぞれの家は黄色や藍色のような鮮やかな色で塗られていた。

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日本車も結構多かった。

この街のタクシーは黒塗りのベンツかセドリックであった。

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ポルトガル人の子供は本当に可愛かった。
次席さんが街角で、子供達に持っていった楽器を鳴らすと男の子も女の子も20人くらい集まってきた。
白人の10代の少年少女はとても人懐っこくチャーミングであった。

1961年頃には独立戦争が始まっており、1975年にアンゴラ共和国として独立したが、しばらく内戦が続いていた。

あの頃、街角で逢った子供達はおそらくポルトガルに引き揚げたのであろう。

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午後の一時、思ったより通りを歩いている人達がいた。

ポルトガルの地方都市のような街並みであった。

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大人も、外国から来た我々が珍しいのかちょっと間を置いて立っていた。

長閑な午後のひとときであった。

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これはレストランで食事をした後、船長と撮った記念写真である。
食後に食べたパパイヤが旨かった。

市場の果物屋で陳列台にあったパパイヤを掴もうとしたら指が抵抗なく入ったのには驚いた。
置かれたまま熟れすぎていたのである。

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これは船長と本船の看護婦さんである。

アフリカ航路は、黄熱病予防注射をうったことを証明するイエローカードが必要な上、船医が乗船する必要があった。

船医がいない場合は看護婦がその代行を行っていた。

駅前には立派な郵便局もあった。
ここで、訪問記念にアンゴラの切手をシート買いした。

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これはその切手の一部である。


2012年02月26日

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淡水から広島までの一千浬(54)

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約30時間のローディングで10箇所のハッチから3艙の鉱石ホールドにコンベアから鉄鉱石が積み込まれていた。
第1ハッチから第3ハッチまでは一区画のホールドで第1(船首)船艙、第4ハッチから第7ハッチまでが第2(船央)船艙、第8ハッチから第10ハッチまでが第3(船尾)船艙と3区画に横隔壁で仕切られている。

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積み込みに従って喫水が深くなり、入港時に見えていた崖の上の原住民集落は見えなくなっていた。
崖から降りるスロープの先には小さな漁船を繋留する小屋が建っていた。

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鉱石を積み込むに従って喫水とトリムが変わるので、あまりトリムが付かないようにローダーはハッチを移動しながら積み込む。

この船首船尾の喫水を見て、幾ら積み込んだかを確認するのも一等航海士の仕事の一つである。

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傍では漁民が漁具の手入れをしていたのであろう。
黙々と作業をしていた。

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船尾側から見た本船である。

すでに満載状態に近く、船体は深く沈んでいる。

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出港は夜になった。

1971(昭和46)年9月7日、18時40分離岸。

入港時と同じタグボート2隻が離岸を支援してくれたが纜を外した後、後甲板で乗組員が手を振ってくれた。

針路を南に全速前進が発令されたのは19時15分であった。

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ケープタウンに向けて南下し、アグラス岬を廻ってインド洋に出ると時化の中を一直線にスマトラ海峡に向かった。

海峡に差し掛かる頃、主機に損傷を生じ、直径1メートル近いシリンダジャケットを引き抜き、洋上でスペアと交換した。

この時、機関部は大奮闘であった。

一時はシンガポールのドックに入渠するかも知れないと思ったが数十時間の漂流の後、福山港へ戻ることが出来た。

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これは露天船橋に取り付けた、航空写真用のものをベースに開発されたステレオカメラである。

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こちらは投棄式波高計である。
1航海に3基程度積み込んだが、これを使用するべきかどうかは、その都度船長にタイミングを教示して貰った。

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アッパーデッキの一室を使用して計測室にした。
写真現像用の暗室も作った。

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ダイナミックな計測データはアナログ式データレコーダのほかにディジタル式データレコーダも積み込んだ。

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帰途、ベトナム沖で空母も見かけた。
当時、ベトナム戦争が膠着状態であった。

帰国したときも紀伊水道から明石海峡を抜けて福山の日本鋼管原料岸壁に入港したのであるが、瀬戸内海に入ったときの美しさは衝撃的ですらあった。

特に神戸の沖を通るときは手空きの乗組員は右舷側の神戸の街を眺めていたが皆、自然に微笑んでいた。やはり内地は良い。

2012年02月27日

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淡水から広島までの一千浬(55)

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私が笠木山丸で乗船計測をしていた頃、母は点字図書館で点字の講習を受けていた。

その後しばらく点字図書館に通って点字の奉仕をしていた。

佳子は純子を連れて3ヶ月間、修養科に行っていた。
修養科と言うのは天理教本部の、所属大教会の詰所に住み込んで講習を受けたり、奉仕活動をしたりして修養を積む課程である。

私の乗船計測の方は2ヶ月であったので、帰国後の週末、国鉄、近鉄を乗り継いで逢いに行った。
純子はあまり人見知りする子ではなかった。
手を差し伸べると、抱かれようと上半身を寄せてきた。

黙っていたが、抱いて表に出ると「ホーリング」と言う。
見ると当時流行っていたボーリング場が近くにあり、屋上に大きなピンが立っていた。
1歳半の純子は、バスが通ると「バス」と言った。
ちょうど言葉を覚える時期であった。

当時、近鉄奈良線沿線に菖蒲池という小さな遊園地があったが、一緒にそこに行ったと思う。

その年の6月、父の会社で工事中に事故が発生し、工員さんが亡くなった。
その水道工事店に復職した数年後に水源地近くの工事現場で人命事故を経験していた父は6ヶ月後に辞任すると宣言した。

その水道工事店の大きな資材倉庫の2階3階部分を改造してそこに住んでいた頃のことであった。

2012年02月28日

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淡水から広島までの一千浬(56)

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1972(昭和47)年3月に父は役員をやっていた水道工事店を辞任した。

戦後、広島で上水道工事に携わって以来、それまで地元の工事店で施行していたが、大手建設業者が参入してきたこともあった。
その時も同業者と広島市管工事親睦会を作ったりしたこともあって、管工事の株式会社を設立することになった。

見出しの写真は皆実町の3階に住んでいた頃のものである。
父の背景は、右奥に季節には櫻や躑躅の咲く仁保の丘であり、その向こうはマツダの工場のある向洋である。
住居は和室を幾つか並べて、玄関横にはダイニングキッチンがあった。
屋上は母がコスモスなどの花を育てており、その横に浴室も作った。
父の後の非常階段を降りると社長宅にわたることが出来た。

その3年前に短期大学を卒業して某製作所に勤務していた妹、由起が辞めて事務をすることになった。

しかし、退社したのであるから住まいを明け渡さねばならない。

市内の牛田新町に新しいマンションが建設されることを知り、的場の事務所に何度か足を運んで契約していた。
当初はなんとか、3月末には入居出来る見通しであったが、建設業者の資金繰りのためか工程が延び、完成が予定より遅れてしまった。

僅か2〜3ヶ月の間、住んでいたところに居ることも出来たのではないかと思うが、父の気性ではすっかり引き払ってしまわなければならないと思ったのであろう。

建設中のマンションに入居出来るまで仮住まいが必要になったが、皆実町5丁目に狭い家を借りることが出来た。
しかし、実に狭く古い家であった。

退職金代わりに西蟹屋町に民家一戸程度の土地を貰ったので、そこにプレファブの2階建てを建て、階下を駐車場や機材置き場に、階上を事務所にした。

1972(昭和47)年5月5日に「瑞穂工業株式会社」の事務所開きをすることが出来た。

配管工も2、3人来てくれた。

そのうちの橋渡氏は、ずっと後年まで「社長、社長」と言って何やかやと訪ねて来て呉れていた。

7月に、牛田新町に建設していたマンションが出来上がった。
「牛田翠苑」と名付けられたマンションに家財を持ち込んで我が家が最初の入居者となった。

旧藩主毛利家の墓地が近くにあり、坂を上ったところにユースホステルがあった。

6階建ての5階で、窓の正面には太田川本流とやっと完成した放水路の分岐点の水門が見え、その背景に己斐の西の茶臼山を望む良い展望が開けていた。


2012年02月29日

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淡水から広島までの一千浬(57)

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1973(昭和48)年5月27日、母は葵吟詠会から初段に認定された。

1級に認定されたときに淑葉の号を貰った。

津田先生に習っていたのであるが、名誉会長の中江大部先生は、以前広島大学工学部長を務められていた方である。

母は私にも詩吟をやるように勧めてくれた。

いまでも手許に石川丈山の「富士山」の詩に発声を記号で記したメモがある。

その年の7月、妻が日本赤十字病院の外科に入院した。
7月4日に手術をして1ヶ月の入院となった。
入院したのは31歳の誕生日を迎える3週間前のことであった。

母は修養科を務めたあと、教会長資格の講習を受け、この年の9月に合格証を貰っている。
清光分教会と白光分教会の役員を務めていた。

12月には私が勤続10年の表彰を貰った。

同じ12月に、退院した佳子も教会長資格の講習を受け、16日に検定に合格した通知を貰った。


2012年03月01日

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淡水から広島までの一千浬(58)

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前回まで書き続けてきたが、それからいろいろなことがあった。

祖母や両親、それに妹たちに支えられ、励まされて今日の幸せがあると思っている。
現在、とても充実し幸せな日々を毎日実感している。

勿論、家族以外に親戚、知人その他多くの人に助けられて来た。
心から感謝している。

さらに書き続けることを試みたが、反省することも後悔することも多く、それより何より思い出すと辛くて筆が進まない。

この先は、機会があれば続けるということでこの項はここで筆を置くことにしたい。

写真は基町の市営アパート(16番17−422号)に住んでいた頃、両親や妹たちとテーブルを囲んだ一齣である。

2012年03月05日

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浚渫運転支援システムの開発−その1−(広島に住んで:3)

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1976(昭和51)年に、広島研究所で浚渫船の機種担当とりまとめを命じられ、研究統轄となった。

それまでの異常な造船ブームの終焉を迎え、1976年に最初の運輸大臣勧告により、造船大手7社の翌年度を操業度67%、翌々年度63%が打ち出された。
1979年の操業度目標はさらに55%に引き下げられた。
1978(昭和53)年11月には大手造船7社の設備を翌年度末までに40%削減、操業度目標はさらに縮減された。

そして遂に1980(昭和55)年3月末をもって広島は新造船部門から撤退を余儀なくされていた。

しかし、新造船から撤退と言っても、海洋構造物や浚渫船を主体とする作業船は建造することになっていた。

浚渫船は従来の機種で達成出来なかった岩盤浚渫や、海洋環境保全のための大量ヘドロ浚渫など広範囲な開発プロジェクトが目論まれていた。

カッター・サクション・ドレッジャ(ポンプ浚渫船)の浚渫性能はオペレータの技量に依存するところが多く、運転効率は運転者により大きく変動するという課題があった。

ペルシャ湾岸の産油国などが生き残りのために港湾整備を行うため浚渫船の引き合いも多かったが、日本の大手浚渫会社のベテランが現地に行き、性能評価のための運転を行って引き渡す契約であったが、現地のオペレータではそれを使いこなすことが出来ず、運転の教育指導まで行わなければならないこともあった。

新造浚渫船の試運転などで得た運転ノウハウや、カッターや浚渫ポンプの開発や改良を行ってきた経験を分析し、浚渫運転支援システムを開発する試験研究を起案し、予算化することが出来た。

見出しの写真はエジプトのスエズ運河庁向けに建造し、竹原沖で試運転中の大型ポンプ船である。
スエズ運河庁には、大型ホッパー浚渫船1隻、大型ポンプ浚渫船、クレーン船など数隻を納入した。

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