そんな生活をしていたとき、広島市の住宅課の人が訪ねて来た。実情調査であろう。
広島に来たときから何度も何度も市営住宅への入居を申請していたのであるが、幾ら建てても追いつかなかった。
新しく建てて入居させても、どんどん他所から入ってくるのである。
当初の都市計画では戦前、陸軍の軍営地であったり練兵場であった基町地区は公園にする計画であったが、千軒以上の市営住宅で埋まった。
その後も木造の市営住宅などを解体して高層アパートを建ててしまった。
そのとき、訪ねて来たのは槇さんと言って、我が家が入居した基町の市営住宅に彼も入居した。
まだ寒い3月に基町に新築された白壁の南鯉城住宅19号に入居した。
見出しの写真は広島城天守閣の石垣から西を眺めた写真である。
手前には広島城の内堀に植えられた蓮が繁っている。
その傍に比較的新しい白壁の2軒ずつ背中合わせに建てられているのが北鯉城住宅で、少し離れたところに同じ仕様で10棟、20軒建てられたのが南鯉城住宅であった。
基町地区で最も後に建てられたものである。
北鯉城住宅の左に見えるのは戦災孤児(原爆孤児)を収容していた新生学園である。
終戦で混乱している時期、陸軍通信隊の見習士官であった人が、市内のあちこちで泣いていた赤ん坊を収容するために、旧陸軍の暁部隊の施設を借りてひらいた孤児の施設であった。
余談ながら、当時は陸軍に舟艇部隊があった。全国何処へ行っても暁部隊と言えば船舶を運用する部隊であった。
ちなみに、陸軍の船には飛行甲板を持ち、連絡や偵察に使う軽飛行機を搭載している船もあれば小型潜航艇まで運用していた。
海軍は海軍で、戦車に似た甲装戦闘車両も持っていた。
余裕のあるときは師団、聯隊規模で陸軍のチャーターした輸送船で航洋し、海軍艦艇の護衛を受けたりすることも出来たが、お互いに予備兵力まで使い果たした戦争末期には陸軍が海軍に、また海軍が陸軍に支援を要請しても何も期待出来ず、自力で切り抜けるしかなかった。
その通信隊の見習士官は、フィリピンや台湾から引き揚げた孤児も収容していた。
そして、その後基町の堀端に移転したのが新生学園である。
今は東広島に移転している。
幟町小学校の1952(昭和27)年卒業名簿には、松組1名、竹組1名、梅組3名、桜組2名と7名もの卒業生の住所欄に「新生学園」と掲載されている。
このほか、基町には「光の園」という孤児施設もあった。
「光の園摂理の家」は、医師として被爆者の治療にあたっていたペドロ・アルペ神父の働きかけで別府の光の園理事長を迎え、安佐郡祇園町の三菱労務課の建物に設けられ、基町に移転してきたものである。
現在、広電バスの車庫の辺りにあった。
ここも高層アパート建設計画で立ち退きとなり、佐伯郡地御前村(現:廿日市市)に移転となった。
なぜ、こんなに遠いところが幟町小学校の学区になっていたかはこの地図を見れば判る。
1894(明治27)年6月に山陽鉄道が広島まで開通した。
同年9月15日には日清戦争のため、大本営や帝国議会が臨時に広島に移された。
宇品地区を開拓した千田県令の名は千田町、東千田などの町名に残されている。
1889年の法律で国民皆兵が定められ、全国から動員された兵士が広島(宇品)港から大陸に送られた。
その前から広島城本丸には第5師団司令部が置かれ、二の丸には歩兵第11聯隊、野砲第5聯隊、その南の街の中心に西練兵場が、広島駅の東側には騎兵第5聯隊があり東練兵場が広がっていた。
市街地はその周辺にあったために学区割のときには、だだっ広い基町一番地に民家があり、学童が居ることは想定されて居なかったに違いない。
広島市の中心部に原爆スラムという大規模なスラム街が出来たのも、地主は居らず、倒壊した兵舎などの木材が不法建築の建材や薪として使えたからである。
旧火薬庫は石垣に取り囲まれていたが、その土塀の中は石油会社のガソリンスタンドとなっていた。
現在、土塀は取り除かれ、個人タクシーなどのガソリンスタンドとして営業している筈である。
先に述べた光の園の近くであった。
南鯉城住宅は、北鯉城住宅とともに最後に建てられたもので戦前、野砲第5聯隊と輜重兵第5聯隊とを隔てる外堀を埋め立てたところの様であった。
広島は太田川の三角州で、大雨や高潮のときはすぐに水浸しとなった。
この対策のため、市の西側に放水路が計画されたが始まった工事は戦争で中断されていた。
このため南鯉城住宅はよく浸水した。
特に一番北の我が家が一番条件が悪かった。
床下浸水には何度逢ったか憶えていない。
床上浸水になったこともある。
畳の上まで浸水すると何の対策も出来ない。
そのときは非常持ち出し品だけ持って夜、雨のなかを相生橋の傍の商工会議所ビルに一家で避難した。
野砲第5聯隊の跡の西側は、堀のあとの溝を隔てて隣接していたがそこには木造2階建てのバラック2棟からなる母子寮があり、保育園があった。
そこから幟町小学校に登校していた子も同学年も何人か居たが、当時まだ野砲の砲身がゴロゴロしていた。
屑鉄屋が持ち去るにはあまりにも重たかったし、砲身は分解も切断も出来なかった。
今でも当時の様子を思い出すことが出来る。
しかし南鯉城住宅は背中合わせの2軒長屋だったので偶数号となる裏筋は1、2軒しか憶えていない。
うちの右隣、17号は満州から引き揚げて来た玉井一郎さん一家であった。
奥さんは早月さんと言って、男、女、女の3人の子持ちであった。
先隣(15号)は川村さんと言って小さい女の子を連れた夫婦だったが、ご主人が若くしてなくなった。
その先、13号との間はコンクリートか煉瓦造りの大規模な基礎が残っており、これを避けて1軒分くらい瓦礫のままであった。
ちなみに、竣工当時の南鯉城住宅は板囲いのついた庭があり玄関の右、台所の出窓の外には槇の木、玄関の左には柊など、多少の植木も植えてあった。
それで、鶏やウサギを飼う家が多かった。
13号には浅野さん一家が住んでいたが、ご主人は生前、NKか何かの検査官をしていたらしい。浅野さんはアンゴラウサギを一匹と鶏(白色レグホン)を飼っていた。
それが放し飼いするものだから野菜を植えていた我が家の庭に入って啄むのに弱った。
浅野さんには2人の男子が居たが、兄は私より2〜3年年上で、修道高等学校を卒業して鳥取大学農学部に入学した。農学部としては由緒ある大学であった。
弟は私より1年下くらいで一時は遊び仲間であった。
11号の檜垣さんは宮島競艇の旗振り(スターター)であったが、易を副業にしている風であった。そこには小さな男の子が2人居たと思う。
9号は吉沢氏といって市の緑地課かどこかに勤めて居たらしい。
娘が2人いた。
9号と7号の間は通路になっていて、表通りの米穀配給所や銭湯とクリーニング屋の間から例の溝を石橋で渡って、同援住宅を経て10軒長屋という市営住宅の間を本丸の壕の方まで抜けられた。
このブログを見てくれている人の中には「なぜ、そんな細々したことを?」と思われる向きもあるに違いない。
この地域が、短期間(約20年?)の間に2度もリセットされ、その地図も残っていないからである。
この航空写真は、戦後木造の市営住宅を数百戸も建てていた基町を再開発するために高層ビルの建設が始まったころ撮影されたものである。
既に広島市民球場、その手前の体育館などが建設されており、太田川を寺町側に跨ぐ空鞘橋も掛かっている。
手前には「光の園」のあったところに広電(広島電気鉄道(株))のバス車庫も出来ている。
市民球場の向こうの相生通りから手前は基町一番地で、左端に再建された広島城の天守閣も見える。
広島城の東側も基町であった。
天守閣の横の堀端に新生学園や、共同住宅と呼ばれた木造2階建ての集合住宅もあった。戦前は野砲兵第5聯隊のあったところである。
戦前の航空写真と較べてみる。
新生学園や共同住宅のあったところは野砲5聯隊の兵営で、その手前に輜重兵第5大隊の建物が並んでいた。
野砲5聯隊の営庭だったところに道路が作られたことが判る。
一枚上の写真では、そこから写真中央寄りは母子寮や十軒長屋と呼ばれた市営住宅の撤去作業が進んでいる。
野砲5聯隊と輜重5大隊の境界線が戦後バス道路となったのである。
始めに掲げた写真は、天守閣から西(写真の右)を望んだものであり、幹線道路も含め白紙に線を引くように、戦前の道路と無関係に変えられたことが判る。
通常の市街地ならば、それぞれの区画に地主がおり、道路1本引き直すにも調整が必要であろうが、基町は広島城の西も東も官有の基町1番地であり、問題なかった。
市営住宅も、当初「市営住宅何号」という呼び方をしていたが、クラスメートの住んでいた551号などになると郵便配達にも支障が出たであろう。
そこで、城前住宅、同援住宅、鯉城住宅、朝日住宅、南鯉城住宅、北鯉城住宅などのほか、北区、東区、相生区、大手前、東基町などと適宜地名をつくって呼んでいた。
相生橋から写真下縁外の三篠橋までの河岸にも不法建築は残っており、市の中心部に原爆スラムと呼ばれる一帯が残っていた。
この基町再開発以前の戦後の基町を記録に残そうと、記憶を頼りに地図を描いてみたりしている。
市民球場が出来る前は、相生橋の近くに広島護国神社があり、相生通に面して大きな石の鳥居もたっていたし、その傍には児童文化会館というホールもあり、広島交響楽団が定期演奏会をやっていたことも知らない人が多くなった。