夕陽の淡水河畔
父と子の競い釣る背を惜しむなく 夕日が包む淡水河畔王正子
LCさんから送って貰った淡水の陳月里女史の「淡水月光」(1991)である。
1988年に観音山をスケッチしていた武蔵野美術大講師、建築家の鈴木喜一氏と出逢ったとき、67歳だったという。
鈴木氏のエッセイによると三民街の小公園に面した建物の2階に住み、1階に娘さんと民芸店を開いていたそうだ。
木下静涯画伯はインド旅行の帰途、病気になった友人に付き添って台湾に滞在し、この地が気に入って淡水に居を構え家族を呼び寄せて終戦で引き揚げるまでこの地の名士であった。
画伯は特に雨後の淡水がお好きであったと思うが、それほど淡水という処は良いところである。
LCさんも夜の淡水河に浮かぶ漁船を撮影して国際フォトサロンに入賞している。
淡水河と観音山は晴れた日も雨の日も、朝も昼も薄暮も実に良い眺めである。
1858年に清国と英仏露米間で結ばれた天津条約は清国で批准されなかったために、同条約で取り決められていた開港は実施されなかった。
しかし、いわゆる「アロー号事件」などの経緯により締結された北京条約で開港された結果、淡水は1895年から1905年の10年間で、台湾全島の貿易額の6割を越える主要貿易港となった。
淡水以外の台湾各港では安平(20%)、高雄(4%)、基隆(1%)しかなく(1895年)淡水の独占状態であった。
当時出入りしていた船は、戎克(ジャンク)のように喫水の浅い船で、そのまま淡水河を遡り台北のや大稲に荷揚げすることも出来たので淡水河の航行は非常に賑わっていたという。
日本統治が始まると、日本郵船や大阪商船も淡水と福州や香港を結ぶ定期航路を開設したが、当時、外航船がどんどん大きくなっていた時期で接岸出来ない船もあった。
接岸できないときは沖泊まりして、で荷役をするのであるが淡水河には堆積した砂で大きな中洲があり、泊地も限られていた。
このため、内地との連絡港として基隆が整備されると貨物や旅客は急速に基隆に集中するようになった。
1927年には淡水郡守山本正一などによる「淡水港施設期成同盟会」が淡水港振興戦略に関する計画書を発表し、淡水港の修復を訴えた。
計画のなかで、築港の実現、大陸への短距離航路の開設、淡水線鉄道の延長と駅の新設、大稲との間の小蒸気船の往復、大小2つの公園設置、登山道の整備、淡水・台北間道路改善、関渡駅の振興などが含まれていた。
一部は実現されたものもあるが、この計画は達成出来なかった。
そして淡水は夕陽の美しい観光の街と変貌してきた。
現在、基隆港は旅客船や連絡船のほか、コンテナ船や、漁船、沿岸警備隊、艦艇まで狭い内港、外港にひしめき合い、コンテナヤードも確保できない状況にある。
そこで再び淡水河口が見直され、対岸の八里に大規模な港湾が建設途上である。
このほど発表された新北市の計画では淡水の対岸八里を含めた長期計画によると河口には、大スパンの斜張橋も建設されることになっており、MRTも路線の延長が計画されている。
淡水から写真を届けてもらった。
先日の台風一過の淡水河の写真、6葉である。
見出しの写真は、その2葉目を少しトリミングしたものである。
手前には雨上がりの樹々の梢が濃緑で、対岸の観音山には雨後の霧が垂れ込めており、河岸の家々が鮮やかである。
河面には吹き寄せる風の立てた小波が走り、その手前にはパラソルを掛けた小船が遡っている。
小船は、船体を青に塗装したり、目玉を描いたこの辺りの漁船ではない。
実に素晴らしい絵である。
写真を送ってくれた楊さん、ありがとう。
昭和十年代には大きかった淡水河の中洲も終戦の頃には随分小さくなっていた。
今は、干潮時にかろうじて砂洲が見える程度である。
上掲の地図は終戦直後に米軍が航空写真をもとに作成したものであろう。
中洲が小さく描かれている。
戦前にはで、ハマグリなどの貝掘りや蟹漬けにするシオマネキをとりに行ったものである。
淡水の楊さん(クリスチーナ)から最近の観音山の写真が届いた。
今年も何度か颱風が来襲したが、穏やかな日の淡水河/観音山は良い。
来年は是非、淡水に行きたいと思う。
誰に逢うか想像するだけでも楽しい。
戦前の淡水には、現在MRT車站のあたりに淡水線の停車場があった。
その傍には老義発、施合発という材木を輸出入する大きな企業があり、木材を輸送するための引き込み線があった。
そこから街と反対側のマングローブよりに水上飛行機の基地があった。
この辺りには豪商が大邸宅を構えていたらしいが、買い上げて水上飛行場や英国貿易商の煉瓦建ての倉庫が建っていた。
この倉庫や引き込み線はいまでも当時の様子が判るように保存されている。
そして水際には漁民が水上家屋に住んでいたが、MRT淡水車站に隣接する広い河岸公園から見ることが出来る。
古き良き淡水の面影を偲ぶことのできるこの辺り一帯も再開発の対象になっていると聞く。
今朝、メールが届いた。
淡水のクリスティーナ嬢からである。
淡水河口の夕陽、灯し頃の観音山、それに彼女が鹿港桂園農村に行ったときの写真が添付されていた。
上の写真はそのうちの一葉である。
写真の右に何基かのコンテナークレーンが見える。
淡水は開港当時、台湾最大の外航港湾であったが、河口の堆積により外航船舶の大型化に対応しきれなくなって、新たに基隆港が整備された。
しかし、基隆も狭い港湾の上屋のまわりは市街地になり、コンテナヤードも運用できなくなったために淡水河の河口左岸の八里に大規模な港湾建設が建造され、2009年3月に「台北港」として供用が開始されたものである。
写真の左には観音山の裾もわずかに見える。
淡水河の夕陽は素晴らしい。
淡水河の夕陽の写真を挙げたら、昨日の午前9時に撮った観音山の写真を送ってくれた。
12月20日の淡水は穏やかな晴天で、気温は17〜18℃であったそうである。
河口沖には台北新港に入港する外航船も見える。
東方を眺めると朝日が爽やかである。
手前の河岸緑地は再開発の工事でも行われているのであろうか。
紅樹林の彼方、竹囲の方角に高層ビルの林立しているのも見える。
大きな街になったものである。
先ほど、クリスティーナからEメールを貰いました。
「長い間、このページを更新していないので、元気かどうか心配している」と言ってきたのです。
実は、今月初めから内容の濃い書籍にとりつかれて、何冊か読み考え込んで居ました。
それに先日、60年以上前に卒業した同期生会の案内が来たり、十数年前に英国諸島をクルーズしたときにコーディネーターをしていた人から「寄せ書き日の丸」返還運動の連絡が入ったりしていて、このブログの更新を出来ませんでした。
ここ1ヶ月くらいの間に受信したEメールにも対応出来ていないものもありました。
申し訳ない次第です。
こんなつまらないブログを見てくれる人が居るのは有難いことです。
これから真面目に更新します。反省!
写真はクリスティーナが送ってくれたものです。
この観音山の写真はクリスチーナが今月送ってくれた。
穏やかな水面には漣も光っている。
淡水の街も大きくなって、八里との間の連絡船や漁人碼頭からの観光船などが航走している賑やかな淡水河も悪くないが、このように静かな河面も良いものである。
大日本空輸の川西大艇「神津」(J−BACT)が1945年9月9日の朝7時半、横浜を離水した。
戦後混乱期の台湾経済を支援するため日銀の保証する台湾紙幣2トンを緊急輸送するためである。
艇体は全て白色塗装され、主翼と艇体側部には誤認されないように連合軍側から指定された緑十字の標識が描かれていた。
乗務員は、大堀機長、越田操縦士、佐々木航空士、武宮・加藤機関士、鈴木・某通信士の7名であったという。
鹿児島、沖縄上空を通過して15時50分に着水、郵便局のそばに繋留された。
上述の写真がその白塗りの川西飛行艇である。
この現金輸送飛行は2度おこなわれたらしい。
「神津」が2回航行したのか、もう一艇の候補であった「巻雲」(J−BACZ)が飛んだのかも知れない。
2010年11月27日の本欄に、よしさん(yosh3@mail.goo.ne.jp)と言う方からコメントを戴いた中に「終戦直後の緑十字飛行でこの港の前に停泊している飛行艇の写真を見ました。」とあったので調べて見ると「航空と文化」(http://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/2011.04.15koshida.htm)に、当時操縦士として乗務した越田利成氏が記述していた。
そこから拝借した写真である。
終戦直前にこの上屋に住んでいたことがあるが、当時は紅毛城前の烽火に移っていた。
このほか、海軍の残存九十七式大艇も白い塗装に緑十字をつけて南洋方面でマラリアなど苦しむ将兵のために食糧や医薬品を空輸している。
終戦直後の9月9日、横浜から飛来した大日本航空海洋部の川西飛行艇「神津」(J−BACT)である。
一昨日、(2010年11月27日掲載の「小公園」に)コメントを付けてくれたYさんが写真の出典を教えてくれたので、台湾師範大学の曽令毅の論文「航空南進と太平洋戦争:淡水水上機場の設立と発展」から転載した写真である。
昭和9年に海軍から川西航空機(株)に九試大型飛行艇の試作指示があり、同年11月に菊原静雄技師を設計主務者として設計に着手された(社内名称S型大型飛行艇)。
1号艇の初飛行は11年7月14日、近藤勝次操縦士により行われ、同月25日に海軍に領収された。
九試大艇は昭和13年1月に97式1号飛行艇と呼ばれることになったが、製作されたのは合計4艇である。
その後、昭和17年までに179艇が製作された。
97式飛行艇は7.7ミリ旋回銃4丁、20ミリ旋回銃1丁、60キロ爆弾12、あるいは500キロ爆弾2を搭載する遠距離哨戒/爆撃飛行艇であったが、このほかに武装のない97式輸送飛行艇36艇(15号艇、16号艇の改装を含めると38艇)が製作された。
このうち、大日本航空海洋部の使用艇は18艇、残りの20艇は海軍で運航された。
日航艇には「綾波」、「漣」、「磯波」、「あさしほ」、「叢雲」、「白雲」などの艇名が付けられている。
昭和16年の開戦に伴いインドネシアのアンボン島の934航空隊に配属になった北出少尉の著述によれば、彼は横浜航空隊で海軍の新任者と日本航空海洋部の操縦士の操縦指導をしていたという。
淡水郵便局裏の淡水河に繋留された「神津」の背景に郵便局の別館が見える。
その左は淡水郡役所裏の広場であろう。
別館の上には淡水公會堂の本館と洋館とそこに登る細い坂道が見える。
このあと、公会堂の裏側に大きな中正路が貫通した。このとき煉瓦建ての立派な幼稚園がとりこわされ、淡水小学校や女子公学校は中正路の向こう側の高台になり、公会堂の跡に建設された図書館からそこに行くために陸橋が架けられた。
私は幼い頃、高台にある公会堂から水面滑走する飛行艇を見たことも、河岸で繋がれている状態も見たことがあるが、淡水河に繋留されている川西大型飛行艇の写真を見たのは今回が初めてで、少し興奮している。
公会堂前の縁石に腰を下ろして、青年と子供が淡水河口に沈む夕陽を眺めている。
往時を偲ばせる長閑な写真である。
河を背にした中央の大きな建物は郡役所であろう。
祖母の弟の一人、山本 保氏は郡役所に勤めていた。
住まいは水源街の近くの街外れだったような気がする。
大東亜戦争が始まっていないときか、始まったとしてもまだのんびりした頃、数家族連れだって中洲に行ったことがある。
船尾に船頭が前を向いて立ち、両舷に交差した櫂を漕ぐで渡して貰った。
子供達は貝を掘ったり、水溜まりに残った小魚を追ったりして遊んでいたが、大人達は小蟹(シオマネキ)を捕っていた。
九州の有明海は潮が引くと遙か沖まで干潟になり、ムツゴロウのような魚が泥の上を歩き回り、蟹や蝦蛄が孔から出てくる。
佐賀県の有明海寄りでは蟹を採ってすり鉢で潰し、塩や唐辛子を入れて蟹漬けを作る。
これを九州モンは がに漬けとかがん漬けと呼んでいる。
淡水にも九州から移住してきた人が多かったから休みの日に中洲に渡ったのであろう。
1940(昭和15)年11月25日にパラオ島から大日本航空の川西式大型飛行艇が淡水に飛来した。
「綾波(J-BFOZ)」である。
横浜、サイパン、パラオ、淡水と6日間にわたる試験飛行であった。
大日本航空は横浜・サイパン・コロール・トラック・ポナペ・ヤルートへの南洋定期便を開設したが、さらに横浜・淡水・サイゴン・バンコクへの国際空路と淡水・パラオ間の路線も試験運行された。
大日本航空は、信託統治の南洋諸島やフィリピン、インドネシア、ベトナム、シンガポール、タイなどと定期航空網を構築するため、18艇もの川西式四発飛行艇を所有していた。
「黒潮」(J-BFOR)
「朝潮」(J-BFOS)
「曙」 (J-BFOT)
「潮」 (J-BFOX)
「漣」 (J-BFOY)
「綾波」(J-BFOZ)
「磯波」(J-BGOA)
「浦波」(J-BGOB)
「叢雲」(J-BGOC)
「白雲」(J-BGOD)
「巻雲」(J-BGOE)
「夕雲」(J-BGOF)
「東雲」(J-BGOG)
「朝凪」(J-BGOH)
「神津」(J-BACT)
(艇名、艇体符字不明:3艇)
当初、磯波、綾波のように波に関する名称が付されていたが、のちに黒潮、白雲など気象・海象に関する名称にも広げられた。
ただ「神津」は伊豆七島の島名であろうと思われるのでここに挙がっていない艇にも島名が付けられている可能性はある。
しかしながら、第二次世界大戦の暗雲がアジアにも広がる兆しもあり、定期便開設には至らなかった。
終戦直後、「緑十字艇」として横浜から淡水に飛来したのは「神津」と「巻雲」である。
戦時下においては海軍の97式輸送用飛行艇がこれらの海域をカバーした。
曽氏のレポートに掲載されている「海軍軍用定期航線圖」によると、淡水を発着する便は週に二往復であり、上りは第二、第四木曜日の早朝セレベス島のマカッサルを飛び立ち、ミンダナオ島のダバオに16時に着水、金曜日の9時にダバオを発ち、マニラに14時着水、土曜日の9時にマニラを離水し、淡水へは14時半頃着水していた。
淡水で一泊し、日曜日の朝6時に淡水河を飛び立って横浜に15時半に到着することになっていた。
下りは第一、第三木曜日の6時に横浜を離水し、淡水には15時半頃着水し、翌日の9時に淡水を発ってマニラに向かった。
この定期便で郵便物や転任者を移送させたのであろう。
淡水郵便局裏手の河面に飛行艇を繋留するブイが設置されており、ランチで上陸した乗組員や連絡将校などが公会堂に宿泊していた。
写真は、のちに「緑十字艇」の二番艇として淡水に飛来する「巻雲」である。
曽氏のレポートに掲載されていた淡水河の離着水コースを示す図である。
台北寄り(竹囲側)と河口寄り(海水浴場「和樂園」側)にそれぞれ3000メートルのコースが描かれている。
中洲を避けて直線コースを設定できる水面に設定されたもののようであるが、私の記憶では川西の飛行艇も零式水観も淡水街と中洲の間を使用していた。
河岸寄りにプロットされた赤点は飛行艇を繋留するために設置されたブイ(浮標)で、曽氏が付け加えたものである。
郵便局や当時の郡役所の近くに設置されていた。
出典は「1936年佐世保海軍航空隊『淡水測絵図』」である。
紅毛城の坂を下って横断歩道を渡った河岸を少し油車口の方へ行ったところの河岸にレストランがあった。
淡水を訪れたとき、二度ほど行ったことがある。
日本では寒い大晦日でも、この屋外のテーブルで夜風に吹かれながらゆっくり夕食を済ませて宿に帰ったこともある。
当時は結構繁盛していたようであるが、いまはもう営業していないらしい。