睦月
睦月なり 最低気温零下なり 窓辺に小き榕樹飼いつつ(詠み人知らず)
日の丸の紅の色雪に映え いと美はしく又懐かしく江 恵 蓮
ブログ「台湾魂と日本精神」(http://twnyamayuri.blog76.fc2.com)の
「日本の建国を偲ぶ台湾人の短歌」から転載
2〜3日、前このブログに、幼い頃見ていた零式水上観測機を懐かしんで短歌を載せた。
まもなくカリフォルニアに住むLCさんからメールが届いた。
LCさんのご近所に淡水で、この「下駄履き飛行機」を操縦していた人が居るという。
LCさんとは40年越しの友人であるという。驚いた。
淡水河で離着水する水上機はよく見ていたが、(一度、郵便局の裏で水中から事故機を引き揚げるのを見たことがある)最近まで水上機の基地がスロープや駐機場までそのまま残っていたことを知らなかった。
漁人碼頭のようなところにするために最近再開発のため埋め立て工事が始まったとボストンの博士が写真で知らせてくれた。
淡水でこの水上機を操縦していた人はアメリカ生まれの2世で、たまたま帰国していたときに開戦となり海軍飛行兵となったという。
LCさんはボストンの博士や私と同じ淡水生まれで、ブログを介して知り合った。
とてもありがたい友人である。
写真は1993年に(株)文林堂から発行された「日本海軍機全集」に掲載された橋本喜久男氏の描いたイラストである。
今年の1月に佐賀県の小型シートが年初に発売になった。
佐賀県は、ほかの県のように封建時代の一つあるいは二つの藩を県と置き直しただけではない。
1871(明治14)年7月14日、廃藩置県により当時の藩をそのまま佐賀県、蓮池県、小城県、鹿島県、唐津県、厳原県となった。
9月4日に厳原県は佐賀県と合併し伊万里県となった。
11月14日には蓮池県、小城県、鹿島県、唐津県が伊万里県に編入された。
旧肥前国は長崎県と伊万里県になったのである。
翌年1月に旧佐賀藩の諫早、神代、伊古、西郷、深掘が長崎県に編入され、5月29日に伊万里県は佐賀県に改称され、8月19日には対馬(旧厳原県)が長崎県に編入された。1876年には佐賀県は長崎県に編入され、1883年に長崎県の10郡(佐賀・小城・神崎・基肄・養父・三根・杵島・藤津・東松浦・西松浦)が分離独立し、改めて佐賀県となった。
非常に大雑把に言えば、旧肥前国が長崎県と佐賀県に分かれたのである。
佐賀県は玄界灘に面し海岸に沿った山岳地帯である唐津藩と、有明海に面した湿地であった佐賀藩にわけて考える方が理解しやすい。
佐賀県でも唐津側は新聞に掲載される天気予報も福岡県を参考にする。
私の祖母 松浦リセも、明を再興しようと台湾に拠った鄭成功の母親 田川マツも肥前の出身である。
本籍地は平成の大合併で唐津市に編入されたが、佐賀平野よりも長崎、佐世保、平戸などのある長崎県の方に親しみを感じるのである。
小型シートの切手は、上に佐賀県出身の宰相 大隈重信、下の田の字は右上から時計回りに「祐徳稲荷」、「唐津くんちの山車『鯛』」、「佐賀平野の熱気球大会」、「吉野ヶ里遺跡」である。
やはり、一つ選ぶとすれば「唐津くんち」である。
3月1日の本欄で「龍目井の我が家」として、航空写真から当時住んでいた宿舎を推定してみた。
スクラップブックに、引き揚げのときに持ち帰ったものや、後で現地から送って貰った写真が貼ってある。
それにメモを残しておいてくれた。
先日の推定が的中していたのかもしれない。
LCさんの父上の掛けた小さな橋の架かった小川や、LCさんやCHMさんが散髪して貰ったにちがいない筋向かいの理髪店のことにも触れてある。
「左端 少しはづれた処から小路があり 入って左2軒目が当時 竜目井の宿舎で 恭子はここで生れた」とあることで確認することが出来た。
ひょっとすると3月1日の赤で囲った家の隣(道路寄り)かもしれない。
裏口で隣接していた安武先生の宿舎が小公園に向いていたと思われるからである。
北投の瀧之湯温泉は戦前に開業した公共浴場で、今も営業しているという。
今年、網友(ブログ仲間)のHさんが行ってきたと聞いた。
私は2005年(平成17)年の夏に、戦時中 学童疎開で滞在したことのある善光寺の丘に登っただけである。
ただ、おぼろげながら幼い日に母と北投の町外れを歩いた記憶があるのみである。
上掲の写真は戦後の龍目井である。
手前の平屋建ては郵便局本館の脇を流れる小さな水路に沿って建っていた。
外観上からは普通の民家かどうかよく判らない。
公会堂から転居して住んでいた、下記の「龍目井の宿舎」はおそらく、その建物の向こう側の路地に向いていたのではないかと思う。
ちょっと気になるのは右手の木造建築物である。
二階建てではあるし、公共の建造物であろう。
郵便局に近いし、その分館であろうか?
この写真の右の大きな木造が郵便局本館で、河岸に近い洋館建てには三芝から転居して住んでいたことがある郵便局の別館である。
件の建物はその手前の木造二階建てである。
なお、その手前の屋根から右上に引出線を引いて、父が「恭子の生まれた龍目井の宿舎」と書いている。
淡水公学校は1941(昭和16)年4月1日に、淡水東国民学校と改称された。
校長官舎は校舎と隣接して構内にあった。
グランドに面していたので前庭は生け垣で仕切られていた。
1934(昭和9)年3月31日から1945(昭和20)年11月30日まで、第12代校長、松田常已(三重県)が住んでいた。
3月1日(9ヶ月前)の本欄で「龍目井の我が家」として写真を載せた。
その欄で、戦後何度も淡水街の写真を送ってくれた父の教え子の人が示してくれた家を黒ペンで、私がそのとき推定していた家を赤ペンでマークしていた。
いま、父のメモを読み直してみると『(前略)・・小路があり、入って左2軒目が当時 龍目井の宿舎で・・(後略)』とある。
どうやら、そのとき赤ペンで印した建屋より一軒、通り側の家らしい。
そうすると父の書き残しておいてくれた原稿の『(前略)・・郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。(後略)』とも合致する。
写真の上左に、三角形が二つ並んだ「小公園」があり、そこに接してボストンの博士の生まれた、鄭先生の興亜医院の大きな屋根が見える。
左下にはキリスト教長老派教会の大屋根と尖塔があり、右下のL字型の建物が淡水郵便局で、その裏は河面である。
小公園の河寄りは区画整理のあと建て替えられたが、ここから河岸へ抜ける小路は当時のままの様である。
手許に残った限られた資料を幾度も眺めていると判ってくることもあるものである。
昨年訪台したときに鎮公所と淡水国小を訪問した。
そのときに淡水国小創設百十周年記念誌を貰った。
淡水鎮公所からも三芝国小からも記念誌などを貰ったので台北の宿舎から別便で送った。
その記念誌の思い出の写真の一つに、当時幼稚園のあった坂の上から長老派教会と対岸の観音山を望んだ一齣があった。
LCさんによると、当時風景画を描く人はみな、ここで写生をしていたと教えて貰ったことがあるが、なるほど絵になる光景である。
戦後、淡水街のバイパスとして中山路が拡幅・直線化されたときに幼稚園の用地が供用されたと聞いた。
私は淡水で生まれ、父の転勤で一時、三芝に居たことがあるがそれ以外は引き揚げまで淡水に住んでいた。
戸籍謄本では、淡水街新店参拾七番地で生まれたことになっているが、祖母の居た砲臺埔参拾八で生まれている。
そこから龍目井に移り、そこから転勤で三芝庄字埔興百十八番地に転居した。
そこから淡水に戻ったのは終戦後であったのであろうが、一時、龍目井の郵便局分館の二階に居たことがある。
淡水で頻発する空襲警報で、防空頭巾を被って防空壕に逃げ込んだことがあるから終戦前かもしれない。
いずれにしても、引き揚げ直前には紅毛城の前の烽火十四に居たと思う。
この辺りの記憶が定かではない。
1929(昭和4)年7月10日に改正された、臺湾総督府交通局鉄道部発行の時刻表によると、臺北發淡水線の列車(二・三等)は5本(午前7時35分發:191号列車、午前11時30分發:193号列車、午後2時50分發:195号列車、午後7時發:197号列車、午後10時25分發:199号列車)あった。
所要時間は50分から60分程度であった。
これらの列車は大正街と宮ノ下は通過していた。
おそらく、4輌編成の列車に乗降出来る長いプラットホームが設けられて居なかったのであろう。
このほかに、当時自動客車と呼ばれていたガソリンカーが運行されていた。
ガソリンカーは、淡水行きが5本(午前5時30分發:201号、午前9時20分發:203号、午後0時45分發:205号、午後4時50分發:207号、午後8時55分發:209号)あったが、宮ノ下に停車するのは201号だけで、あとは通過していた。
北投から分岐した盲腸線で新北投まで行くものが17本(午前5時58分發:231号、午前6時40分發:233号、午前7時16分發:235号、午前8時10分發:237号、午前8時40分發:239号、午前9時50分發:241号、午前10時30分發:243号、午前11時50分發:245号、午後1時10分發:247号、午後2時10分發:251号、午後3時20分發:253号、午後4時發:255号、午後5時30分發:257号、午後6時10分發:259号、午後7時50分發:261号、午後9時35分發:263号)あった。
新北投に行くガソリンカー(時刻表には「汽」と略記されていた)は全て大正街にも宮ノ下にも停車していた。
片倉佳史氏著「台湾鉄道と日本人」によれば、1937(昭和12)年の時刻表では半数が淡水行き、半数が新北投行きで、30分ヘッドのパターンダイヤで、この時代に待たずに乗れるサービスを実施していたのは、台湾ではここだけであったという。
古い写真を探していたら、別の写真が見つかった。
昨日掲載したものとほぼ同時期の撮影と思われるが、時間的な前後関係はよく判らない。
この写真には日本海軍の駆逐艦が2隻、錨泊している。
そして手前に、アーチの並ぶ2階建ての洋館の手前に、11月19日に掲載した2階建ての木造建屋が見える。
(この写真の方が後で撮影されたものであろうか?)
上の写真の元になったと思われる着色写真である。
海軍艦艇の行動記録を調べると時期が特定できるかもしれない。
私の故郷は淡水である。
つくづく、そう思った。
本籍地でもあり、小学校に入学したときに居た唐津市の浜崎も故郷と思ったこともある。しかし、そこは父にとっては故郷に違いないが、私にとっての故郷は淡水である。
小学校の低学年から住み続けている広島も故郷と言えなくもないが、やはり広島は現住所という位置づけである。
結局、この歳まで広島弁は身についていない。
淡水に居たのは6歳までであり、当時の記憶もさだかではないがやはり故郷は淡水である。
街並みも整備され、当時ランドマークであった建物の多くは解体され、道路も拡幅されたが、ちょっと路地に入ると当時の街路がそのまま残っている。
それに、当時の淡水街は新北市淡水区になったが古蹟の保存や整備が整備保存されている。
最近、当時の写真に出会った。
初めて見るのに懐かしく、提供元にお礼のメールをすると、淡水に来るのは何時かと返事を貰った。
下松のMさんに早速電話した。
彼女も淡水を故郷と思っていると確信した。
一枚の手書きの地図から往時の淡水を偲ぶことが出来る。
8月9日付けの本欄で、縮小表示されても文字が見えるように横向きの図を提示し、12日付けで部分図を載せたらカリフォルニアのLCさんから写真が送られてきた。
その写真にはLCさんのお姉さんと横浜のクレゴーさんのお母さんが保母さんとして載っていた。
今日、また別の写真が送られてきた(上掲)。
LCさんは煉瓦建ての立派な幼稚園は、その近くに建てられた淡水小学校が、1920年代に淡水女学校と淡水女子公学校の間に移設された後に淡水小学校の付属幼稚園となり、1938年頃に、残されていた小学校の旧校舎に移転したのではないかと推察している。
そういえば、幼稚園の写真に写っている陳秀英先生が公学校の写真にも写っていた。
また、例の手書き地図には海水浴場のほかに、海水浴場という表示が見える。
淡水海水浴場は台湾で初めて設営された海水浴場であるが、和樂園のあった海水浴場の前に外海に面した砂浜に設けられたことがあるのだろうか?
戦後、父が訪れたときに撮影した海水浴場は、その辺りかもしれない。
私は引き揚げの時、未就学だったのでよく判らないが、当時の公学校、小学校に通った人でこのあたりの事情を憶えている人が居れば教えて戴きたいものである。
以前、別のブログでガジュマル、リュウガン、ハイビスカス、クロトンそれにマングローブに生えているオヒルギ・メヒルギなど懐かしい植物を取り上げたことがあった。
そこでは取り上げなかったがデイゴも、いかにも亜熱帯らしい花である。
もう啓蟄も過ぎたのに薄ら寒い日が続くと台湾が無性に懐かしくなる。
広島にも、平和大通りの東側にアメリカン・デイゴがある。
アルゼンチンの大統領夫人エバ・ペロンから1953年に贈られた種から発芽したものだという。
花をつける初夏になったら見に行こう。
5月になった。
日本では蛍を見ることが出来る季節も近くなった。
ここに移り住んで来た頃は、バス停から自宅に帰るまでに蛍の飛んでいたこともある。
戦後、農薬を使っていたために殆ど絶滅していたが、近頃は蛍の生育を図っているところもあるが水田が減ったので見ることは稀である。
台湾の各地に60種類以上の蛍がいて、何時でも見ることが出来ると何処かで読んだ。
しかし、蛍を見るのに適した時期は4〜6月ころであろう。
私が思い出すのは三芝に住んでいた頃で、田植えをしたばかりの田圃に蛍が乱舞していた。
黒翅蛍(タイワンボタル)であろうか?
加州在住の張さんから「虎の尾の花が咲いた」とメールに写真が添付されてきた。
張さんの育てていた虎の尾が花をつけたので、公会堂の管理人を辞退した祖母やマキ子さんたちと、淡水郵便局横の宿舎に住んでいた頃のことを思い出して、年賀のメールに添付してくれたものである。
その宿舎も中野金太郎氏のものであったと思うのであるが、小公園から郵便局の方向にあった路地を入ったところにあり、玄関の横に竜舌蘭と虎の尾が植えてあった。
私は虎の尾やゴムの樹、榕樹などが好きで、何度か鉢植えを買ったことがあるが、内地の厳冬には耐えきれず、みな枯れてしまった。
写真に日付けが焼き込まれている2014年1月20日は大寒であった。
来月の3日は節分、4日は立春である。
春の気配が感じられるようになったら観葉植物の鉢でも見に行こう。