寒梅の詩
「寒梅の詩」:新島 襄
庭上の一寒梅
笑って風雪を侵して開く
争わずまた、力めず
自ら百花の魁を占む
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この詩は同志社大学で大学歌、校歌とともに歌い継がれているという。
「寒梅の詩」:新島 襄
庭上の一寒梅
笑って風雪を侵して開く
争わずまた、力めず
自ら百花の魁を占む
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この詩は同志社大学で大学歌、校歌とともに歌い継がれているという。
「国破れて山河あり」:杜甫
国破れて山河あり
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書萬金に抵る
白頭掻けば更に短く
渾て簪に勝えざらんと欲す
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これは 昨年帰淡したときに淡水在住の方が吟じてくれた詩である。
朗々とした吟詠であった。
1月15日は小正月であり、近畿地方ではいまでもこの日までを松の内としているようである。
もともと正月1日を大正月と言い、その月の望の日(満月:旧暦1月15日)を小正月と言っていた名残らしい。
昔は元服の儀を小正月に行っていたと言われ、これにちなんで1月15日が「成人の日」として国民の祝日になっていた。
2000年の法律改悪により1月第2月曜日に変更された。
鹿児島では先週「菜の花マラソン」が行われたというのに、当地では今朝の最低気温が零下4℃、最高気温も1℃前後である。
朝から断続的に粉雪が舞っている。
父の色紙から菜の花を探し出した。
先日、伊豆の下田で水仙が咲いているというニューズがあった。
淡路島の灘黒岩水仙郷、立川水仙郷や福井県丹生郡越前町など、海に突き出した岬で数百万本の水仙が咲いており、沖を通る船にその香りが届くという。
一番寒い時期に咲く花である。
春さむき江波に酒のみ
酢につけた生きたしらうを食いにけるかも
憲吉
中村憲吉は広島県三次出身のアララギ派歌人である。
伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉などと交流を持っていた。
江波は広島三角州地先の漁師町であった。
この短歌は、江波でこの季節にしか喰えないしらうおを肴に酒を飲んだとき詠んだものである。
私が江波の造船所に通勤していた頃は「山文」というしらうおの躍り食いを喰わせる料理屋があった。
東風江水を吹き
花開いて顔色を照らす
相思えども人未だ帰らず
日暮 上に立つ
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大曲 汪中
汪中は清代の儒学者で、字は容甫(1744−1794年)。
夕刻は肌寒いが櫻の季節になった。
今日も職場の仲間で夜櫻を楽しんでいる人達も居るであろう。
新入社員に場所取りをさせて、勤務のあとで花見をする風習があるが、私にはあまりにも寒いので抜け出して、公園の喫茶店で熱い珈琲を飲んだ記憶がある。
挿絵は、櫻の咲く頃の京都清水寺の能舞台を描いた父の描いた色紙である。
父は書も絵も上手かったが、私はどちらも不得手である。
父はよく色紙を書いていた。
画は淡彩画で、風景をよく描いていた。
家の近くも描いていたし、旅先でもよく写生をしていた。
何時もスケッチブックを携えて家族でドライブに行っても、5分程度で素描をし、帰ってから改めて色紙に描いていた。
若い頃から書も淡彩画も自己流で描いていたが、1984(昭和59)年、父が72歳のときに初めて街の文化センターの教室に通った。
風景画のほかは、花をよく描いていた。
これは、その時に水彩画の教室で画材に花を描くことが多かったからである。
人物画は描いたことがない。
文化センターでは書の教室にも短期間行っていたが、その先生は前衛的な書家であった。引き揚げ以来、初めて台湾に行ったのは書の仲間で故宮博物院に行こうと誘われたからである。
そのとき、淡水公学校の教え子が桃園の中正国際空港まで迎えに来てくれて、故宮博物院に行った後、書の仲間と別れて淡水に行き、陳淑女校長も含め歓迎の祝宴に出ている。
書は漢詩も多いが、一文字あるいは二文字も沢山書いていた。
上の色紙はその中の一枚である。
落款印も唐津の教え子の一人が彫ってくれたものである。