新行政区
新北の 区となりにけり 淡水は
篤き心情(こころ)を継ぎ伝えつつ
(詠み人知らず)
淡水に行っているボストンのドクターからメールが入った。
淡水区(淡水鎮の新呼称)の区長に逢って「淡水会」のこともお話ししたようである。
戦前 淡水神社のあったところに近く有名なゴルフ場があるが、その近くに世界平和を祈念する世界平和公園を建設する話が出ているという。
現在、台湾新北市淡水区(旧淡水鎮)では油車口の台湾ゴルフコースの近くに世界和平公園を整備する計画が進められているという。
大東亜戦争の戦没者を祀るために建設されるという話であるが、15世紀ころのスペイン人やオランダ人、それに19世紀にこの地で陸戦の行われた清仏(清法)戰争で亡くなった人たちも併せて慰霊するので「世界和平公園」と呼ぶのだそうである。
ボストンの博士は淡水に在住しており戦後引き揚げた人もことも記録に留めるために判ることを知らせて欲しいと連絡を貰った。
とりあえず公会堂の管理人をしていた祖母など家族の生い立ちなどをメモにして届けようと思っている。
これは父が龍目井を再訪したときにポラロイドカメラで撮影された写真である。
父は1985(昭和60)年に書道教室の仲間と、1991(平成3)年に淡水会が現地で行われたときと、2回渡台している。
淡水国民小学(旧淡水公学校)の門柱のわきで当時の教え子たちと撮った写真と同じような白い上着を着ているので、そのときに龍目井を訪れたのであろう。
淡水会のときは日本から行ったのは25名で、現地の人達は80人くらいで歓迎会をしてくれたという。
日曜日にもかかわらず陳淑女校長も出席して、父が各テーブルに挨拶にまわるとき乾杯を無理強いされないように気を遣ってくれたと聞いた。
昨年は私たちが同地を訪問し、陳女史にご挨拶することが出来た。
LCさんが戦前の航空写真と、淡水幼稚園近くの写真二葉を送ってくれた。
航空写真には赤ペンや赤のマーカーで細かく説明用の線が書き込まれ、枠外にはびっしりと説明が加えられている。
煉瓦建ての淡水幼稚園は、現在 新生街と呼ばれる地域にあったようだ。
公会堂の建っていたところは図書館・公民館などの入っている鎮立文化センターになっているが、その辺りから重建街までの一帯が新生街と呼ばれているらしい。
戦前は油車口から来た道が、英国領事館から少し龍目井に寄った漁船の船溜まりのあたりで分岐して緩い坂道となり公会堂の前を巻くように曲がっていた。
淡水街の迂回路としてこの道から清水街の山の手にかけて中山路が整備されたようだ。
そのとき淡水幼稚園や木材を積み上げていた杉塊庭が新しい中山路として利用されてという。
淡水駅の近くには施合発、老義発などがあり、木材業は淡水の主要産業であった。
航空写真の枠外には淡水幼稚園の建物や運動場まで描いた見取り図が添えられていた。
これで公学校から公会堂までの当時の様子をうかがうことが出来る。
太平洋の彼方から当時の事物を教えて貰えることは非常に有り難い。
これもインターネットの大きな恩恵だと感謝している。
電子メールには、幼稚園のまわりの様子とその傍を下る牛車の写真がも添付されていた。淡水河の対岸に観音山を望む、芸術家でなくても写生したくなるような絶好のポイントである。
ちなみにLCさんに教えて貰ったところによると、公学校の東側には公設の食肉解体処理場があったという。
片倉佳史氏の著書「台湾に生きている『日本』」によれば、そこには大きな自然石の畜魂碑が立っており今でも月に二度、関係者により家畜たちの供養祭がとりおこなわれているそうである。
淡水幼稚園は小公園から緩やかな坂道を上ったところにあり、そこから長老派のキリスト教会と淡水河対岸の観音山の眺めは素晴らしい。
LCさんが送ってくれた絵は李永沱氏の作品だそうである。
このとき一緒に送って貰った、この写真は同じポイントから撮ったものであるが牛車が時代を感じさせる。
木下源重郎(静涯)画伯もインド旅行の途中、病気になった友人に付き添って台湾で下船してこの地が気に入って居を構え家族を呼び寄せたという。
木下画伯の家は左上の丘にあり素晴らしい眺望だったと思われる。
画伯は我々家族と同じ時期(19446年3月)に九州に引き揚げている。
この写真で右の石垣の上に幼稚園があり、絵描きさんは左の木陰で写生していたという。
この写真は淡水駅前で、竹囲の方から来た中正路が中山路と分岐するところである。
2011年9月29日にボストンの博士が 淡水鎮公所(当時)、三角公園(小公園)、淡水国小、三芝国小に案内してくれ、海鮮料理で有名な海風餐庁で夕食をご馳走になり、そこからまた台北まで送って貰ったときに撮った一齣である。
最初は場所も路名も判らなかったが、グーグル・ストリートで何度も見ているうちに少しずつ判るようになってきた。
4月5日のブログでは中山路と中正路を間違えて載せたらLCさんに間違いを教えて貰った。
それにしても、戦前に較べると大きな街になったものである。
標記ページ(http://210.60.9.1/i-tamsui/index_ja.php)を見つけた。
淡水の古蹟・観光スポットが紹介されている。
「全國商工行政服務網」、「財団法人中華発展中心」、「淡水鎮公所」、「真理大學皇冠海岸永続発展與服務創新研究中心」、「台北縣淡水鎮商圏文化観光協會」と列記してあるので公の観光ガイドであろう。
中文版、英語版のほか日本語版もある。
ここで紹介されているのは淡水街内外の31の古蹟である。
ここではガイドマップに従って列記する。
① 淡水漁人碼頭
② 淡水燈塔
③ 忠烈祠
④ 滬尾砲台
⑤ 紅毛城
⑥ 英国領事館
⑦ 牧師楼と姑娘楼
⑧ 牛津學堂
⑨ 馬偕姑居
⑩ 小白宮
⑪ 淡水女学校
⑫ 婦學堂
⑬ 八角塔
⑭ 海関碼頭
⑮ 街長多田栄吉故居
⑯ 外国人墓園
⑰ 馬偕墓園
⑱ 淡水漁業生活文化影像館
⑲ 淡水禮拝堂
⑳ 滬尾偕医館
馬偕頭像
紅楼
布袋戯主題館(人形芝居のテーマ館)
日本警官宿舎
福佑宮
清水巌祖師廟
龍山寺
穀牌倉庫
淡水水上飛行場
気象観測所
山寺
である。
滬尾砲台、牛津學堂、滬尾偕医館、福佑宮などに加えて街長多田栄吉故居や日本警官宿舎なども放置され、朽ちかけていたものに手入れして保存されて居ることは注目に値する。
台湾には沢山の古蹟が指定されており、一級古蹟(24)とこれに準じる国定古蹟(16)が合わせて40件ある。
二級古蹟(50)とこれに準じる直轄市定古蹟(59)が合計109件、三級古蹟(223)と縣市定古蹟(184)が合計407件、総計で556件もの古蹟が保護法により定められている。
このうち、淡水には赤楼級の一級古蹟として淡水紅毛城が指定されており、龍山寺級の二級古蹟には、滬尾砲台、山寺、理学堂大書院の3件が指定されている。
また三級古蹟には淡水龍山寺、淡水福佑宮、馬偕墓、旧清淡水総税務司官邸の4件が指定され、縣市定古蹟には淡水外僑墓園、淡水禮拜堂、滬尾偕醫館、滬尾湖南勇古墓、原英商嘉士洋行倉庫、淡水海關碼頭、淡水氣候觀測所、淡水水上機場の8件が指定されている。
台北と台南は別格としても淡水の古蹟は多い。
直轄市である新北市淡水区となったが清時代から賑わっていた街であったのであろう。
もし淡水公會堂が焼失しなかったら、旧街長官舎とともに縣市定古蹟に指定されていたのではないかと考えたりするのである。
淡水の街はバイクが多い。
これは淡水に限ったことではなく、台北の街も同様である。
それに皆、大きな柄物のマスクを着用している。
この写真は昨年9月29日に訪問したときの中正路である。
戦後、幹線道路が整備されて街が見違えるほどすっきりしている。
昨日掲載した写真と同じときに撮られた写真である。
馬偕博士の頭像のある三叉路を河下の方に見たところである。
ちょうど人が三人車道を横切っている辺りの向こう側に龍目井の宿舎があった。
宿舎の裏は安武先生の宿舎と接していたらしい。
そこも中野金太郎氏が家主であったという。
写真の右端に興亜医院があり、そこでボストンの博士は生まれた。
私達家族の住んでいた住居から、正面に見える道を隔てて斜め向かいに住んでいたのである。
そしてその向こうには郵便局の大きな三角屋根が聳えていた。
60年も70年も経って互いのブログで知り合った我々は昨年一緒にここを訪れたことは奇寓であるとしか言えない。
昨年9月27日に台湾に行った。
旅行業者で航空券と宿舎をあたって貰ったが、広島から桃園行は満席であったので
福岡からのキャセイで行くことにした。
ボストンの博士は翌日到着する。
KGさんは既に台湾に行っていた。
そして28日夕刻、博士から携帯に連絡が入り、翌朝宿舎まで迎えに来るという。
そして29日の朝、車に乗せて貰って淡水に向かい、KGさんをピックアップして午前10時に当時の鎮公所を訪問した。
鎮長はあいにく出張中であったが助役の人に対応して貰い、記念品や資料まで貰って淡水国小に向かった。
ここでは校長さんが構内を案内してくれた後、お茶を戴きながらスクリーンで同校の歴史や概要を説明して貰った。ローカルTVが取材に来たのにはちょっと驚いた。
それから大円卓で昼食を振る舞われ、ここでも大きな紙袋に記念品を用意していてくれた。
そこから三芝の国小に行き、ここでも暖かい歓迎を受けた。
特に同校創設百年を記念して出来上がったばかりの文物館で貴重な写真や資料を見せて貰うことが出来た。
淡水に戻って海鮮レストランでご馳走になり、遅くなって台北まで送って貰った。
素晴らしい一日であった。
その様子はブログ「紺碧の海」(https://www.shipboard.info/blog/)に数回にわたって載せた。
とても、あれから1年経ったとは思えない。
昨日のことのような気がする。
このほど淡水からpptファイルが送られてきた。
45ページもある力作である。
「認識淡水」、「英訳名由来」から始まり、将来計画を含む淡水交通網、河岸道路、
新庁舎計画、国民運動センターなどから始まり、木下静涯画伯の旧宅を復元し藝術公園にする計画も載っている。
移設された日本古民家「一滴水記念館」だけでなく旧街長官舎、施氏旧宅や滬尾小學、中野金太郎氏旧宅、などの復元計画も写真や図面で紹介されている。
淡水国際環境芸術祭や農業体験活動など広範な内容は見飽きることがない。
個別事項についてはこのページでも紹介して行こうと思っている。
木下静涯画伯は三角公園を見下ろす高台に住んでいた。
レストランを営業している紅に隣接している。
ここも淡水区が古蹟として整備を進めており、邸宅の前は木下公園となるようである。
そこに登る石段から振り返ると淡水河越しに観音山が見える筈である。
淡水の対岸、八里には大規模なコンテナターミナルが建設されていることは、このブログでも何度か触れたが、新北市の計画によれば漁人碼頭から対岸の八里まで淡江大橋が架設されるとういう話である。
昨年この建設が決定され、予定通りに行けば2015年には壮大な斜張橋が開通する。
出来れば関渡大橋以来のことである。
地図で見ると建設途上から活用されているコンテナターミナルには台北港と印字されている。
約一世紀前には淡水港が全台湾の貿易額の6、7割を占めていたと言われているが、その後外航船が大型化したために基隆港が主要港になっていた。
その基隆が手狭になり淡水河口に新たに台北港が建設されることになった。
そればかりではない。
MRTも現在の淡水車站から漁人碼頭を経てさらに山側にも延長される計画がある。
古蹟の整備だけでなく未来へ向かった計画も展開されていることを知って驚いた。
久しぶりに淡水に帰った人は、街もすっかり変わったという。
戦前から市場のあった老街の辺りは道路も拡幅され、すっかり舗装された。
英国領事館手前の漁港の辺りから公会堂の前に上ってきた坂道は立派なバイパスとして新しい中山路となって公会堂の跡に建った文化センターの裏を貫通し、大きな煉瓦建ての淡水幼稚園の建っていた跡地を通っている。
木造の郵便局は取り壊され、大きなビルが建ち並び、ランドマークであった長老派教会も表通りから目立たなくなった。
しかし、ちょっと路地に入ると70年前そのままに残っているところもある。
淡水鎮は一年前に新北市淡水区になったが、街長旧居や木下画伯の住んでいたところも、中野金太郎氏の邸宅も龍山寺と祖師廟や福佑宮などと清水街にあった施家のあと等、淡水の古蹟整備に熱心な区公所によって修復が行われている。
カリフォルニアに住むLCさんが渡米30年後に帰って、淡水の変貌に驚いたと言っていたが、戦前から残っている小径から当時の建物の復元図を描いて私達を驚かせてくれた。
古蹟を整備・保存することはありがたいことである。
往時の写真を皆で懐かしむことが出来るように整理したいと思っている。
淡水で開催されている国際藝術祭の資料が届いた。
日本と台湾で集中講義を行っていたボストンの博士が、淡水から託されて台中の中山醫學大学から郵送してくれたものである。
淡水で開催されている国際藝術フェスティバルは新設された淡水藝術工坊を中心に、淡水を挙げての国際イベントとして、本日から30日まで開催される。
15日には淡水捷運站広場で開催される開幕式には、イギリス、タイ、アメリカ、スペイン、オランダなどから参加して盛り上がりが期待されている。
ほかにも、特別展示の案内や、油車口の世界和平公園の案内なども送って貰った。
少しずつ報告しようと思う。
昨日、郵送されてきた中に油車口に造られた淡水和平公園の案内も入っていた。
河岸から台湾ゴルフ場に行く道の右側一帯が公園として整備された。
入り口の駐車場の傍に平和を祈願する記念碑が設けられる。
淡水神社の建てられていたあとに建った忠烈祠の参道と並行している、ゴルフ場へ道に沿って木桟が設けられており、淡水河越しに観音山を望む広大な緑地が広がっている。
中央に四阿があり、その奥に日本庭園があり、移築された日本家屋、一滴水記念館がある。
資料の裏面には一滴水記念館の間取りや、移設の経緯が述べられている。
ボストンの博士から標記資料の最新版が送られてきた。
A4版186ページの大作である。
前に見せて貰った版から、中文を英文に翻訳したところもあり、新たに追記された事項もある。
ここでは、1944年10月12に淡水街が米艦載機の襲撃を受けて亡くなった20名の民間人犠牲者のうち、2名についてその概要を紹介する。
淡水中學で、李登輝氏と同級であった周明徳氏の御尊父、周炳銘氏は淡水駅に近い施合発に務めていたが、この空襲で亡くなっている。
気象予報官として新高山測候所に勤務していた明徳氏に、訃報を伝える電報が届いたのは2〜3週間も後のことであったという。
もう一人の犠牲者は呉氏(あだ名を猿鹿仔という)というタクシードライバーであった。駅前にあったそのタクシー会社には、一台のタクシーしかなかった。
彼の未亡人は台湾で初めて運転名許を取得した女性であったという。
彼女は72歳のときにロサンゼルスでPhDと学位を取り、タクシー会社のあったところでホテルビジネスに成功したという。
駅の近くにはライジングサンの石油会社があり、そのタンクが空襲で炎上した。
夜道を逃げながら夜空を焦がす火焔を見た記憶がいまも脳裏に残っている。
我々が引き揚げたあと、公會堂の建物は空き屋であったらしい。
戦前から淡水駅の外れには水上機の基地があり、気象観測のために測候所があった。
戦後、空軍気象観測隊の隊員とその家族が公會堂の建物に住んでいたという。
その数も2、30人居たらしく、沢山の区画に間仕切りされていた。
そんな造作だから電気の配線もちゃんと決められた基準で施行されていたかどうか疑わしい。
事実、過負荷によるショートが度々起きていたという。
それから間もなく、1949年に淡水公會堂は全焼した。
空軍の気象観測隊は淡水を離れ、しばらく公會堂の焼け跡は放置され、まわりには草が生えていた。
我が家にはモノクロやカラーの公會堂の焼け跡の写真が何枚かある。
現地から送送付されたものも、戦後渡台した人が撮影したものを貰ったものもある。
ボストンの博士も子供の頃遊んだことがあるが、当時は何の建物跡か判らなかったという。
今月8日から30日まで淡水で行われる、国際環境芸術祭のマスコット「漁船君」である。
淡水の駅前にも漁船のモニュメントが造られている。
パンフレットでは、この舳先に目玉を描いた漁船が淡水の街を代表するマスコットのように扱われている。
MRT淡水駅前から紅毛城近くの領事館カフェの辺りまで幾つもの会場が設定されているようであるが、その始点と終点にも「漁船君」マークが描かれている。
台湾から郵送されてきたものに、現在開催中の国際環境芸術祭特別展示の案内も入っていた。
淡水藝術工坊で、ウィークデイは9時半から17時まで、終末は18時まで開放されており、そのほか終末には街や砲臺公園などの見学会も予定されている模様である。
国際環境芸術祭と銘打っただけの力の入れようが判る。
昨年9月29日に、故郷淡水を訪れて、1ヶ月後の10月28日に、このブログを立ち上げた。
今日は創設1週年記念となる日である。
先週は久しぶりに淡水会にも寄せて貰った。
来年あたり、マキ子さんとボストンの博士と、カリフォルニアのLCさんと、横浜のKGさんに他の仲間を誘って再訪したいものである。
油車口の世界和平公園や、整備されつつある古蹟も訪れてみたい。
台南生まれで、第一高女出身の画家が描いた1946(昭和21)年当時の台北市街のイラストマップ(部分)である。
この絵は2004年に一緒に淡水に行ったマキ子さんから貰ったものである。
台北駅と淡水街の含まれる範囲を切り取ったが、右には台湾神社、左には総督府や龍山寺も描かれている。
台北帝大、第一師範学校。第二師範学校、台大豫科、台北高等学校、女子師範学校、高等商業、工業学校、第一高女、第二高女、第三高女、第四高女、第一中学、建成、老松、幸、錦、旭、南門、寿など沢山の小学校が描かれている。
裏面の説明を読むと1935(昭和10)年に開催された台湾博覧会用ガイドマップを下敷きに描かれたもののようである。
水平線上に内地、朝鮮、上海、福州、厦門、汕頭、香港、廣東まで描かれているのに驚いた。
淡水の古い写真を見つけた。
紅楼の辺りから河口を望んだ写真である。
太古洋行の保税倉庫として使われたと思われる河岸の洋館は建っているが、淡水郵便局の大きな木造建築が見えないので1915年3月以前の撮影と思われる。
マッカイ博士のキリスト教会も建て替えられる前のようである。
この辺りは当時、淡水で最も賑やかな区域であったが、まだ幅の広い舗装道路が整備される前の状態であろう。
上の写真は今月2日の本欄に載せたものである。
そして10日に菓子老舗の三協成のパンフレットに同じ写真が載っていたことを載せた。
すると、淡水から「当時の建物は70年近く経った今でもそのままです。」とメールを貰った。
これがその写真である。
黒川さんの営業していた塩屋の建物も、その向こうもさらにその向こうも当時の建物そのものである。
2軒建てであった建物はその上に3階が増築されている。
メールには現在の住居表示まで載せてあった。
これもインターネットのお陰と皆さんに感謝する次第である。
製菓老舗の三協成には滬尾偕医館や小白宮淡水礼拝堂など淡水の古蹟も併せ紹介したカラー印刷のパンフレットがある。
それだけなら驚くことはないが中文のほか、私が知っているだけで日文、英文、独文などに翻訳されている。
そしてその末尾には淡水河辺に配置されている彫刻も掲載されている。
それぞれの彫刻の写真には中文、日文、英文、仏文(法文)、独文で解説文が併記されている。
これほど国際的な製菓店のパンフレットは珍しいと思う。
最近、淡水から中正路の写真が送られてきた。
戦前 黒川さんが塩屋を営んでいた店舗である。
4月に送って貰ったときには「許明祥命相館」となっていたがその後、店舗は間口を半分にして「陳家潤餅捲」となり、「金品潤餅捲」となっている。
新婚の両親が借りていた二階は、そのとき「許永鎮代書事務所」となっていたが今は使われてないらしい。
こんな状況を逐一知られてくれる楊さんに感謝している。
ちなみに、父は『(前略)三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住み心地のよい家であった(後略』と記している。
戦前の淡水の街並みである。
両親は私が生まれる前、臺湾臺北州淡水郡淡水街字新店三十七番地にあった塩屋の黒川さん宅の二階に住んでいた。
写真の右手前に塩など専売品を扱っていた標識が見えるのがそれで、ベランダの見える二階を借りていた。
それから79年あまり経った今でもこの辺りは当時の建物が残っている。
これは昨日送って貰った同じ場所の写真である。
2010年12月に臺北県は直轄市に格上げになったので、新しい住居表示は新北市淡水區中正路148号となり、現在は許明祥命相館になっている。
筋向かいには淡水信用合作社や三協成の菓子屋がそのままにある。
1895年の人口調査で淡水の人口は6千人余と記録されているが、合併されて出来た新北市の人口は4百万近い。
大きな街になったものである。
カリフォルニアのLCさんから写真が届いた。
「淡水はよく雨が降る。長い冬に、しとしと小雨が何日も続く。
ときには何週間も降り続くから憂鬱になる。
北米ワシントン州の海岸街、日本人に人気のあるシアトルでも同じようにしとしと雨が降り続く。住民はその憂鬱を晴らすためにコーヒーを飲む。
だから、ここカリフォルニアの大学街バークレーで誕生したグルメコーヒーがシアトルで爆発的に飲まれ、魚市場付近で開業した無名のちっぽけなコーヒー店、スターバックが瞬く間に伸びに伸びて世界中のコーヒー市場を席巻した。
淡水の街も年に何度か土砂降りに見舞われて、何から何まで奇麗サッパリ洗濯される。
写真を撮り始めた頃の一枚で、当時参加していた台北市撮影学会の佳作に初めて入選した。
月に一度の展覧で、生まれて初めて自分の作品が新聞に印刷されたので有頂天だった。
今にして見れば他愛ない新米のスナップ、選考委員が初心者を励ますために推薦した可能性が高い。
牛車と同じく中正路の公共市場付近で撮った1950年代の一枚である。」
と書いて寄越してくれたが、なかなかどうして良い雰囲気を醸し出している。
LCさんから、昔の淡水の写真が送られてきた。
「淡水の『下町』と呼ばれた淡水河岸に沿った古い商店街は汽車の駅から延々と数百メートルも続いています。
戦後、中正路と名付けられた淡水の旧街道は狭く、二度の『市区改正』で広げた道路の幅も押し寄せる大型の乗用車の波には抵抗しきれず、中山路を淡水公学校前から元公会堂の裏までのバイパス『新生路』を建設して中正路の交通渋滞の解決に努めました。
バイパスの新設で犠牲になったのは私の大好きな遊び場『杉塊庭』や多数の古典民家と元小学校で後に幼稚園になった記念すべき建物だったのです。
『市区改正』で道路が拡張された分だけ中正路の商店街の奥行きが浅くなりました。
その損失を補うためか川辺沿いに『環河道路』と称する散歩道が建設されました。
そのお陰で店舗が建物の両端に出来て、川に面した商店の持ち主達は笑いが止まらないことと思います。
『環河道路』建設前の川岸は商店街の裏で、建物が波打ち際まで迫り、荷物の積み上げには三協成餅舖(三協成菓子屋)の横、『屎仔渡頭(公共便所の波止場)』と鎮公所横の『汽船仔渡頭(汽船波止場)』の二つが利用されました。
1950年代『屎仔渡頭』で撮った冬瓜荷揚げのこの写真は当時の模様を良く捉えています。
引き潮で小船は岸から遠く、五人のリレーで冬瓜を岸に運んでいます。
左奥に僅かに見えるのは河面に映った観音山の影です。
記念すべき、古き良き淡水の下町風景の一齣です。」
とある。
貴重な影像をありがとうございます。
先日、LCさんから淡水の写真を届けて貰った。
『淡水の上下水道』
『淡水は台湾で一番目に水道水を引いたと自慢する。
調べたら1899年に大屯山の麓の泉水を水源地から、自然水を濾過もせずに重力を利用して淡水街まで引いて供水したと記録にあった。
当初は、個人の家屋に配管する贅沢はなく、街のあちこちに23箇所の供水栓(消防栓)と称した公共供水、台湾語では「水道頭」または「水管頭」を建設した。
付近の婦女たちはこの「水管頭」に集まり炊事の仕度から洗濯までしながら「ぺちゃくちゃ」お喋りして情報交換をした。
實に「井戸端会議」宛らの「水道頭端会議』で微笑ましい。
私の記憶に残る「水管頭」は家から5軒先の曲がり角で、子供の頃は冬でも裸で冷水浴して遊んでいた、と姉さんたちが思い出しては言う。
1975年、渡米後第一回目の帰国に撮った写真の一枚に、何と思い出の「水管頭」、半円型の蓋はなくなっていたが、写っていた。
個人の家に水道水を引いたのは大分後になるが、記憶の水道管は鉛の管でレンガ造りの家の壁の下に沿って街道から炊事場まで引いていた。
夏になると冷たい水道管に水滴が凝結していたのを思い出す。
「洗濯」と題した私の写真は1962年頃、台北市沙龍撮影学会の月例入選作品で、清水祖師廟の表庭坂の下にあった「水道頭」で洗濯する人たちをテーマにした写真で、干してあった洗濯物を前景に配して作品の遠近感を強調した。
この写真をよく見ると、坂に沿って坂道の右側に見えるのが排水溝、俗に言う「ドブ川」で、これは正しく当時の淡水の下水道でした。当今の下水道は便所の汚物から生ゴミ粉砕機のゴミまで流すから、汚水は一旦処理してから川や海に流す。
想えばあの頃の汚水は処理必要のないまま、淡水川に直接流していたと思う。』
ありがとうございます。
身辺の雑事に煩わされて、アップロードが一週間ほど遅れて申し訳ありませんでした。
以前、LCさんから送って貰った資料によると、台湾で初めて敷設された上水道が住居に引き込まれたのは淡水街長(多田栄吉)宅だったらしい。
父が引き揚げ後、焼け野原の広島に来て水道工事をしていた頃、水道管は鉛管から鋳鉄管になった。鉄管も古くなると腐食して漏水することもあるが、塩ビ管などは結氷時に割れるのが難点であろう。
水道屋の倅だったのにこの方面の知識にも疎くなってしまった。
カリフォルニアのLCさんから、淡水市場の写真が届いた。
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何時建設されたか調べていないが、私の知る媽祖宮廟前の淡水市場は人口一万そこそこの淡水街にある唯一の「公共市場」で、人々からイチバと呼び親しまれていた。
戦前、冷蔵庫のなかった時代の主婦は毎日、闇籠とあだ名された野菜籠を抱えて、当日の野菜の買い入れに市場に通った。
肉類や野菜は朝早く、魚介類は潮の関係で違う時間に市に出るから、一日に市場へは何度も足を運ぶ。
一階建ての市場の中は講堂のようにだだ広く、中の四方形の通路の両側には店が軒を連ねていた。
市場の横は食堂街、その一軒で出す、王仔扁のカレー入り焼きソバは絶品で大好きだ。
市場の街道に面した脇では老生仔の魚丸湯と肉まんじゅうの屋台が特に有名だ。
久しぶりに帰国したら、皆が我先に「我こそが淡水の魚丸の元祖」と自慢するが、何と言っても私の淡水魚丸の元祖はやっぱり老生仔の魚丸だ。
淡水市場が出来る以前、媽祖廟前は広場で、媽祖様は毎日彼岸の観音山を眺めていたと老人達が言う。
最近、淡水市場は時代遅れで取り壊されたと聞いていたが、グーグル地図で調べた淡水市場は依然として昔通りで、可怪しいなと頭を傾げた。
前月手に入れた写真で初めて淡水市場が淡水観光市場に変わったと確認した。
新しい市場は半地下式で道路の入り口から階段で下りる。
中は宛らデパートの地下街宜しく、新式の屋台がズラリと並んでいる。
新しい観光市場の屋根はフラットで道路から何段かの階段で登る。
屋根の川に面した側の欄干に凭れると淡水川や観音山が眼前に広がり手に取るように見える。
記憶に残る思い出の淡水は、時代の流れに押し流されて観光の街へと変貌した。
帰国する度に発見する懐かしい淡水が次々と記憶から剥がれて行くのを見るのは耐え難い。
取り壊された旧市場のお陰で媽祖様は毎日観音山を眺めることが出来るようになったが、下町のイチバのすぐ隣に数年間も住んでいた私には、古き良き淡水市場の思い出が一層懐かしく思い出される。
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LCさん、思い出をありがとうございました。
私はもっと車站寄りの狭い市場が思い出されます。
昨年6月にクリスチーナから送って貰った淡水信用組合の創立二十周年/落成記念写真(1937(昭和12)年12月26日撮影)である。
40人以上の人物が威儀を正して写っている。
当時、これほど立派な建物は目立ったことであろう。
そして、おそらく3/4世紀以上建っていることであろう。
もう少し河口の方を見ると、ゴルフ場、砲台、燈台、海水浴場のほかに海水浴場、無線電信の文字が見える。
この地図の描かれたあとで、油車口の河岸近くに鳥居が立てられ、砲台の方へ参道が造られて淡水神社が造営された。
その鳥居から遠くないところに燈台の文字が見えるが、実は鉄塔なので燈台ではなく燈塔である。
当時、台湾海峡に向かって海水浴場という文字が見える。
沙崙に海水浴場があったのだろうか?
この辺りは清法戰爭のときにフランス軍陸戦隊が上陸したと思う。
その後、淡水河の方に遠浅で波の穏やかな街営の海水浴場「和樂園」が出来たのであろう。
その和樂園の運営を任されていた浅野タツを頼って祖母の原田ユクが幼い母を連れて渡台したという。
上の地図にはそのほかに無線電信、海底電信陸場という文字が見える。
台湾全島から発信された電報は淡水から長崎に敷設された海底電線で内地に送信された。
日露戦争の頃から実用化されていた無線通信も、淡水の無線局から遙か洋上の船舶や南方に向かって発信されていた。
当時、淡水の郵便局は電信局も兼ねていた。
上の地図で見るととても遠く生活にも不便であったのであろう。
淡水会の豊福さんは幼少時ここで暮らしていたのだろうか?
現在は遠洋漁船向けの気象情報などを伝送するために高いアンテナが林立している。
淡水國小九十周年記念誌を見ていて、また古い写真を見つけた。
いま、淡水の図書館の建っている文化路の辺りから三民街越しに紅楼、白楼を望んだものと思われる。
木下静涯画伯が住んでいたのは、その下の通りから階段を上ったところではなかっただろうか?
この写真の右外側に三角形の小公園があり、左外側に煉瓦建ての立派な幼稚園があって、LCさんのお姉さんやKGさんのお母さんが先生(保育士)をしていた筈である。
その幼稚園も、公会堂の裏を通る新道(→中山路→文化路)が建設されるときに取り壊されたらしい。
淡水の街も随分大きくなり、表通りには大きなビルが建って、当時の面影がなくなりつつあるが、ちょっと路地に入ると戦前そのままの小径や階段がそのまま残っているところがある。
2010年9月29日に淡水に帰り、CHMさんやKGさん達と鎮公所(現:区公所)を訪問したあと、その入り口のステップから中正路を撮った写真である。
淡水信用合作社の向かい側の「許明祥命相館」と看板の立っているところが戦前、黒川さんが塩屋を営んでいた建物である。
現在は、店舗も変わっているようであるが、建物は隣接する建屋と同様、当時のままである。
このときはCHMさん、KGさん、現地の皆さんに大変お世話になった。
これが戦前の、ほぼ同じ区画を撮った写真である。
すっかり変わってしまったところもあるが、同時のままの建物が残っているところもある。
戦前の古蹟を復元し保存しようという地元の努力も払われ整備されている。
清朝の税関吏邸の建物は戦後、お化け屋敷のように荒れ果て、1990年代に廃棄されることになったが地元有志や学者の熱意で古蹟として残った。
一方、1937年に新街に出来た淡水劇場は、歌仔戯、新劇、特技団や無声映画を上演していたが、1944年の爆撃にも生き残り、1947年の228事件のときには、ここで集会も行われた。
LCさんの知らせてくれたところでは、1995年に内装の工事中に焼失してしまった。1994年1月に淡水劇場は古蹟として保存することが決まっていたのに、2005年に鎮公所は焼跡を撤去すると公表した。
驚いた古蹟保存団体は取り壊しを見合わせるよう要請したが、鎮長は古蹟審査会の同意も得ないまま1月20日に取り壊しを開始した。1月24日に文化局古蹟調査委員が現場に到着したときには瓦礫の山であったという。
昔日の淡水街の町並みや建物を保存して欲しいが、街が大きく発展しようとするとき、旧街区の再開発が必要な場合もあろう。
兼ね合いとは難しいものである。
この写真は1995年3月に、引き揚げて初めて淡水を訪れたときに撮った写真である。
戦前の淡水線とほぼ同じ経路にMRTの施設が構築されていた最終段階で、まだ操業前であった。
手前の青塗りの建物には「台湾客運淡水站」という文字が見える。
2010年9月に当時の鎮公所(現:区公所)を表敬訪問したときに、沢山の資料とともにを貰った袋である。
鎮長が出張で不在であったので助役氏が対応してくれた。
なかなか良いデザインなので手許に置いている。
襠の部分に描かれたイラストが秀逸なので明日にでもお目にかけようと思っている。
お楽しみに・・
このたび知らせて貰った資料から1936年当時の淡水街について多くの事実が判った。
1936年と言えば父、研一が台北州庁の吉森八郎氏を頼って門司から基隆に渡った前年であり、祖母、原田ユクが淡水街嘱託として公会堂の管理を行いながら料亭のおかみのようなことをしていたときである。
祖母が街営海水浴場「和樂園」の管理人をしていた、親戚の浅野タツのもとに身を寄せて13年経っており、海水浴場には「和樂園」のほかに「街営休息所」や「淡水街設泳浴場(?)」も建っており、台北から海水浴列車が運行され、割引切符やシャトルバスもあったという賑わいが想像される。
しかし、今回は両親が結婚後短期間小学校のそばの宿舎に居たのち、二階を借りて住んでいたという黒川塩店のことである。
この地図によると小公園の河岸側に「葉応元写真館」があり、河岸に抜ける小路を経て何軒か役場寄りに「洪三才」、「洪成枝」、「宏生病院」があり、「黒川義夫」、「酒類大蔵」の文字が見え、その先に「多田商店」、「某商店」の先に「市場」がある。
この市場は当時の公設市場であろう。
さらに進むと「泉成商店」、「呉錦豊呉服」、「江相美陶器店」、「淡江信用組合」、「新華興洋服店」、「蓮生薬房」、「保安薬房」、「三協成菓子店」、「淡水信用組合」、淡水街役場」が河岸側に並んでいる。
これは父のノートに描かれた想い出の淡水街のスケッチの一部であるが、「黒川」、「多田」、「街役場」の相対位置関係は上図と同じである。
この写真の手前右手に見えるのが黒川塩店である。
「塩」、「煙草」、「酒」などの楕円看板が見える。
当時、煙草、塩、アルコール、阿片、それにセルロイドの製造に必要な樟脳などは専売品で認可を受けた店でなければ取り扱えなかった。
この写真は上の街区を2010年9月末に撮影したものである。
縮尺したのでよく判らないが右に並ぶ縦看板の水色、黄色の向こうに見える赤地に白文字でで「許明祥命相館」とあるのが黒川塩店であった建物である。
隣接する建物とともに補修を加えられながらも現存している。
と言うことは、黒川塩店は小公園近くの河岸寄りから街役場や信用組合の向かい側に移転したのであろうか?
大きな謎が見つかった。
1936年以降、新店街に新しく建物が競うように建てられ、黒川さんの店舗も移転したのであろうか?
淡水のゴルフ場は台湾で初めて建設されたことは良く知られているが、淡水街の経営する海水浴場も台湾で最初に整備されたところであった。
1923年に沙崙に建設され、駅から3.3キロの距離であったが販売部や宿泊施設などがあり、浅野タツが街の嘱託として経営にあたっていた。
公学校もここで水泳を教えていたが、毎年6月から9月までのシーズンには台湾総督府の鉄道部も淡水線に列車を増発し、優待割引往復乗車券を発行し、駅からバスも運行されていた。
私も幼い頃によく連れて行って貰ったようであるが、海水浴場の写真は2011年12月10日の本欄に載せた古い絵葉書しか知らなかった。
ところが、このたび教えて貰った地図には、淡水海水浴場に「街営休息所」、「和樂園」、「淡水街営新館」が描かれており、不鮮明ながら「海水浴場新館」の内部と正面の写真も載っている。
道路の距離は縮尺からすると遙かに遠く、またそれぞれの建屋の説明も右から書いたり左から書いたりして判じ物のようであるが、これだけの施設があったことを示す資料として貴重である。
この写真は経営者、浅野タツの養女の結婚式記念写真である。
おそらく海水浴場の一隅で撮ったものと思われる。
前列、新婦浅野イヨ子の右が浅野タツ、その右が原田ユク、その後は私を抱いた母、時子である。
第三回は駅前周辺を探訪する。
まず、驚いたのは駅前にタクシー会社が軒を連ねていたことである。
私の幼い記憶では、人もあまり居ない駅前に人力車の梶棒を下ろして車夫が日陰に腰を下ろして客待ちしている情景が思い出される。
従って、タクシーの車庫だとか点検整備のための作業所を想像することが出来ない。
駅の河岸側には「施合発」の貯木場などへの引込線があり、製材所や倉庫が並んでいる。
淡水の税関は外航船を対象として、英国領事館前の河岸にあったから鉄道輸送のための「出張所」もあったのであろう。
「施合発」が一時は国内トップの材木業者であったことは知ったが、「老義発」というのは木材を扱う商社だったのであろうか?
その「老義発」に隣接して「浄土宗布教所」が描いてある。
父のメモにも、この辺りに荒操天という住職が住んでいたと記されているが、本願寺派かと思っていた。
駅前通りには川口運送店の隣に「雷俊臣」という人物は、初代の洪以南、二代目の呉輔郷に次いで三代目の淡水街長を勤めていた人である。
煙草販売店を経営し、淡水公学校の教師を務めたこともあり、淡水街協議会員で淡水街評議員であった。
街長を勤めていたのは1926〜1929年でその後、多田栄吉氏(1930〜1933年)が四代目街長となり、この地図に描かれている1936年には五代目の鳥井勝治氏が街長であった。
その先の林清海商店というのは何を商っていたのか判らないが、筋向こうに胡萬精米部という文字が見える。
当時の米穀店では、台湾在来の米を改良した蓬莱米も、船便で取り寄せた内地米も扱っていた。
なお、この地図は薬局を含む商店や医院などと共に、女子公学校、小学校、淡水女学校、淡水中学校は載っているが、不思議なことに淡水公学校は載っていない。
新店街をさらに小公園の方に向かってみる。
浄土宗布教所から路地の向こうに「淡水座」が見える。戯劇でもやっていた舞台でもあったのだろうか?
そのすこし先から「張益元薬房」、「台湾銀行淡水支店」、「淡水建築信用組合」と続いてその先に「淡水街役場」、「淡水信用組合」、「三協成菓子店」、「保安薬房」、「蓮生薬房」と並んでいる。このあたりには「薬房」が多い。
その先には「新華興洋服店」、「淡江信用組合」、「江相美陶器店」、「呉錦豊呉服」、「泉成商店」と続き「市場」に至る。公設市場であろう。
その向こうには商店(判読不能)のさきに、番頭さんをおいた文具店「多田商店」がある。
その向こうには「酒類大」、「黒川義夫」と並んでいるが、酒や塩を扱う黒川専売店の酒蔵なのではないだろうか?
その先に「宏生病院」、「洪成枝」、「洪三才」と並んでいる。
向かい側(山側)は浄土宗布教所の路地に面して「黄復振商店」、「ホタル食堂」の角から路地が裏道に通じている。路地の突き当たりには「平楽楼」があり、路地はそこからさらに裏通りに出る。その先には「家畜市場」と描いているが、これは当時、ここにあった食肉解体処理場を指している。後藤新平民政長官のころ、衛生管理の見地から個人による食肉解体処理を禁じ、公設の食肉加工場となったものである。
戦後も食肉解体処理場であったが、1990年に移設され、敷地は農協に譲渡された。
しかし、そこにある畜魂碑にはいまでも月に二度、家畜たちの供養祭が行われているという。
新店街に戻る。「ホタル食堂」の向かいの商店名は読めないが、その隣には「錦上珍菓子店」、「欧米洋服店」、「幅玉華洋服店」「許建成古物店」がならび、路地を経て「祝祥発飲食店」があり、そのさきにレコード店の「朝日屋」、「養元医院」、「宝興済菓子店」、「捷成興薬房」、さらに「徳順商店」がある。
その先に赤字で「?」と記しているが、おそらく廟であろう。
その先は少し離れて「十全病院」、「淡水歯科院」と続く。
上図、左下の「洪成枝」氏は淡水弁務署(警察)事務嘱託をしていたそうである。
その前に「十全病院」があり、ちょっと離れて「淡水歯科院」、「広瀬資生堂」、「淡河時計店」が並んで、小公園に面する角には「谷商店」が描かれている。
「資生堂」は広瀬ノブさんが経営していたが、そこにはマリ子という、同じ年頃の女の子が居た。
父が出征するときにはとても世話になったと言っていた。
小公園の河岸側に「葉応元写真館」が描かれているが、この地図は商店などしか掲載されていない。
従って店舗を構えていない民家は省略されているらしい。
小公園のあたりから「淡水郵便局」まで、淡水河との間には借家などが建っていたと思われる。
なお、小公園の淡水基督長老教会側には鄭子昌(日本名:岩井昌雄)医師の興亜医院が建っていた。この地図には描かれていないが、1936年以降に建ったのであろうか?
教会に入る角には明石商店という店があったがこれも描かれてない。
ここは戦後「三山飲食店」になっていたが、いまは「MACANNA」というレストランか喫茶店になっている。
この地図に描いてあるのは「淡水基督長老教会」だけ、その先の坂の上に「公会堂」が見える。
郵便局の先には「警察署」、「郡役所」があり、そのあいだに武徳殿がある。
「公会堂」の背後に隣接するように「街長宅」があり、そのあいだの道を登ると「女子公学校」、「小学校」、「淡水中学校(淡江中學)」があり、英国領事館寄りに「淡水女学校」も描かれている。
「領事館」前の坂を下りたところに「税関」があり、領事館の裏手に「血清製造所」がある。
台湾にはハブという毒蛇がいるのでそのために血清をつくっていた。
淡水神社の竣工、鎮座式は1939年の3月であり、この地図を作成した時点には公会堂に隣接して小さな祠があっただけである。
ゴルフリンクの入り口近くに描かれているのは砲臺であろう。
その上に「無線電信受局」とあるが、実際には遥かに遠く、小学校に通うのも大変だったことであろう。
昨日、松山から届けて貰った色紙や手紙の中に、父が当時を思い出しながら描いた当時の淡水街区があった。
なかに十数ヵ所のポイントが朱記してある。
戦後、街区の整理によって幹線道路が整備され、中山路、中正路となったが一歩路地に入ると当時からあった坂や階段がある。
神学校の辺りから真理街、馬偕街にかけて歩くと懐かしい雰囲気が残っている。
この画は、引き揚げて何十年も経って思い出しながら父が描いた地図の一部である。
当時はまだ中山路の道路計画もなかったので、公会堂から狭くて舗装もない路が長老派教会の裏手を下りていた。
新店街から油車口の方へ向かう道路を隔てて郵便局の大屋根があり、その河口側に郡役所や税関の建物があった。
赤い数字の書いてあるのは父の註記で、載っている範囲で書くと
1: 資生堂(広瀬)
2: 台銀支店長
3: 塩屋(黒川)
5: 多田商会(文具)
6: 東洋館(野島)
7: 木下画伯
8: 酒屋(庄)
10: 街長宿舎
12: ドグラス(中野)
13: 郡守宿舎
14: 谷 善次
16: 鬼頭商会
17: 市場
とメモされている。
ドグラス(中野)というのは太古洋行のダグラスから不動産を引き継いだ中野金太郎氏のことであろうか?
こちらはノートに記載されていたメモで、上記のほか、淡水小に水田、淡水女子公に小石と校長名があり、公会堂には原田の文字があり、有坂中学校長の名も見える。
街役場の右に見えるのは本願寺の住職、荒操天である。
これらで見る限り、両親が二階を借りていた塩屋の黒川さんは役場より小公園の方にあり、河を背にしていたことは間違いなさそうである。
この1936年当時の淡水の街路図にも黒川義夫の文字が見える。
「塩」「煙草」「酒」など、当時専売品であった取扱看板のあるこの写真の建物は現存する。
しかし、区公所(鎮公所)のほぼ対面にあるこの建物は上掲の塩屋とは位置も向きも違う。
当時の淡水に専売品を扱う店が複数逢ったとも思えない。その後移転したのであろうか?
これは現状の写真である。