はじめに
淡水は臺北から臺湾海峡に注ぐ淡水河の河口右岸の街である。
臺湾は1895年から1945年までの半世紀のあいだ日本の施政下で、現地の人と移住した日本人が一緒に生活を行い、共にこの街を育ててきた。
大東亜戦争の敗戦で淡水から日本に引き揚げてきた人たちの中から、木下静涯画伯などが中心となって「淡水会」がつくられた。
九州出身者が多いこともあって、第1回・第2回の会合は九州で開催された。
第3回は1977年9月16日に広島で実施された。
その後 博多、唐津など九州のほか、高松、熱海など国内各地で開催され、1988年9月3日に、また広島で開催されたときには第22回になっていた。
淡水公會堂で生まれた私は、引き揚げたときまだ6歳だったので同年配の話し相手が居らず広島・博多など2、3回しか出席していない。
回を重ねて1991年には淡水で開催された。
しかし、会員の年齢が高齢化すると参加者も徐々に減り、何度か終わりにしようという話が出ていたが、未だに開催されている。
2009年4月時点の会員数は117名(他に台湾在住者9名、1998年以降物故者(逝去日付き)38名、退会者・転居先不明者31名)である。
ブログを介して2009年8月に知り合った淡水生まれボストン(USA)在住の博士にこの状況をお知らせしたところ「『淡水会』は存続させるだけでなく、さらに広げて行くべきだ」と激励を受けた。
博士と同様にブログで知り合ったカリフォルニア(USA)在住のLCさんも、横浜在住のKG氏も、それどころか私自身も市内に住んでいる妹も会員名簿には載っていない。
2010年9月29日に、博士やKG氏とともに淡水鎮公所(街役場)を公式に訪問し、淡水国民小學では校長先生に校内を案内して貰い昼食会で歓談したあと、三芝まで連れて行って貰い、三芝国民小學開学百年記念ミュージアムを見せて貰いそれぞれに記念品まで頂戴した。
博士やその叔父さんご夫婦には朝宿舎に迎えに来て貰ってから遅くなるまで一日中お世話になった。
私も生まれ故郷である淡水と、それに関わりのある人たちに何かお役に立つことが出来ればと思う。
差し当たって、淡水の街やそこに住む人の素晴らしさを紹介しようとこのブログを立ち上げることにした。
少しずつでも情報の蓄積や橋渡しとなり、淡水に縁のある人たちの連絡や情報交換に役立つことがあればこれに勝る喜びはない。