淡水概史
周婉窈著「図説 台湾の歴史」によると3〜5万年から台湾に人が住んでいた。
中国大陸では随時代に台湾の存在は知られていたという。
宋時代には台湾海峡の澎湖諸島には漢人が定住し、元のころに澎湖諸島は元の版図に組み入れられていた。
しかし、台湾本島に漢人が渡ったのは清朝になってからであり、その地域も台南・高雄周辺の南部平野に限られていた。
16世紀になるとポルトガル人・スペイン人・オランダ人が貿易の拠点として出没をはじめた。
オランダは台南にゼーランジャ城、プロビンシャ城を築いてこの地域を占領し、1662年に鄭成功によって駆逐されるまで その台湾統治は39年間に及んだ。
この間1626年にスペイン人が淡水・基隆一帯を占領し、城塁を築いたが1642年にオランダ人によって追い出された。
淡水鎮公所のウェブページ(http://tamsui.gov.tw/about_tamsui/)によれば、1629年にスペイン人が現在の淡水に拠点を築いていたがオランダ艦隊がこれを攻め、オランダは追い返された。
1634年にスペイン人約200人が居たという。
1640年代にオランダが基隆や淡水を攻めてスペイン人を追い出し、1646年に、いま紅毛城として知られる砦を構築した。
1661年に漢人を父に日本人を母にもつ鄭成功が台湾を治めた。
オランダ人は投降し、基隆や台北を捨てて敗走した。
鎮公所の資料によれば1829年に滬尾(淡水の旧称)の人口は約1200人であった。
1862年にイギリスが紅毛城に領事館を置き、1867年には永久租借とした。
1871年に台南に漂着した琉球漁民54名が台湾原住民に殺害され、翌々年には岡山県の漁民4名が同様の被害を受けた。
日本政府は清国政府に善処を求めたが、清国側は「化外の地」であるとして応じなかったので1874年に台湾出兵を行った。
これより先、日本は1872年に福建省福州に領事館をおき、台湾の業務もそこで行っていた。
1883年には清仏(清法)戰争が起き、翌年フランス艦隊の陸戦隊が滬尾に上陸している。
その戰争は1885年に講和となったが、港湾防御の必要性を痛感した清は翌年ドイツから工兵大尉マックス E.ヘヒトを招聘して滬尾砲台を構築した。
1888年の淡水港の貿易額は台湾全体の74.9%であったという。
1894年に朝鮮半島をめぐって日清戦争が始まり、翌年の講和会議で台湾は日本に帰属することになった。
1895年6月17日に台北で始政式が行われ、その翌年には滬尾日語傳習所が設けられ、淡水港の糖税及樟脳検査所、滬尾街郵政電信局、滬尾警察署及各地派出所が設けられ、台北から淡水への道路も修復された。
この年の人口調査で淡水の人口は6344人と記録されている。
1897年には日本郵船が淡水・福州航路、香港・淡水航路を開設した。
1898年には日語傳習所は滬尾公学校と改称され、この年10月には滬尾伝染病隔離所が設置された。
1899年3月26日に淡水小学校が設立され、4月2日には大阪商船が淡水・香港航路を開設し、この年淡水と基隆が台北地区の樟脳輸出港にしていされている。
淡水で布教し、治療や教育を施したカナダ・キリスト教長老会初の海外宣教師であったジョージ・レスリー・マッカイ博士が1901年6月2日に亡くなった。享年58歳であった。
この年、淡水線の鉄路が竣工している。
1903年5月に滬尾公学校の校舎が落成した。同年12月1日には滬尾から小基隆(現:三芝)間の道路も開通した。
この頃基隆の貿易額が淡水を越え、1906年には淡水税関基隆分署が設けられ、1909年には淡水と厦門、福州との航路が廃止された。淡水河の堆積がすすみ大型船の入港が難しくなったのである。
1910年には淡水と長崎のあいだに海底電線が敷設され、1912年には滬尾支廳は淡水支廳に、滬尾公学校は淡水公学校に改称された。
(工事中)
(滬尾/淡水に関する歴史や関連人物は「漁人碼頭的戰爭」(http://danshuihistory.blogspot.com/)に詳しく述べられているので是非参照のこと)