癸巳淡水紀行(6)
淡水を訪問した日は福格ホテルに宿泊したが、毎夕就寝前に飲む睡眠導入剤を持ってくるのを忘れたので、明け方まで眠れなかった。
しかし、身体は休息しており、眼も閉じていたので眼が充血することもなく朝を迎えた。
そっと外を覗ってみると霧雨のようで正面にある筈の大屯山は見えない。
このホテルは岡の上の淡江大学に向かう學府路に面しており、眼下に鄧公國小がある。
登校時間になると、普段は交通信号の明滅している交差点に黄色い旗を持った交通指導員が身体を張って車をとめているし、交通信号機も数十秒毎にけたたましくなっている。
近くの学童は黄色い傘をさして歩行してくるが、1分間に数台の割合で学童を乗せてくる車がいるのには吃驚した。
校舎から推定しても学童数は千/二千ではないだろうし、車で送迎される学童も多いのであろう。
これは、同小學の正門である。
ゆっくり降りて朝食を摂ることにした。
昨夜、バス何台かで到着した観光団体は別のフロアで食べて出かけたと見えて、カフェテリアは客も少なく、静かであった。
すでに椅子にはクリスマス用のカバーが掛かっていた。
朝食を終えてロビーに出ると呉さんと孫秀さんと出会った。
ロビーには昨日、区公所で贈呈された淡水鎮志などが人数分届いていた。
持ち帰ることが出来ないので、ホテルから郵送することにした。
ロビーに行くと私の在泊している部屋に雨傘が1本届けられているという。
到着した昨日は快晴であったのに、今朝は霧雨で使用に供して貰おうと誰かが届けてくれたのであろう。
この好意には恐縮した。
日本に郵送するものは段ボールで2箱になった。
ホテルのフロントが包装用テープや重量を計る計量器などを持ってきて梱包してくれた。
フロントは日本語があまり通じなかったが、居合わせた孫秀さんのお陰で発送を依頼することが出来た。
帰国後、トレースしてみると、11月15日10時に淡水中興局が受け付け、同月22日18時に基隆郵局で川崎行きの船便で送られたらしいことが判った。
発送が一段落して呉さんと孫秀さんと食後のコーヒーを飲みながら話していると、米国から帰国している周明徳さんのところへ行こうという話になった。
周明徳さんは淡水の有名人である。
淡水國小創立百数年記念式典で5名の大先輩が表彰されている。
筆頭は台湾阿片撲滅政策功労者の杜聡明博士、
第二位は台湾の総統になった李登輝博士、
第三位が周明徳氏であった。
周明徳さんは気象技官であり、淡水の測候所やアジンコート(彭佳嶼)、新高山などで気象観測にあたっていたが、戦後長く合衆国に滞在したあと台湾に戻られている。
淡水の街の生き字引のような方である。
孫秀さんが小さな携帯電話で、今日訪ねていっていいかと聞いていたようである。
父の名も知っていて、私が傍にいるならと、替わって挨拶をしようと思ったがあまり良く聞き取れなかった。
後でゆっくり面談しようと言うことになった。
孫秀さんは、これから施さんの戸籍を五代前まで調べるから区公所に行くという。
そのあと、周さんのところに案内して貰うことになった。
孫秀さんは小柄ではあるが凄い人である。
貰った名刺には(社)日本関西吟詩文化協会高師範、国際日本語演講会創会顧問とあるが、関西吟詩文化協会からは先日、さらに高位の資格を授与されたそうだ。
三年前に帰ったときには会食のあと、杜甫の春望(國破れて山河あり)を朗々と吟じてくれた。このとき、呉さんは涙を流していた。
実は、今回淡水に行くにあたって「何処に行きたいか」と尋ねられたことがある。
しかし、何処に行きたいと言う意思表示はしなかった。
淡水の街に来たかったのである。
それで、ロビーで話をしているうちに、周明徳さんを訪問することになったのである。
ただし、孫秀さんは区公所に戸籍を調べに行くので、そのあと午後2〜3時にロビーで合流して行くことにした。