第六三四航空隊は1944(昭和19)年5月1日に開隊された。
所属は第三艦隊・第四航空戦隊である。
開戦初頭は、第一航空艦隊は「赤城」、「加賀」。第二航空艦隊は「蒼龍」、「飛龍」。第四航空戦隊は「龍驤」、「大鷹」(のち「祥鳳」に変更)。第五航空艦隊は新造の「翔鶴」、「瑞鶴」であったが、ミッドウェイ海戦で「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」を失うなどしていたので、1943(昭和18)年に伊勢型戦艦「伊勢」および「日向」5番、6番砲塔を撤去して飛行甲板を設置し、航空戦艦とし、第四航空戦隊としていた。
第六三四航空隊の編成は
航空戦艦「伊勢」: 艦上爆撃機「彗星」8機
水上爆撃機「瑞雲」14機
航空戦艦「日向」: 艦上爆撃機「彗星」14機
水上爆撃機「瑞雲」8機
であった。
新編時の首脳部は「司令兼副長:天谷孝久中佐(海兵51期)」、「飛行長兼通信長代理:江村日雄少佐(海兵57期)」、「飛行隊長:田村与志男大尉(水爆)、木塚忠治大尉(艦爆)」、「分隊長:永井宗友中尉(偵練)、石野正治中尉(偵練)」、「整備長:岩元盛高大尉(海機47期)」などであった。
1944(昭和19)年5月1日に、航空戦艦「伊勢」、「日向」で第四航空戦隊を編成し、第六三四海軍航空隊を付属させて第三艦隊に編入されたわけである。
艦上爆撃隊は岩国基地、水上爆撃隊は呉基地で錬成を始めた。
1944(昭和19)年6月23日には広島湾で最初のカタパルト射出訓練を実施したが、9月頃までには500キロ爆弾搭載の22機を30分以内に発進させる目標であった。(ちなみに日本海軍では航空母艦から艦上機を発進させるときにカタパルトは使用していなかった)
1944(昭和19)年7月10日に改装空母「隼鷹」が、同年8月10日には改装空母「竜鳳」が第四航空戦隊に編入され、第634海軍航空隊は
戦闘第一六三航空隊: 零戦48機(定数)飛行隊長福田澄夫大尉
戦闘第一六七航空隊: 零戦48機(定数)飛行隊長福田澄夫大尉
彗星24機(定数)飛行隊長木塚忠治大尉
天山24機(定数)先任分隊士渡辺 譲 大尉
瑞雲24機(定数)飛行隊長田村与志男大尉
となり、同8月から艦上爆撃隊、水上爆撃隊は岩国基地で錬成を開始したが、水上爆撃隊は夜間訓練のため鹿児島県指宿基地に移動した。
1944(昭和19)年10月には六三四航空隊の全てと六五三航空隊の主力は母艦部隊から離れ基地航空隊として第二航空艦隊(第六基地航空部隊)に編入された。
同年10月に台湾沖航空戦が始まると、六三四空は沖縄を経由して米機動部隊を攻撃、台湾・台中基地に移動した。
この際、水上爆撃隊は東港基地に進出した。
なお、1944(昭和19)年7月10日には横須賀海軍航空隊で偵察第三〇一飛行隊(水上爆撃機「瑞雲」24機(常用18機、補用6機)、零式水上三座偵察機)が編成されている。
その後、フィリピン方面および東港基地から出撃していたが、1945(昭和20)年3月中旬、淡水基地と周辺の士林に基地を設け移動。
同年3月27日に奄美大島の古仁屋基地に前進、本隊は淡水基地、補充及び錬成は福岡県玄海基地で実施。
毎日のように沖縄周辺の敵艦船を攻撃、殆ど戦果は不明なるも同月29日には戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦7を発見し戦艦に6番爆弾2発名中、4月20日には大型駆逐艦1隻轟沈、5月20日には中型輸送船1隻轟沈、5月23日に駆逐艦1隻轟沈などが確認されている。