このたび知らせて貰った資料から1936年当時の淡水街について多くの事実が判った。
1936年と言えば父、研一が台北州庁の吉森八郎氏を頼って門司から基隆に渡った前年であり、祖母、原田ユクが淡水街嘱託として公会堂の管理を行いながら料亭のおかみのようなことをしていたときである。
祖母が街営海水浴場「和樂園」の管理人をしていた、親戚の浅野タツのもとに身を寄せて13年経っており、海水浴場には「和樂園」のほかに「街営休息所」や「淡水街設泳浴場(?)」も建っており、台北から海水浴列車が運行され、割引切符やシャトルバスもあったという賑わいが想像される。
しかし、今回は両親が結婚後短期間小学校のそばの宿舎に居たのち、二階を借りて住んでいたという黒川塩店のことである。
この地図によると小公園の河岸側に「葉応元写真館」があり、河岸に抜ける小路を経て何軒か役場寄りに「洪三才」、「洪成枝」、「宏生病院」があり、「黒川義夫」、「酒類大蔵」の文字が見え、その先に「多田商店」、「某商店」の先に「市場」がある。
この市場は当時の公設市場であろう。
さらに進むと「泉成商店」、「呉錦豊呉服」、「江相美陶器店」、「淡江信用組合」、「新華興洋服店」、「蓮生薬房」、「保安薬房」、「三協成菓子店」、「淡水信用組合」、淡水街役場」が河岸側に並んでいる。
これは父のノートに描かれた想い出の淡水街のスケッチの一部であるが、「黒川」、「多田」、「街役場」の相対位置関係は上図と同じである。
この写真の手前右手に見えるのが黒川塩店である。
「塩」、「煙草」、「酒」などの楕円看板が見える。
当時、煙草、塩、アルコール、阿片、それにセルロイドの製造に必要な樟脳などは専売品で認可を受けた店でなければ取り扱えなかった。
この写真は上の街区を2010年9月末に撮影したものである。
縮尺したのでよく判らないが右に並ぶ縦看板の水色、黄色の向こうに見える赤地に白文字でで「許明祥命相館」とあるのが黒川塩店であった建物である。
隣接する建物とともに補修を加えられながらも現存している。
と言うことは、黒川塩店は小公園近くの河岸寄りから街役場や信用組合の向かい側に移転したのであろうか?
大きな謎が見つかった。
1936年以降、新店街に新しく建物が競うように建てられ、黒川さんの店舗も移転したのであろうか?