洪年栄氏宅で撮った写真を送ってくれたのは神戸に在住していた長田建致氏(旧姓 張氏)であった。
上の写真の裏には「旧淡水女子公学校、現文化国民小学」1987年5月2日」と記して送ってくれた。
その傍に父の字で「私の教え子の叔父。淡水行の時も同行してくれた。"日本名 長田建致 神戸在住"」と添え書きがある。
彼には淡水や台北の街角でセルフタイマーで撮ったらしい沢山の写真を送って貰った。
長田さんを通じて、杜さんや鄭さんの写真も送って貰った。
本欄で順次紹介しようと思う。
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(別件)
今朝方、嬉しいメールを貰った。
日本時代のことを語るときは日本名なのだそうである。
私のブログの写真を使ったことについて彼女は詫びていたが、詫びる必要など微塵もない。
淡水生まれの仲間にとって共有のものが在ることは嬉しいことだ。
いまでも台湾で「父、母、ベランダ、エプロン、トマト、幼稚園、・・・」など日本語が使われていると言うことも教えてくれた。
私も「アップイタンコエ」や「カッキンテーライ」なども解る。
ビンタン(洗面器)、キンチョウ(バナナ)、トータウ(南京豆)、それにギナ、ツァボギナなども解るが父や母が居なくなって使うことも少なくなった。
福田マキ子さんと話すときに使ってみようかな。
淡水仲間の輪が広がって行くことは嬉しい。
今年の淡水行きの日程が決まったら、このブログを見てくれている皆さんに「ご一緒しましょう」と声を掛けるつもりである。