« 三芝に移転 | メイン | 記憶している飛行艇と水上機 »

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

南洋と内地を結ぶ定期便

Mavis_3.jpg

1940(昭和15)年11月25日にパラオ島から大日本航空の川西式大型飛行艇が淡水に飛来した。
「綾波(J-BFOZ)」である。
横浜、サイパン、パラオ、淡水と6日間にわたる試験飛行であった。

大日本航空は横浜・サイパン・コロール・トラック・ポナペ・ヤルートへの南洋定期便を開設したが、さらに横浜・淡水・サイゴン・バンコクへの国際空路と淡水・パラオ間の路線も試験運行された。

大日本航空は、信託統治の南洋諸島やフィリピン、インドネシア、ベトナム、シンガポール、タイなどと定期航空網を構築するため、18艇もの川西式四発飛行艇を所有していた。
「黒潮」(J-BFOR)
「朝潮」(J-BFOS)
「曙」 (J-BFOT)
「潮」 (J-BFOX)
「漣」 (J-BFOY)
「綾波」(J-BFOZ)
「磯波」(J-BGOA)
「浦波」(J-BGOB)
「叢雲」(J-BGOC)
「白雲」(J-BGOD)
「巻雲」(J-BGOE)
「夕雲」(J-BGOF)
「東雲」(J-BGOG)
「朝凪」(J-BGOH)
「神津」(J-BACT)
(艇名、艇体符字不明:3艇)

当初、磯波、綾波のように波に関する名称が付されていたが、のちに黒潮、白雲など気象・海象に関する名称にも広げられた。
ただ「神津」は伊豆七島の島名であろうと思われるのでここに挙がっていない艇にも島名が付けられている可能性はある。

しかしながら、第二次世界大戦の暗雲がアジアにも広がる兆しもあり、定期便開設には至らなかった。

終戦直後、「緑十字艇」として横浜から淡水に飛来したのは「神津」と「巻雲」である。

戦時下においては海軍の97式輸送用飛行艇がこれらの海域をカバーした。

曽氏のレポートに掲載されている「海軍軍用定期航線圖」によると、淡水を発着する便は週に二往復であり、上りは第二、第四木曜日の早朝セレベス島のマカッサルを飛び立ち、ミンダナオ島のダバオに16時に着水、金曜日の9時にダバオを発ち、マニラに14時着水、土曜日の9時にマニラを離水し、淡水へは14時半頃着水していた。
淡水で一泊し、日曜日の朝6時に淡水河を飛び立って横浜に15時半に到着することになっていた。
下りは第一、第三木曜日の6時に横浜を離水し、淡水には15時半頃着水し、翌日の9時に淡水を発ってマニラに向かった。

この定期便で郵便物や転任者を移送させたのであろう。

淡水郵便局裏手の河面に飛行艇を繋留するブイが設置されており、ランチで上陸した乗組員や連絡将校などが公会堂に宿泊していた。

写真は、のちに「緑十字艇」の二番艇として淡水に飛来する「巻雲」である。

About

2013年04月03日 11:03に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「三芝に移転」です。

次の投稿は「記憶している飛行艇と水上機」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。