父は1943(昭和18)年の春、小基隆の三芝国民学校に転勤になった。
その年の秋に三芝の教頭になったが、父としては淡水国民学校で慣れてきたのに田舎に移されるのが嫌であったようである。
三芝国民小學創校百周年記念誌によると、転勤になったときの校長は中島一夫先生で、ほかに山城安次郎、高鍬秀雄、石川清一などの先生方がいた。
まわりは田圃で、国民学校とその傍の宿舎のある辺りの地表が僅かに小高くなっていたような気がする。
龍目井で一緒に住んでいたマキ子さんは、淡水郡役所に勤めていた原田ユクさんの弟である山本 保さんの家から台北二高女に列車通学していた。
山本 保さんは淡水国民学校の裏手(水源街のあたり?)に住んでいた。
街外れという感じのところであった。
週末になると三芝に来ていたそうである。
宿舎のまわりは広い野菜畑で、茄子や胡瓜などを作っていたが、落花生も作っていたらしい。
マキ子さんは畑に植えてある落花生を初めて見たと言っていた。
少し離れたところに菓子を作る工場があって、ときおりパンを焼く匂いや、ミッセンを煮る甘い香りがしていた。
まわりは田圃で、田植えが終わった頃の夕方は、沢山のホタルが飛び交い、畔道が判るように明るかった。
いまは街も賑やかになり、国民小學も大きくなって、当時の様子を窺うことは出来ない。
三芝は台湾で初めての医学博士杜聡明や総統となった李登輝の出身地として有名になったが当時は田舎であった。