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2013年04月 アーカイブ

2013年04月01日

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シオマネキ

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大東亜戦争が始まっていないときか、始まったとしてもまだのんびりした頃、数家族連れだって中洲に行ったことがある。

船尾に船頭が前を向いて立ち、両舷に交差した櫂を漕ぐで渡して貰った。

子供達は貝を掘ったり、水溜まりに残った小魚を追ったりして遊んでいたが、大人達は小蟹(シオマネキ)を捕っていた。

九州の有明海は潮が引くと遙か沖まで干潟になり、ムツゴロウのような魚が泥の上を歩き回り、蟹や蝦蛄が孔から出てくる。

佐賀県の有明海寄りでは蟹を採ってすり鉢で潰し、塩や唐辛子を入れて蟹漬けを作る。
これを九州モンは がに漬けとかがん漬けと呼んでいる。

淡水にも九州から移住してきた人が多かったから休みの日に中洲に渡ったのであろう。

2013年04月02日

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三芝に移転

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父は1943(昭和18)年の春、小基隆の三芝国民学校に転勤になった。
その年の秋に三芝の教頭になったが、父としては淡水国民学校で慣れてきたのに田舎に移されるのが嫌であったようである。

三芝国民小學創校百周年記念誌によると、転勤になったときの校長は中島一夫先生で、ほかに山城安次郎、高鍬秀雄、石川清一などの先生方がいた。

まわりは田圃で、国民学校とその傍の宿舎のある辺りの地表が僅かに小高くなっていたような気がする。

龍目井で一緒に住んでいたマキ子さんは、淡水郡役所に勤めていた原田ユクさんの弟である山本 保さんの家から台北二高女に列車通学していた。

山本 保さんは淡水国民学校の裏手(水源街のあたり?)に住んでいた。
街外れという感じのところであった。

週末になると三芝に来ていたそうである。

宿舎のまわりは広い野菜畑で、茄子や胡瓜などを作っていたが、落花生も作っていたらしい。
マキ子さんは畑に植えてある落花生を初めて見たと言っていた。

少し離れたところに菓子を作る工場があって、ときおりパンを焼く匂いや、ミッセンを煮る甘い香りがしていた。

まわりは田圃で、田植えが終わった頃の夕方は、沢山のホタルが飛び交い、畔道が判るように明るかった。

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いまは街も賑やかになり、国民小學も大きくなって、当時の様子を窺うことは出来ない。

三芝は台湾で初めての医学博士杜聡明や総統となった李登輝の出身地として有名になったが当時は田舎であった。

2013年04月03日

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南洋と内地を結ぶ定期便

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1940(昭和15)年11月25日にパラオ島から大日本航空の川西式大型飛行艇が淡水に飛来した。
「綾波(J-BFOZ)」である。
横浜、サイパン、パラオ、淡水と6日間にわたる試験飛行であった。

大日本航空は横浜・サイパン・コロール・トラック・ポナペ・ヤルートへの南洋定期便を開設したが、さらに横浜・淡水・サイゴン・バンコクへの国際空路と淡水・パラオ間の路線も試験運行された。

大日本航空は、信託統治の南洋諸島やフィリピン、インドネシア、ベトナム、シンガポール、タイなどと定期航空網を構築するため、18艇もの川西式四発飛行艇を所有していた。
「黒潮」(J-BFOR)
「朝潮」(J-BFOS)
「曙」 (J-BFOT)
「潮」 (J-BFOX)
「漣」 (J-BFOY)
「綾波」(J-BFOZ)
「磯波」(J-BGOA)
「浦波」(J-BGOB)
「叢雲」(J-BGOC)
「白雲」(J-BGOD)
「巻雲」(J-BGOE)
「夕雲」(J-BGOF)
「東雲」(J-BGOG)
「朝凪」(J-BGOH)
「神津」(J-BACT)
(艇名、艇体符字不明:3艇)

当初、磯波、綾波のように波に関する名称が付されていたが、のちに黒潮、白雲など気象・海象に関する名称にも広げられた。
ただ「神津」は伊豆七島の島名であろうと思われるのでここに挙がっていない艇にも島名が付けられている可能性はある。

しかしながら、第二次世界大戦の暗雲がアジアにも広がる兆しもあり、定期便開設には至らなかった。

終戦直後、「緑十字艇」として横浜から淡水に飛来したのは「神津」と「巻雲」である。

戦時下においては海軍の97式輸送用飛行艇がこれらの海域をカバーした。

曽氏のレポートに掲載されている「海軍軍用定期航線圖」によると、淡水を発着する便は週に二往復であり、上りは第二、第四木曜日の早朝セレベス島のマカッサルを飛び立ち、ミンダナオ島のダバオに16時に着水、金曜日の9時にダバオを発ち、マニラに14時着水、土曜日の9時にマニラを離水し、淡水へは14時半頃着水していた。
淡水で一泊し、日曜日の朝6時に淡水河を飛び立って横浜に15時半に到着することになっていた。
下りは第一、第三木曜日の6時に横浜を離水し、淡水には15時半頃着水し、翌日の9時に淡水を発ってマニラに向かった。

この定期便で郵便物や転任者を移送させたのであろう。

淡水郵便局裏手の河面に飛行艇を繋留するブイが設置されており、ランチで上陸した乗組員や連絡将校などが公会堂に宿泊していた。

写真は、のちに「緑十字艇」の二番艇として淡水に飛来する「巻雲」である。

2013年04月04日

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記憶している飛行艇と水上機

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1936年に台北に松山飛行場が建設され、淡水には1941年に水上機用の航空設備が設けられたと「滬道日安」には記してある。
淡水古蹟博物館開設4周年を記念して編集された日本特別展示会用に編集された資料である。
同誌によれば水上機場は民間の航空会社が使用しており、単葉双発の水上機が横浜から飛来して、淡水で給油したあとサイゴン、バンコクに向かったこともあるという。

しかし、大日本航空の川西飛行艇「綾波」がパラオから淡水に飛来したのは1940年11月であったから、その当時には燃料補給や整備が出来るようになっていた筈である。
私は当時、生後9ヶ月であったので知るよしもない。

憶えているのは零式水上観測機が毎日のように発着していたことと、海軍が横浜からマニラや南洋諸島に定期運航していた97式大型飛行艇である。
この定期便は2週間に一往復していたようである。

零式水上観測機は、艦隊同士の遠距離砲撃戦で上空から弾着を観測し、無線で報告するために開発された複葉単浮舟機で、乗務員は操縦要員と偵察要員の二名が風防のみの暴露座席に乗っている。
前線での任務に備えて、偵察要員用の旋回式7.7ミリ機銃のほかに、機首に固定式7.7ミリ機銃二丁が装備されていた。
複葉で旋回性能がよいので、零観だけで敵機を数機撃墜したものも居た。
しかし、開戦後しばらくは気象観測と定期的な哨戒が任務であったのだろう。

飛行艇は、郵便局の近くのブイに繋留し、郵嚢や便乗者をランチで上陸させていたので河岸から見ていたこともある。

零観のほうは淡水駅から紅樹林に寄った鼻頭村にあった黄東茂氏の豪邸を移転されたあとに作られた水上機基地に戻るのであまり近くで見たことはなかった。

しかし、一度だけ郵便局の裏で間近にみたことがある。
着水に失敗して転覆した零観を裸になった水兵が潜ってロープを掛けて引き上げている処であった。

戦況が切迫してくると、急降下爆撃の出来る水上偵察機「瑞雲」の部隊が淡水に来たと戦後になって知った。

常用18機、捕用6機を擁し、司令以下、飛行長、搭乗員、地上員など250名もの部隊で淡水基地だけでなく士林にも基地が設けられたという。

「瑞雲」は機種の区別は水上偵察機であったが、水上爆撃機とも呼ばれて、南西諸島などに来る敵艦に60キロ爆弾を命中させるなど奮戦している。


2013年04月05日

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水上機の写真

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昨日のこのブログで淡水古蹟博物館が発行した「滬道日安」の写真に言及したところ、曽さんから「あの写真と記事が間違っている」と連絡を貰った。

同誌には「1941年の淡水水上機場」と載っているのであるが、1941年と言えば零式艦上戦闘機が既に前線に配備されていた時期であり、複葉双浮舟の三座偵察機はいかにも古い。
あの写真は1929年の基隆の海水浴場に繋留された佐世保海軍航空隊の十四式水上偵察機(サ53、サ55)であると知らせてくれた。
この写真で胴体後部と垂直尾翼に「サ53、サ55」の文字が読める。

十四式水偵と言えば、横須賀海軍工廠で開発され、1926(大正15)年に制式採用された水上偵察機で機体略番はE1Yであった。

第一線を退いてからは練習機として使用されたほか、払い下げられて民間機にも使われていたらしい。

ブログを書いていて、たまに連絡を貰うと嬉しいものである。

2013年04月06日

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台湾史小事典

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台湾大学歴史学部の呉密察教授の監修になる「台湾小事典」を見ていた。

「監修者の言葉」には
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『台湾史小事典』は社会の、とりわけ教育現場の求めに応えるために計画し作られた「台湾史」の一つの土台である。(中略)年表と事項は、すべて台湾の歴史を全面的に考慮した後選んだもので、千数百年の台湾史の重要な内容を含んでいる(中略)事項の内容は出来る限り先入観を排除し、近年の研究成果を充分に吸収した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とある。

863項目にわたる「台湾史年表」と、610事項の[台湾史辞典」が挙げられている。

熊本学園大学外国語学部アジア学科の横澤泰夫教授の編訳による2007年初版、2010年9月増補改訂版である。

1995年以降の記述は原著にはなく訳者が加筆、補充したものであると註記されている。


2013年04月07日

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1981年当時の淡水駅

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ウェブで偶然、1981年当時の淡水駅前のカラー写真を見つけた。
この写真では未だ道路は舗装されていないようだ。

私が、引き揚げたあと初めて淡水を訪れたときにMRT駅舎の建設がほぼ終わった頃であった。

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この写真の中央奥が建設中の駅舎である。

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これは、父の教え子が送って呉れた写真であるが撮影時期は判らない。

2013年04月08日

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「前島先生の門下生宅にて」

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古い写真が出てきた。

裏を見ると

「前島先生の門下生宅にて」とボールペンで書いてある。

もちろん、前列中央が「前島先生」で、右は「高田一サン」、そして左に「私」とある。
後列右は「前島先生門下生」、左は「前鎮長(街長)」と記されている。

「私」が誰なのか。なぜこの写真がここにあるのか判らない。

父の教え子の一人が送ってくれたものに違いない。
この写真を送ってくれた「私」とは誰であろう?
私の推察では淡水公学校高等科の時、生徒であった呂添得氏であろうと思う。

父は戦後二度淡水に帰った。
1985(昭和60)年に書道教室の竹沢先生の一行と故宮博物院見学に行ったときと、1991(平成3)年に淡水会が現地で行われたときである。

最初の帰台のとき、入れ違いに呂氏が大阪に住んでいた息子の処に来て、父が帰広して程なく大阪の帰途広島に会いに来てくれた。
ステーションホテルで、父の予約したシングルの部屋に奥さんを入れて、ツインで夜半1時過ぎまで話したという。
「先生、眠たくないですか」と言いながらあれこれ、とめどなく話したそうだ。

呂氏はよく写真を送って呉れていた。

この写真には「86.10.18」と日付けが写っているから逢いに来てくれて間もなくのことである。

この写真に写っている人を知っていたら教えて欲しいものである。

2013年04月09日

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深い縁で結ばれている

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昨日の本欄に旧い写真を載せたら、クリスチーナから直ぐ「私の父の洪年栄です。」とメールがあった。
呂添得氏が、前島先生と洪年栄氏と父を繋いでくれていたのである。

1991年9月に第24回の淡水会で淡水に行ったときには25名くらいの中で最年長ということで団長にされてしまったと言っていた。
一泊目は現地の人たちの歓迎会があり、80人もの人が参加してくれ、大宴会のあと全員で起立して淡水公学校の校歌を大合唱になったという。
当時、淡水国民小學の校長であった陳淑女先生が盛装で参加され、テーブルを回るときにも付いて回ってくれたという。
台湾では乾杯と言うと本当に飲み干すのであるが、飲まされ過ぎないようにという配慮である。
このときの写真は妹の家にある。

そして2010年の秋、私たちが淡水を訪問したときに、陳先生は多忙な中から昼の部にも夜の部にも出てくれて乾杯することが出来た。
博士にも現地で合流したKGさんにも大変お世話になった。

ボストンの博士とも、カリフォルニアのLCさんとも、横浜のKGさんとも、淡水のクリスチーナとも何か絆で結ばれているのを感じる。


2013年04月10日

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淡水河の離着水コース

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曽氏のレポートに掲載されていた淡水河の離着水コースを示す図である。

台北寄り(竹囲側)と河口寄り(海水浴場「和樂園」側)にそれぞれ3000メートルのコースが描かれている。

中洲を避けて直線コースを設定できる水面に設定されたもののようであるが、私の記憶では川西の飛行艇も零式水観も淡水街と中洲の間を使用していた。

河岸寄りにプロットされた赤点は飛行艇を繋留するために設置されたブイ(浮標)で、曽氏が付け加えたものである。
郵便局や当時の郡役所の近くに設置されていた。

出典は「1936年佐世保海軍航空隊『淡水測絵図』」である。


2013年04月11日

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河岸レストラン「榕園」

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紅毛城の坂を下って横断歩道を渡った河岸を少し油車口の方へ行ったところの河岸にレストランがあった。

淡水を訪れたとき、二度ほど行ったことがある。

日本では寒い大晦日でも、この屋外のテーブルで夜風に吹かれながらゆっくり夕食を済ませて宿に帰ったこともある。

当時は結構繁盛していたようであるが、いまはもう営業していないらしい。

2013年04月12日

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嘗て淡水にも水牛がいた

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台湾には水牛がいた。
もちろん淡水近くの農耕地にもいた。

役畜として飼われていたが、農耕の機械化に伴って戦後ほどなく見なくなった。

母が小学校に通学している道で水牛に出遭って怖かったと言っていた。

いまは何処に行けば見ることが出来るのだろう?

2013年04月13日

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MRT操業前の淡水車站

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この写真は1995年3月に、引き揚げて初めて淡水を訪れたときに撮った写真である。

戦前の淡水線とほぼ同じ経路にMRTの施設が構築されていた最終段階で、まだ操業前であった。

手前の青塗りの建物には「台湾客運淡水站」という文字が見える。

2013年04月14日

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淡水公学校講堂の天然色写真

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「淡水國小九十周年記念誌」に講堂のでカラー写真が載っているのを見つけた。
煉瓦色が鮮やかである。

資料を見返していると、ときおり新たな発見をすることがある。

2013年04月15日

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那覇港で撮ったデイゴ

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すこし暖かくなった。
暖かくなると亜熱帯植物のデイゴを思い出す。

デイゴと言っても、広島の平和公園にあるのはアメリカデイゴ(海紅豆)で緑の葉を付けた枝先に花が咲く。花の形も異なる。

沖縄や小笠原のデイゴは台湾に咲くものと同じで、冬で葉を落とした枝の先に真紅の花が付く。
日本では沖縄が北限とされている。

この写真も1995年3月に寄港した那覇で撮ったものである。


2013年04月16日

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淡水鎮公所の紙袋

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2010年9月に当時の鎮公所(現:区公所)を表敬訪問したときに、沢山の資料とともにを貰った袋である。

鎮長が出張で不在であったので助役氏が対応してくれた。

なかなか良いデザインなので手許に置いている。

襠の部分に描かれたイラストが秀逸なので明日にでもお目にかけようと思っている。

お楽しみに・・


2013年04月17日

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淡水区公所(紙袋の襠)

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昨日の本欄で予告しておいた襠に印刷されているイメージキャラクターである。

何の虫であろうか?

そういえば淡水國小の校庭にも大きなイモムシが居たのを思い出した。

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先ほど、クリスチーナから蔡葉偉区長が昨日復職したと連絡を貰った。

経緯が判らなかったので気になっていたが、良かった。

2013年04月18日

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淡水仲間が訪ねて来て呉れた!

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大和の吉野から、江田島、呉線沿線を巡っていたKGさんが広島に立ち寄ってくれた。

広島駅ビルの銀座ライオンでビールを飲みながら色々な話を聞き、よく喋った。

吉野へは高校のクラスメートと行ったそうである。
KGさんとは3、4年前に知り合ったのであるが、高校時代からの旧友のように淡水のこと、長崎のことなどを話しているうちに時間が経ってしまった。

写真は広島駅で甘栗屋さんに撮って貰ったものである。

2013年04月19日

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茶さん(茶 壱福)

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2002年から台湾観光キャンペーンに起用されていた茶さんの本名は 茶 壱福。
九生まれの観光局員で、通称はチャーリーという。

ママ茶(茉莉花)との間にベビー茶(若葉)が居り、おじい茶(茶 陳年)、おばあ茶も居る。

2004年頃まではコマーシャルにも出ており、2009年に開催された「東京マラソン2009」ではキャンペーンキャラクターとして有明会場に来ていたが、その後何処でどうしているのやら・・・

最近、各地に出没しているゆるキャラなどとは格が違う。

何処かで再会したいものである。

2013年04月20日

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粟原和子さん

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ウェブを眺めていたら、粟原和子さんという名を見つけて驚いた。

「私の故郷」として淡水街の写真を幾つか掲載していた。

上掲の写真は台湾銀行淡水支店長の住んでいた日本家屋である。

粟原和子さんがクリスチーナの別名であることを最近まで知らなかった。

今度、淡水に帰ったときに是非とも会いたいものである。


2013年04月21日

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長田建致氏

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洪年栄氏宅で撮った写真を送ってくれたのは神戸に在住していた長田建致氏(旧姓 張氏)であった。

上の写真の裏には「旧淡水女子公学校、現文化国民小学」1987年5月2日」と記して送ってくれた。

その傍に父の字で「私の教え子の叔父。淡水行の時も同行してくれた。"日本名 長田建致 神戸在住"」と添え書きがある。

彼には淡水や台北の街角でセルフタイマーで撮ったらしい沢山の写真を送って貰った。

長田さんを通じて、杜さんや鄭さんの写真も送って貰った。
本欄で順次紹介しようと思う。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(別件)

今朝方、嬉しいメールを貰った。
日本時代のことを語るときは日本名なのだそうである。

私のブログの写真を使ったことについて彼女は詫びていたが、詫びる必要など微塵もない。
淡水生まれの仲間にとって共有のものが在ることは嬉しいことだ。

いまでも台湾で「父、母、ベランダ、エプロン、トマト、幼稚園、・・・」など日本語が使われていると言うことも教えてくれた。
私も「アップイタンコエ」や「カッキンテーライ」なども解る。
ビンタン(洗面器)、キンチョウ(バナナ)、トータウ(南京豆)、それにギナ、ツァボギナなども解るが父や母が居なくなって使うことも少なくなった。
福田マキ子さんと話すときに使ってみようかな。

淡水仲間の輪が広がって行くことは嬉しい。

今年の淡水行きの日程が決まったら、このブログを見てくれている皆さんに「ご一緒しましょう」と声を掛けるつもりである。


2013年04月22日

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鄭景徳氏一家

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これも父の教え子の家族写真である。

裏に
「1985年2月(撮影)
右より
次女夫婦とその長子
次男夫婦
(その右、後列)
長女夫婦とその長女
長男夫妻
(前列)
ご本人と夫人
(その前)
長男の長子
次男の長子」とある。

そして
「広川先生留念
 鄭景徳 1986.Oct.」
とボールペンで記してある。

長男夫妻、長女夫妻、次男夫妻、次女夫妻とそれぞれの孫に囲まれて幸せそうな写真である。

もう年月が経っており、いきさつは分からないが、おそらく長田氏が写真を送ると聞いて託けたものであろう。

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こちらの写真は長田氏の字で
「○薬剤師 杜宗槐氏
 ○ 私
三狭祖師廟にて
元海山郡」
と記してある。

2013年04月23日

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父は投網を楽しみにしていた

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父は投網が好きであった。

週末になると板の間に座って前回漁に行ったときに破れた網を繕っていた。

淡水河のどの辺りに行っていたのだろう?

ハゼのような小魚やエビを持って帰ることもあった。

晩年は瀬戸内海で船釣りに連れて行って貰っていた。

2013年04月24日

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小白宮の古い写真

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三協成ではその菓子屋を紹介する資料に、幾つかの淡水の古蹟についての記事が載っている。

そのなかに旧清朝の税関総税務司官邸であった小白宮の解説もある。

上の古い写真には、塀の手前にブルドーザーのような土木機械とオートバイが写っている。

この施設は台湾全体の関税業務を仕切っていたが、外航貿易の大部分が基隆に移り、淡水税関は基隆税関の支所となり、この建物は迎賓館のようになっていた。

戦後は淡江中學の学生寮などにも使われていたが、間もなく放置され荒れ果てていたという。

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この石柱には「総税務司公署界石」という文字が見える。

2013年04月25日

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ライチ

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台湾ではバナナなど通年販売している果物もあるが、やはり果物の季節はこれからである。
東京の輸入業者からライチやマンゴーの予約案内が郵送されてきた。
黒葉ライチは6月15日までに申し込むと6月末までに届けられるという。

私は、どちらかと言うとリュウガンの方が懐かしい。
ライチは6月になると店頭に並ぶが、リュウガンはもう少し後である。
2004年の8月に淡水に帰ったが、そのときMRT園山駅の側で鈴生りに実を付けていたリュウガンの樹があった。


2013年04月26日

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台湾航路の貨客船

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内地と台湾を連絡する台湾航路は神戸から瀬戸内海を通って門司に入港し、そこで乗客や貨物を積み込んで基隆へ向かった。

就航した船舶は三菱長崎が建造した商船で、初めて千総トンを越えた「須磨丸」(1563総トン)、英国に発注した「安平丸」「淡水丸」「基隆丸」(1698総トン)、「臺北丸」「臺中丸」「臺南丸」(3300総トン)、「宮島丸」(1952総トン)、「須磨丸」(不詳)、「明石丸」(1571総トン)、「臺北丸(Ⅱ)」(2794総トン)、「臺東丸」(1944総トン)、「宮古丸」(1013総トン)、「桃園丸」(3460総トン)、「蓬莱丸」(9192総トン)、「扶桑丸」(8188総トン)、「高雄丸」(4282総トン)、「恒春丸」(4271総トン)、「瑞穂丸」(8511総トン)、「高千穂丸」(8154総トン)、「高砂丸」(9315総トン)など大阪商船の船が多かったが、「吉野丸」(8998総トン)「大和丸」(9655総トン)、「朝日丸」(8998総トン)、「富士丸」(9138総トン)など近海郵船の船や、「さくら丸」(3205総トン)「うめが香丸」(3273総トン)など帝国海事協会の船や、「中華丸」(2191総トン)、「華南丸」(2192総トン)、「大華丸」(2197総トン)など山下汽船の船もいた。

なかでも「高千穂丸」とその拡大改良型である「高砂丸」は和辻春樹博士が設計し、三菱長崎で建造された名船であり、近海郵船の「富士丸」とともに台湾航路の花形であった。


2013年04月27日

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水上生活小屋と穀物倉庫

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MRT淡水駅前公園から自転車道が紅樹林の方へ行く辺りに水上生活者の杭上家屋と煉瓦建ての倉庫がある。

マングローブの保護区画の側であるが、その向こうの鼻頭地区に水上飛行機の傾斜が残っていた。

この地区も再開発の対象になっているようで、埋め立てて河岸緑地にするのであろうか、あるいは高層建築が建つのであろうか?

2013年04月28日

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1941年の航空定期便

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時刻表世界史(曽我誉旨生著:社会評論社2008年刊)に1941年(昭和16)年の大日本航空発着時間表が載っている。

airlines_1a.jpg

この図は上図の台湾の部分を少し拡大したものである。

台北と表記されているのは松山空港のことであろう。

内地との連絡は福岡空港との間に隔週1往復(土曜日発、火曜日着)のほか那覇空港から毎週1往復であったが、台中・台南経由馬公に毎週3往復、花蓮港経由台東に毎週3往復運航されていたようである。

当時の渡洋航行は船便が主流であり、航空機を利用するのは特命による役人の出張などに限られていたのであろう。

1940(昭和15)年には横浜と、同図で右に見えるサイパン・パラオと淡水に定期空路開拓のための試験飛行が行われたが、定期便が運航されることはなかった。
但し、海軍の97式飛行艇が横浜とマニラとの間に週1往復運航されていた。


2013年04月29日

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戦前は天長節と言った

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4月29日は昭和天皇の誕生日で、国民の祝日「昭和の日」である。

戦前も祝日であったが「天長節」と呼んでいた。

皇后の誕生日は「地久節」と言って高女など女子を対象とした学校は休みであった。

1924年に淡水公学校から分離独立して、現在文化国民小學のあるところに女子公学校が設立されたが、女子公学校も「地久節」は休みであったのだろうか?

2013年04月30日

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世界は狭い!

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先日、このブログに鄭景徳氏一家の写真を載せたら、ボストンの博士から「私の従兄弟である」と電子メールを貰って驚いた。

アルバムに貼ってあったものではない、この写真は父の文箱から偶然に見つけたものであった。

写真の裏に、父宛に書かれた被写人物の紹介と共にボールペンで署名があったからそのまま掲載したのであるが、2010年9月末に訪台したとき、台北の宿舎まで車で迎えに来てくれ、当時の淡水街公所、淡水國小、それに三芝の國小まで連れて行って呉れて、暗くなって宿舎まで叔父ご夫妻と一緒に連れ帰ってくれた博士の従兄弟であったことは電子メールを貰って初めて知ったのである。

父も母も祖母も、引き揚げて来てから当時の淡水のことを、いろいろ聞かせてくれたが、長田氏など教え子の方が後日送ってくれた写真には何も聞いていなかったものもある。

それにしても博士の言う通り「世界は狭い」と思うし、インターネットの有り難さも感じている。


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