母は、6歳のときに祖母に連れられて渡台した。
そしてすぐ、淡水小学校に入った。
当時、小学校は日本人の子女だけでなく本島人の子供も通学していた。
ただ、日本語は既習として授業が行われるので日本語の会話が出来ることが前提であった。
屡々、当時のことを教えてくれるカリフォルニアのLCさんのお姉さんも淡水小学校に通っていた。
年次は同じではないと思うが、女子児童の記念写真(本欄:2011年4月22日、同5月11日)に母と一緒に写っている。
1929(昭和4)年の春、母は台北第一高等女学校に入学した。
見出しは台北一高女の運動会の写真で、裏に「簡氏、高田先生、八木先生、昭和六年」と鉛筆書きのメモがある。
帽子を着用しているのは生徒であろう。
しかし翌年、徳山高女に転校した。
山口県には母の親戚が多かったから、一年間預けられたのであろう。
後に山口県笠野の親戚からマキ子さんが淡水に来て、台北第二高等女学校に入り、母と同様、淡水から列車通学していた。
この写真は、徳山高女の修学旅行で二見浦で撮ったものである。
裏には右から「下村清子、岩本安佐枝、(母)、山崎郁子」とメモがある。
卒業後は淡水に戻って、祖母が街の嘱託となって住み込んでいた公会堂に帰った。