(承前)
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台北の総督府に集結した前後から時子が、発熱で寝込んでしまひ、台北駅までの引揚行列の時は荷物と一緒に荷車に乗せて哀れであった。台北駅前広場で汽車を待つ間、台湾の思ひ出に、まんじゅうとアイスクリームを小供達にも食べさせた。
基隆の岸壁で二、三日仮泊し、中国憲兵の携行品の検査があって、小さな海防艦の船艙に押し込められた。三月の末で海は荒れて、坐っても頭を打つようなせまい船室で、がぶられ、一同死人のよう態であったが、子供達は割と元気であった。
三月二十七日、鹿児島港に入り、天宝山小学校に収容され、味噌汁をご馳走になった。気温は低く、物価は高かった。博多駅に夜明に着いたら、構内に乞食がごろごろして居て、やれやれと思った。全国に散って行く永い友達と泣いて別れた。
浜崎の郷里に落着き、永らく一緒に居たマキ子は笠野へ帰った。紀夫が一年生入学で、町並みの裏手の田圃の中にある浜崎小学校に入った。この学校は新築当時、私が二十三か四の頃勤めた学校で、しかも紀夫の担任が、その当時の教え子の宮崎操である。全く妙な廻り合わせだ。学校の川土手には桜並木があり、小川の面に散り流れて奇麗であった。白いテント地で、中に木箱を入れた手製のランドセルを背負って、この土手の道を通ったものである。この頃、ランドセルごと学校において帰ったり、何か儀式のある日、時間がはっきりせず、出かけたら、間もなく帰って来る友達と出会って帰ってきたりした。成績は上の部で、言葉がきれいだとほめられた。
隣の古賀さんに義友君という体の悪い子が居たし、先隣り(反対側)の広川フミの家にも子供が居て、何か子供の事で母親同士が、いがみ合ったりした。
向ひ側に、亡くなった堤次郎という小父さんが、錻力屋をやって居たが、食物の乏しい頃に、時折団子などを子供に呉れた。柔和な口数の少ない人であった。私の母が、すぐ前の家ではあり、弟のように親しくしていた人だ。
猫の額程の僅かな空地にも、川岸にも、道路のへりにまで競って芋を植え、南瓜を育てた。すべて衣食住物資の乏しい時に方々から引揚者が身寄りをたよって帰って来るので、引揚者は寄生虫的な存在で白眼視されたものである。
常食も粥はいい方で、得体の知れぬ茶色の粉で平たい団子のようなものをこさえ、これを焼いたり、汁にしたりして食べた。子供達も気兼して、そっと茶碗を置いたりした。海で地曳網が曳ける時、行っては形ばかりの手伝いをしては雑魚を少し許りもらって帰って食べたが、小いわし、かなぎ、何でもおいしかった。
我が子の初めての運動会が来た。勢こんで応援したが、さっぱりであった。私が運動好きであったので意外だったのか、宮崎操が申訳のなさそうな顔をした。
私は横田の阿部さんの世話で一時、吉村義太郎商店の山師となって材伐監督に山の中に行ったが百姓屋の麦飯をたらふく食べられ食事が何より楽しみであった。間もなくそこで文具、玩具などの卸を始め、唐津のおくんちの時、請けて露天を出しに行った。売れ行きはまづまづで夜更けに松原を荷車曳いてばあちゃんと帰って吉村で慰労酒を振舞われた。時子が流産をして唐津に入院したのもこの頃である。
五人連れで、いつまでも浜崎の兄の処に厄介になっていても、時々女同士で気まづい事もあったりして具合が悪いので、当時、広島市水道に勤めていたばあちゃんの弟の山本忠治氏から招きがあり、ばあちゃんも山口筋では親戚も多く、その方を望んでゐる様子なので、留めるのを振り切って、山本氏の岩国に移った。昭和二十一年の暮で雪が降っていた。ここで紀夫の小学校遍歴が始まったわけである。紀夫は岩国東小学校に転校した。
(続く)
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写真は毎日新聞社が昭和五十三年九月五日に発行した「別冊 一億人の昭和史:日本植民地史[3]台湾」の87ページの写真に父が書き込んだものである。
「昭和21.3.22 淡水を出てここに集結、基隆出航便を待つ」として矢印を一階まで引いている。
マキ子さんを含めて、各自で持てるものだけ持って台北駅から基隆に向かった。
母が熱を出して寝込んでしまっていたので、何処から借りたのか荷車に荷物と一緒に父が曳いて行った。
台北からの列車は有蓋貨車に乗せられるだけ乗せられて行った。無論、満員電車のように建ちっぱなしである。
基隆の岸壁で二,三日仮泊した記憶はない。
ただ、海の上に仮設された便所から揺れる海面が見えて気持ち悪かったことは憶えている。
海防艦三十四号の艦尾に、爆雷庫か弾薬庫を改装したような狭い区画に入れられた。
艦が動き出したら、父が開閉蓋のついたハッチに上げてくれ「紀夫、あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言った。
途中で乗組員が握り飯か何か持ってきたが、ひどい船酔いで誰も手を出す者はいなかった。
皆、酔って吐くので、父は何度も暴露後半に持って上がった。
その辺りに撒くと波が洗い流していたようだった。
鹿児島に上陸して小学校の教室のようなところに収容されたが、鹿児島市を調べて見ると天宝山小学校と言う校名は見当たらない。甲突川に近く天保山中学校というのがあるがここかも知れない。
マキ子さんとは博多駅で別れて、彼女は山口県熊毛郡の実家に帰っていった。
博多の駅には乞食が沢山居たのを見た。
子供の乞食は食い物を貰ってはボスの処に持って行っていた。
三月末に引き揚げて、4月に小学校に入学したので、その辺りから憶えていることも多くなっている。
隣の義友君というのは憶えているし、浜で地曳き網を曳くときに行ったこともある。
線路敷きに生えている鉄道草というのを摘んだこともあるし、海水を汲みに行ったことも憶えている。
そのとき母は「砂糖はないだろうと思ったけれど、塩もないなんて・・」と言って居た。
本家の向かいの堤さんのことは憶えている。
家で採っていた新聞を届けたりしていた。
堤さんの家の裏に、愛知県犬山市の明治村にあるような枡席の芝居小屋があって、旅芸人の一座が来たりしていた。
母は洋裁も和裁も出来たが、田舎のことで頼みに来る人も居なかった。
山笠で有名な唐津くんち(宮日)に父が露天を出したときは付いていった。
隣の露天で山椒魚の粉と称するものを売っていたが、盥に入れていた山椒魚が逃げ出して溝を追っかけたり大変であった。
岩国に引っ越した頃、両親はどうやって子供達を養うか大変だったに違いない。
転校しても教科書もない。
父は友達から教科書を借りておいでと言って、疲れて帰ったあと大学ノートに書き写してくれた。
國語も、算数も、理科も、社会科も・・・・・