« 来し方(4) | メイン | 来し方(6) »

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

来し方(5)

myfamily_1.jpg

(承前)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この龍目井の家で二人目の恭子が生まれた。昭和十七年の十二月八日、開戦記念日である。四才位の時、私が田舎の小基隆と言う処の三芝国民学校に転勤になり、そこの教員宿舎に引越した。田舎で、内地人も数える程しかなく、宿舎は学校の校庭の傍にあり隣に高鍬と言う教員、それから中島校長、道路の向側に鄭石と言う本島人の教員が居た。小遣の陳水路が毎日近くの井戸から水を汲んで呉れた。家の前と横は、広い野菜畑で、ここで茄子、きうり、いんげん豆、玉ねぎ、落花生まで作った。
昼食時には、教室へ辨当を持って来た。辨当箱でなく、丼を風呂敷で包んだのを、今にも解けそうな恰好ででもって来る。時には級長が運んだ。
ある時、授業中、生徒がざわつくので、気がついてみたら、欠席児童の空いた席に、紀夫がちゃんと坐っているのである。廊下側の窓下の空気抜きから這って入って来たものらしい。
戦争がぼつぼつ悪くなった頃で、すべて物資が乏しかった。撃滅米英、頑張りましょう勝つまではの頃で、子供の服も手製、それも再生の改造したものが殆どである。寒い朝であった。私が指揮台の上で全校生徒に話をしていると、生徒の視線がおかしいので、気が付いてみると、指揮台の私の傍に上がって来て、私の方を見上げては、いと満足げであった。それが何と大人の着物を作り直した黒っぽい縦縞のどてらみたいなものを着てゐたのである。菓子類も殆どなく、近所にある小さな焼菓子工場に、粉を持って焼いてもらったりして居た。
昭和十九年、私は教頭になり、学級を持たなくなったが、青年学校の軍事教練などで忙しかった。学級数十六で、内地人教員は校長、私、葛西、高鍬、山城(後に沖縄テレビ社長)、西辻、渋谷、位であった。
戦争ブームで、生徒たちが、紀夫を部隊長と呼んでついて廻った。部下は陳源壽、施天生、陳金水、等で、この連中は私が応召の時、襟章が真赤なのをみて、がっかりしたらしい。吾等が敬愛する広川先生は将校に非ず、兵隊も兵隊「赤兵」だったのである。その年の六月に召集が来て、台南の第四部隊に入隊することになった。
淡水の街に出て、紀夫を連れて、建設当時奉仕した淡水神社に参った。一夜、資生堂の広瀬さんの処に泊めてもらひ、翌日淡水を発ったが淡水駅で母親と見送って呉れた。私の出征後、暫くそのまま宿舎に居たが、不安なので、淡水に出て、母親は郵便局に為替係として勤め、郵便局の宿舎に住んだ。
淡水にも空襲があり初めた。その度に防空頭巾を被って、防空壕にかけこんだそうでサイレンが鳴るのをひどく怖がって居たそうである。その頃毛糸で編んだ飛行帽をかたどった茶色の帽子を被って、兵隊達に可愛がられて居たそうである。
その後、戦況は愈々悪くなり、時子は郵便局を辞め、烽火の市川さんの隣の家に移ったが、内地人子弟の淡水小学校でも、学童疎開で北投の山の中腹にある善光寺に行くことになり、ばあちゃんと時子は、当時の小学校の伊之坂校長に乞われて褓母としてついて行くことになった。
(続く)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

三芝の住所は
「三芝庄字埔興百十八番地」
であった。
三芝のことは比較的憶えている。
母がスポンジケーキを焼いたものを、盆に載せて仲の良い教員仲間のところに持って行けと言われたことがある。
それを私は陳水路がポンプを押しているところに差し出して、ケーキを濡らして届けたらしい。
帰るとすぐに、そこの女の子が飛んできて「小母さん、あのケーキは初めから濡れていたのですか?」と言うので、すぐに露見してしまった。
田舎なので夏には大きなホタルが沢山飛び交っていた。
蜜煎工場でザボンの皮を砂糖で煮る甘い香りが流れてきたことも憶えている。
母が勤労奉仕に出て、鎌で足に怪我をしたこともある。
銀色に塗った木製の三輪車に乗って、学童に押して貰った気もする。部隊長扱いされていたのだろうか。

郵便局の宿舎は
「淡水街(龍目井)(郵便局分館)」
であった。郵便局の私書箱みたいなものだからこれで良いのであろう。
郵便局の宿舎には市川ヲコさんが住んでいたと、マキ子さんに聞いたような気がする。
通信隊の兵隊が数人居て、賄いの奉仕をしていた。
そのなかに眼鏡をかけた兵隊が居て、妹の恭子は「お父さん」と言っていたらしい。
丸眼鏡を掛けていたことしか憶えていなかったのである。

紅毛城近くの烽火の住所は
「烽火十四」
であった。

烽火に移っても、空襲警報が鳴ると郵便局前に掘られた防空壕に走り込んだ。
妹は三つになるかならないかであったが、防空壕から出たがって「空襲警報解除よ」と叫んだりしていた。
民家でも、家の前庭を掘っていた。
これは防空壕とは言っても、坐って居ることの出来るくらいに掘って、上に蚊帳を掛けて土で覆っただけのもので、もしこれに入っていて近くに爆弾が落ちたら圧死してしまうようなものであった。
これに対して郵便局の防空壕は非常には防空指揮所になるほどの本格的防空壕であった。子供も弾片から頭部を護るように綿の入った防空頭巾を携行していた。
上記の「毛糸で編んだ飛行帽をかたどった帽子」は良く憶えている。茶色と言うよりも駱駝色であった。
空襲警報が鳴るとこの上に防空頭巾を被ったのであろう。


About

2013年03月16日 10:10に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「来し方(4)」です。

次の投稿は「来し方(6)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。