(承前)
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此処でも数度の空襲を受けたそうであるが、他の附添の先生や、生徒達と一緒に終戦此処に居た。敵機の銃撃で、寺の近く松林がバリバリ焼けてくるのが、とてもこわかったと言って居た。
台南の部隊に居たのは僅かで、間もなく、枋寮の近くの山麓に出た。時折紀夫や、恭子の写真、三人で北投の温泉の川で写った写真などを送って呉れた。部隊暗号の撤宵勤務や、立哨などの時、今頃はどうしてゐるかなと頻りに案じた。
昭和二十年九月、台南部隊も解散となり、淡水に復帰した。間もなく、中国兵が大陸から金たらひや雨傘をもって進駐してきた。いろいろなデマがとび、物騒な空気となった。その頃油車口にあった海事会社に資材係として入ったり、人の引揚荷物の運搬をやって、中国憲兵につかまったりした。
昭和二十一年、内地人の送還が本格化して、俄に、その手続き、家財の整理、携行品の荷造りなどで忙しくなった。家財の大半を処分しなければ、持って帰れないと言うので、親しくして呉れた本島人達にやったり、二束三文に叩き売った。黒紋付きの上下も売った。淡水郡教育会から表彰された時の静涯さんの掛け軸もやった。時子の晴れ着もみなやったり、売ったり、芋や米に変わった。
三月中頃、物情騒然たる中にも、教え子が尋ねて来たり、送別会を開いて呉れたり、淡水駅出発の折は駅頭に街の幹部層、友達、教え子などが見送って呉れた。
(続く)
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父は応召、司令部附きの暗号班で勤務していたが、マラリアに罹り腎臓結石もやり、環境の悪い野戦病院に寝ていた。
我々家族に断片的に話すことがあっても応召中のことは殆ど話していない。
父の亡くなったあと、「兵隊」というメモを見つけた。
台湾でも北部と南部では、気温湿度に大きな差があり、台南の部隊に行って、ひどい湿度と気温に面食らったなどと書いている。
折を見てこのメモにも触れることがあろう。
父が応召したのは、1944(昭和19)年6月のことであった。
聯隊本部の暗号班に配属になったが、その年の11月にマラリアに罹病し、腎臓結石も患い、12月に発作、2年くらい続いた。
残った家族が学童疎開で北投の善光寺に行ったのは1945(昭和20)年5月のことであった。
台南部隊は9月1日に現地解散」となり、同日召集解除になった父は家族の疎開先の北投に立ち寄り、淡水に帰着した(烽火十四)。
写真は、父が応召した台南第四部隊(蓬一九七〇二部隊)の歩兵第二聯隊の営門である。下辺に父の字で「昭19.5 応召した処・・、第四部隊蓬102部隊、聯隊本部暗号班、間もなく台南州潮州付近に出営」とペンで記入されている。