(承前)
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夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。或る日、部屋の中ではしゃいで居て、応接台の角に、こめかみを打ちつけて、肉が切れたので、慌てて李樹林の所に連れて行ったら、小さなかすがい見たようなもので、カチンと縫い合わせた。泣くだろうと思っていたが泣かなかった。
母親が知らぬ間に、バナナを皮ごと食べて、ヒマシ油をのませ大騒ぎしたのもこの頃である。虫類が好きであった。ある時、「とんぼに口があるの」と母親に尋ねた。面倒臭いので、「無いよ」と答えたらしいが、やがて大きな声で泣き出した。「とんぼ口があった」と言う。トンボをいぢって居る中に指を噛まれたのである。
私の勤めていた公学校に、母親と辨当を持って来るようになった。その日は一人で来たのだろう。職員室と教室の間に池があるが、これにはまった。女教員の陳氏速英、看護婦の李氏抱に引き上げられ、毛布に包んで、連れ帰ってもらった事がある。
戦争がはげしくなり、出征兵士の歓送迎がひっきりなしにあった。その度に公学校ででも、バンドを先頭に送迎の行進を行った。先頭の校旗の傍で指揮して行く私を家の門で見ては、如何にも誇らしげであった。
この頃、出征兵士を送る歌の最後の一節に「いざ行け、つわもの、日本男児」と言うのがあって、これを覚えては時折家の中でも、一寸高いところがあればそこに上がって「礼」をして「日本男児」とやり、又「礼」をした。学芸会の積りだったろう。
(続く)
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李樹林医師のことはカリフォルニアのLCさんがメールで教えてくれた。
毛布にくるんでくれたと言う陳氏速英先生は当時、父が浜崎(唐津)の伯父の処に送った公学校卒業記念アルバムに校長始め諸先生と一緒に撮影したで知った。
もし、現地で持っていたものなら、引き揚げのときに置いて帰ったものであろう。
陳氏速英、李氏抱などのお名前をご存じの方があったら教えて下さい。