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来し方(1)

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祖母、原田ユクは1923(大正12)年に、当時6歳の母、時子を連れて、淡水市営の海水浴場「和樂園」を任されていた親戚の浅野タツを頼って渡台した。
そのとき祖母は30歳であった。
1930(昭和5)年、淡水街の嘱託となって公会堂の管理にあたり、仕出し屋を経営していた。

父、研一はその年に佐賀師範学校を卒業して、横田尋常小学校に赴任したが、1937(昭和12)年に湊小学校に転勤となり、同年暮れに台北州庁の吉森八郎氏を頼って渡台し、年が明けて淡水公学校に勤務し、9月に判任文官に任官した。

当時、独身の教員は公会堂奥の右端の小部屋で食事をしていたという。
先輩教師の小栗常寿氏が取り持ったのであろうと思われるが、母と縁談が決まった。

話が決まってから、お膳の下に卵の特配があったらしい。

引き揚げのとき、アルバムから剥がして持ち帰った写真のなかに公会堂の写っているものはなかった。
ずっと後になって、父の教え子の呂添得氏が何度も、その後の淡水街の写真を送ってくれたが、公会堂の写真と言えば焼け跡が放置されて、お化け屋敷のようになっているものばかりであった。
その状態はしばらく、その状態だったらしく訪台した人の報告に貰ったカラー写真も何枚か残っている。

上掲の写真は、2009(平成21)年に訪台したときに滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)の学芸員に案内してもらって、その時掲示してあるものを撮影したものである。

このとき管理棟まで案内して、公会堂が建っていたところは淡水鎮の図書館の建っているところだと教えて貰った。
淡水古蹟博物館に礼状は出したが、大変お世話になった学芸員の姓名は未だ判らない。

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2013年03月12日 11:27に投稿されたエントリーのページです。

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