1959(昭和34)年に大学のに入学試験に合格したときのことである。
このときに唐津の従兄弟も合格した。偶然に受験番号が同じ45番であった。
従兄弟は応用化学科である。そして、高校時代から一緒に学んだ親友も同じ応用化学に入学することが出来た。
その春、自転車で広島から唐津に行くことを思い立った。
両親など家族に見送られて、ごく普通の自転車に大荷物を括りつけて、鉱石ラジオをイヤホンで聴きながら出掛けた。
国道2号線を宮島線沿線に沿って行くと、大野浦の辺りで護衛艦が単艦で西航しているを見つけた。
一時間くらい併走してであろうか?
ところが大竹で県境を越えて山口県に入ると舗装がなくなり、砂利道となった。
戦後、国土の復興が急がれてはいたが、当時の土木事業はまだ人海戦術に近い状態で、全国一斉に出来るわけもない。
1946(昭和21)年に第1回国民体育大会が開催され、天皇陛下がご臨席になるので石川県の主要道路が整備されたのであろう。
翌年から石川県、福岡県、東京都、愛知県と開催され、1951(昭和26)年に第6回国民体育大会が観音の総合グランドをメイン会場に開催された。
この大会からマスゲームが始まり、都道府県旗が掲揚されることになった。
ともかく、このときのために大竹まで広島県の国道二号線は舗装されていたのであるが、山口県はこれよりずっと遅れていた。
山口県で国体が開催されたのは、私が就職した1963(昭和38)年であった。
この頃は国体の開催式に出席された陛下は県内の山間部で行われる植樹祭に出席されるようになっていたと思う。
ともかく、悪路の国道二号線を国鉄の線路に沿って南岩国、藤生、通津、由宇、神代、大畠、柳井港、柳井に行き、柳井からは山陽本線が内陸部を通るため、国道に沿って平生、室積、光を経て下松まで辿り着いた。
下松には淡水時代に家族として暮らしていたマキ子さんが嫁いでいた。
マキ子さんが結婚したF氏は、スポーツマンで立派な人物であった。
何度も、ここに遊びに行き、海釣りなどに連れて行って貰った。
その社宅のアパートに転がり込んで2日程滞在し、乗ってきた自転車はそこに置いて汽車賃まで貰って国鉄で唐津に向かった。
光には製鉄所があった。八幡製鉄所の分工場のようなところであるが、戦後の復興時期にはスクラップを精製していたのであろう。
光の沖には小型空母(飛行機を前線に送り届けるための字義通りエアクラフトキャリア)がスクラップのために数隻、浮標繋留されていた。
当時は合衆国からだけでなく、遠く南米からも古い軍艦をスクラップとして曳航していた。
戦後、進駐軍に接収されて荒廃していた記念館「三笠」を復元するとき主砲にはスクラップになった廃艦の主砲を転用する話もあった。
最終的に南米の旧戦艦の主砲を換装したのかどうか知らない。