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2013年03月 アーカイブ

2013年03月01日

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注音符号

bpmf_2.jpg

昨日、是誠陶笛を調べていると水牛型陶笛の箱に紙片がはいっているのを見つけた。

孔を押さえる指法の説明らしい。

bpmf_2a.jpg

拡大してみるとドレミファソラの読みと数字譜の対応らしい。
それにしても、中央にある記号は何だ?
見たこともなかった。

調べて見ると中国語の発音を記述するための注音符号であることが判った。

最初からbpmfdtnlである。

これで、あることに気がついた。
喜早天海著「見た!聞いた!知った!台湾見聞録」にある台中音頭の歌詞である。

一番の歌詞は
「東シナ海 飛び越えて やってきました 亜熱帯
 椰子の木揺れる 台湾で 作る思い出 宝物
 林さんバスで 朝が来て 交通地獄も 没関係
 ボポモフォ ダタナラ 何のその 僕らは 小さな地球人
 ニイハオ 再見 明天見
 台中音頭でヨヨイのよい」

二番は
「グリーンスネーク ニシキヘビ 木登りトカゲもこんにちは
 シャンチャオ 揺れる 丘の上 上がる喚声 水しぶき
 焼けつく鉄棒 にぎりしめ 地球ぐるっと さかあがり
 雪の降らない台中に 熱い僕らの 汗が降る
 ニイハオ 再見 明天見
 台中音頭でヨヨイのよい」

(三番は省略)

この一番のボポモフォ ダタナラが判らなかった。

子音と母音が別表になっているので子音群の始めらしい。

淡水國小学校新聞の、林元紅校長の挨拶にもこの符号が振ってあった。

bpmf_1.jpg

子供は、こうして台湾語(南語)の発音を憶えるのであろう。

私も憶えて読めるようになりたいが、ちょっと識るのが遅かったかも知れない。

2013年03月02日

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自転車で唐津に向かった

inlandsea_1.jpg

1959(昭和34)年に大学のに入学試験に合格したときのことである。

このときに唐津の従兄弟も合格した。偶然に受験番号が同じ45番であった。
従兄弟は応用化学科である。そして、高校時代から一緒に学んだ親友も同じ応用化学に入学することが出来た。

その春、自転車で広島から唐津に行くことを思い立った。
両親など家族に見送られて、ごく普通の自転車に大荷物を括りつけて、鉱石ラジオをイヤホンで聴きながら出掛けた。

国道2号線を宮島線沿線に沿って行くと、大野浦の辺りで護衛艦が単艦で西航しているを見つけた。
一時間くらい併走してであろうか?

ところが大竹で県境を越えて山口県に入ると舗装がなくなり、砂利道となった。

戦後、国土の復興が急がれてはいたが、当時の土木事業はまだ人海戦術に近い状態で、全国一斉に出来るわけもない。

1946(昭和21)年に第1回国民体育大会が開催され、天皇陛下がご臨席になるので石川県の主要道路が整備されたのであろう。
翌年から石川県、福岡県、東京都、愛知県と開催され、1951(昭和26)年に第6回国民体育大会が観音の総合グランドをメイン会場に開催された。
この大会からマスゲームが始まり、都道府県旗が掲揚されることになった。
ともかく、このときのために大竹まで広島県の国道二号線は舗装されていたのであるが、山口県はこれよりずっと遅れていた。
山口県で国体が開催されたのは、私が就職した1963(昭和38)年であった。

この頃は国体の開催式に出席された陛下は県内の山間部で行われる植樹祭に出席されるようになっていたと思う。

ともかく、悪路の国道二号線を国鉄の線路に沿って南岩国、藤生、通津、由宇、神代、大畠、柳井港、柳井に行き、柳井からは山陽本線が内陸部を通るため、国道に沿って平生、室積、光を経て下松まで辿り着いた。

下松には淡水時代に家族として暮らしていたマキ子さんが嫁いでいた。
マキ子さんが結婚したF氏は、スポーツマンで立派な人物であった。
何度も、ここに遊びに行き、海釣りなどに連れて行って貰った。

その社宅のアパートに転がり込んで2日程滞在し、乗ってきた自転車はそこに置いて汽車賃まで貰って国鉄で唐津に向かった。

光には製鉄所があった。八幡製鉄所の分工場のようなところであるが、戦後の復興時期にはスクラップを精製していたのであろう。

光の沖には小型空母(飛行機を前線に送り届けるための字義通りエアクラフトキャリア)がスクラップのために数隻、浮標繋留されていた。

当時は合衆国からだけでなく、遠く南米からも古い軍艦をスクラップとして曳航していた。

戦後、進駐軍に接収されて荒廃していた記念館「三笠」を復元するとき主砲にはスクラップになった廃艦の主砲を転用する話もあった。
最終的に南米の旧戦艦の主砲を換装したのかどうか知らない。

2013年03月03日

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WBC2013開幕

WBC2013_1.jpg

昨日、ワールド・ベースボール・クラシックの予選大会が始まった。

福岡で始まったA組では日本がブラジルに5:3で逆転勝ちし、台中で行われたB組では台湾が濠に圧勝した。
順調な滑り出しである。

参加国は16ヵ国で、A組(福岡)で日本、中国、キューバ、ブラジルが、B組(台中)では台湾、韓国、豪、蘭が3月2日から始まったが、C組(プエルトリコ)のプエルトリコ、ベネズエラ、ドミニカ、スペイン及び、D組(フェニックス)の墨、米、加、伊はそれぞれ3月8日からリーグ戦が行われる。

今日(3月3日)、福岡では12時半からキューバとブラジルが対戦中で、台中では15時半から台湾がオランダと試合を行う予定である。

A組にキューバ、B組にオランダ、C組にスペイン、D組にイタリアが入っているのはベースボールの盛んな地域とそうでない地域のレベル差を考慮してのことであろう。

写真はウェブのニュースから借用した。

2013年03月04日

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滬尾砲臺から観音山を望む

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油車口の和平公園の傍に、ゴルフ場に隣接して滬尾砲臺がある。

この砲臺は1884年10月にフランス軍が上陸(清法戰爭:撃退)のあと、海岸防備のためにドイツ人工兵大尉マックス E.ヘヒトを招聘して1889年に構築された。

コンクリートで長辺およそ100メートル、短辺80メートルほどの堡塁を築き、4隅に12インチ/10インチのカノン砲や21サンチ榴弾砲を備えており、堡塁の下は砲臺に続く隧道が設けられ、地下に火薬庫や兵員居住区などが設けられていた。

中庭は操練を行うほか、炊烹所や倉庫も建てられていたが、さいわい実戦に使われることはなかった。

この写真は「植鉄の旅」(http://liondog.jugem.jp/)というページから転載したものである。

砲臺の台湾海峡に向いた北西隅の12インチカノン砲台座から南に対岸の観音山を望んだもので、ちょうどその方向に劉銘伝の字で「北門鎖」と銘板のある正門がある。

の胸壁に砲弾型の凹みが見える。実際に砲弾を置いていたとは考えにくい。装飾なのだろうか?


2013年03月05日

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「小白宮」

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淡水の真理街15號(地名:砲歩埔)にある小白宮(清朝税関総税務司令邸)は1997年に三級古蹟に指定されている。

天津条約で淡水が開港された翌年、滬尾の水師守備署を税関公署にしたが、清朝では税務官を外国人に委ねていたので、イギリスの公爵が初代の税関吏に任命された。

その後、数年経って回廊式建築が建てられた。ここには白壁の平屋や赤煉瓦の2階建てなど三棟があり、聖ドミンゴ城駐車場の前方にあたる場所には3層建ての豪奢な官邸も建てられていたというが今は跡形もない。

当時、淡水は台湾の総税関であったが後年、基隆港が整備されると淡水税関は基隆の支署となり、その後官庁の招待所や迎賓館となった。

戦中から戦後にかけて淡江中學の学生寮になったりしていたが、その後は荒廃し、一部は公会堂洋館の焼け跡と同じく、お化け屋敷「鬼屋」になっていた。

1990年代に廃棄されることが決まったが、残された建屋は地元有志や学者の奔走で古蹟として残されることになった。

KWH1b.jpg

淡水で有名な銘菓本舗の三協成はいくつかの淡水の名所について挿絵入りの資料を作っているが、小白宮については台湾語、日本語、英語のほかドイツ語でも2ページの解説を発行している。

KWH1c.jpg

いつか、翻訳したいと思っている。

2013年03月06日

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日本語について

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台湾で「友愛」という雑誌が発行されている。

2010年9月に発行された第11号も、2011年末に発行された第12号もA5版でほぼ350ページという厚みである。

友愛グループは、「美しい日本語」を守ろうと台湾で創設された(創設者の陳絢暉さんは残念なことに昨年12月21日に亡くなった)。

それぞれ二十数編のエッセイ、短歌などの詩歌、10編以上のスピーチに加えて熟語やことわざ、読みなど三十問以上にわたる月例会の日本語実力教材が載っている。

戦後日本の学校教育でも句読点の使い方さえ教育されて居らず、作文や綴り方など殆どなく、夏休みの絵日記でさえ碌にチェックもしない。
稀に朱が入って返ってきても文章としてチェックされることなどない。
戦後の日本の教育は、日本古来のものは全てダメで、漢字なども相当痛めつけられてきた。
日本語も、本気でローマ字にせよとか、志賀直哉のように日本語は駄目だからやめてフランス語にせよと言う日本人も居たほどである。

それなのに台湾ではこれほど日本語を愛してくれている。

日本語には主語がないとか欧州スタイルと較べて曖昧な言葉だと言う者もいるが、寒いだの暖かいだの言うのに、it(イギリス) だとか es(ドイツ)のように意味のない仮の主語を持ってこざるを得ない言語が素晴らしいとも論理的とも思わない。

我々はもっと日本語を勉強しなくてなるまい。


2013年03月07日

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デイゴの花

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以前、別のブログでガジュマル、リュウガン、ハイビスカス、クロトンそれにマングローブに生えているオヒルギ・メヒルギなど懐かしい植物を取り上げたことがあった。

そこでは取り上げなかったがデイゴも、いかにも亜熱帯らしい花である。

もう啓蟄も過ぎたのに薄ら寒い日が続くと台湾が無性に懐かしくなる。

広島にも、平和大通りの東側にアメリカン・デイゴがある。
アルゼンチンの大統領夫人エバ・ペロンから1953年に贈られた種から発芽したものだという。

花をつける初夏になったら見に行こう。


2013年03月08日

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人類の歴史を変えた十大植物

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友愛会誌「友愛」の第12号を見ていたら、張文芳さんの見出しのエッセイが載っていた。
2000年2月に宜蘭で開催された「緑色博覧会」に『人類の歴史を変えた十大植物』のテーマ館があり、そのパンフレットを邦訳したものだそうである。

掲載されていた順に提示してみる。

「ゴム」: 自動車が実用化されるためにはゴムタイヤが必須の条件であった。
1839年にアメリカ人グッドイヤーがゴムの樹液に硫黄を加えて
加圧処理する加硫法を発明し、交通運輸機関に大変革をもたらした。

「ケシ」: ケシから鎮痛剤モルヒネの主要な原料である阿片が作られる。
インド、ミャンマー、タイなど東南アジアで栽培されている。
イギリスが中国へ大量の阿片を輸出し「阿片戦争」の発端になった。

「桑」: 蚕から絹糸が作られたのは、人類史を2千年も遡るという。
これが欧州に運ばれたシルクロードは文化の交流路でもあった。
欧州では絹や木綿がもたらされるまで織物の主体はウールであった。

「林檎」: 林檎は果物としても貴重な存在である。
これを発酵させてシードルなどアルコール飲料としても用いられる。
ニュートンはリンゴの落ちるのを見て万有引力の法則を思いついた。

「エンドウ」: メンデルは、8年もエンドウを研究して遺伝の法則を証明した。
彼はエンドウが自家受粉できることを知って人工授粉で研究した。
メンデルの学位論文は、わずか1ページであったと言われる。

「小麦」: 小麦はイネ科の1年生植物である。
世界の人口の35%が小麦を主食にしている。
ナンを含むパンの原料であるほか、麺として用いられる。

「水稲」: 水稲は生産量世界一の穀物である。
アジアを中心に世界人口の約半分の主食である。
インディカ米やジャポニカ米がある。

「キナ」: マラリアの特効薬キニーネの原料である。
南米大陸で原住民が熱病の治療に用いていた。
欧州人がジャワなどに移植して活用された。

「茶」: 茶は中国、アラブなどで昔から飲まれていた。
欧州に持ち込まれて、茶に砂糖を入れて嗜むようになった。
ボストン茶会事件が独立戦争の導火線になったことは知られている。

「綿花」: 綿花が、大量に使用されたのは産業革命以降である。
南北戦争は綿花の収穫に奴隷を用いるか否かで争われたという。
アメリカ南部の綿花輸出量は世界最大であった。


2013年03月09日

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増補版「図説:台湾の歴史」

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周婉窈著:「図説・台湾の歴史」の増補版が2月18日に発売された。

同書の紹介文には
『(前略)台湾初版未収録の「戦後編」に加え、日本統治時代の台湾の政治・文化運動も増補し、日本統治と東アジア現代史の関連について、さらに深く一貫した視座を可能にした。(後略)』
とある。

カバーには廖繼春の描いた油絵「芭蕉の庭」が用いられている。

2013年03月10日

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MRTの車内放送

MRT_2.jpg

MRTは便利な乗り物である。

路線にもよるだろうが、車内は広く収容人員は多い。
その上、発車時刻表がない。その代わりに、次のMRTがあと何分で到着するか表示されている。

しかも、車内で駅に近づく度に放送される案内は「國語(北京語)」、「台湾語」、「客家語」、「イギリス語」で放送される。

台湾で話される言語は「台湾語」(南語、台語、河洛語)を話す人がが台湾人口の約75%、「客家語」を話す人が約13%、その他の漢語方言が約10%、原住民諸語が約2%だと言われている。

こうなると少なくとも2語くらい知っていないと生活に困ることも出てくるかも知れない。
今も台北、台中、高雄に日本人学校があり、毎月10万人以上の日本人が台湾を訪れていると言うが、戦前はもっと多くの日本人が住んで現地の人とその街や社会を創りあげてきた。
当時、公学校で教える国語は日本語であったが、家庭では台湾語で話す一鉢も多くいた。KGさんは子供の頃、家庭では台湾語を使いなさいと言われていたが、そうしなかったことを悔やむと言っていたが、私も当時は現地の子供達とも遊んでいたし、大人たちも市場の買い物は台湾語であったはずである。

それでもインターネットが普及したので、日本語で発信し、イギリス語や台湾語で受信出来ることは有難い。

言葉には、コトバとコトバとの関係を示すとき、フランス語やイギリス語のように単語が形を変える屈折語、台湾語やベトナム語のように単語を並べる順序によるものを孤立語、日本語や朝鮮語のように助詞・助動詞を使う膠着語がある。
同じ系列の言語同士であれば機械的に翻訳することもある程度可能であるかも知れないが、系列の異なる言語にこれを適用することは無理であろう。

異言語間コミュニケーション方法の改善は、さらに進められることが望まれる。


2013年03月11日

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来し方(0)

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別のブログで2005年の5月に「生い立ちの記」を書き始めた。

私が戦後初めて、生まれ育った台湾の淡水に行ったのは1995年3月のことで、そのときはクルーズ船で航き、基隆からタクシーで紅毛城まで行き、まだ開通前のMRT駅前をちょっと歩いただけであった。
その次に行ったのは2002年末から翌年に掛けて別のクルーズ船で、やはり基隆に行ったときで同じように日帰りであった。
空路渡台したのは、その一年後に福岡からルックJTBの3泊4日で、このとき初めてMRTに乗ったのを憶えている。
2004年頃から毎年のように台湾を訪れ、淡水の街を歩き回ったが、引き揚げたのが6歳になったばかりのことでもあり、龍目井と言っていた地名がどの辺りか、何処が新店街なのか、砲臺埔が何処なのか皆目判っていなかった。
街の主要部はすっかり変わっていたが、戦前の老街の面影を残すところもあった。
丘の上に登る石段があれば公会堂に通じているのではないかと朧気な記憶を辿ってみたりした。
当時、家族として一緒に住んでいたマキ子さんや、ブログで知り合ったボストンの博士やカリフォルニアのLCさん等に教えて貰いながら当時のことが随分判って来た。

2010年には博士に台北まで迎えに来て貰って、公学校であった淡水國小や、鎮公所(街役場)、それに三芝まで連れて行って貰った。
一緒に行った横浜のKGさんにもお世話になった。

それから、このブログで散発的に当時のことを書いてきたが、淡水の新店街のクリスチーナは、新北市淡水区となった現地の状況を知らせてくれるようになって喜んでいる。

他のカテゴリと重複するが、新しいカテゴリを作って当時の状況を眺めてみようと思う。両親や祖母が渡台した当時のことは関連が出てきたところで触れることにして、私が生まれたところから話を進めることにする。


2013年03月12日

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来し方(1)

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祖母、原田ユクは1923(大正12)年に、当時6歳の母、時子を連れて、淡水市営の海水浴場「和樂園」を任されていた親戚の浅野タツを頼って渡台した。
そのとき祖母は30歳であった。
1930(昭和5)年、淡水街の嘱託となって公会堂の管理にあたり、仕出し屋を経営していた。

父、研一はその年に佐賀師範学校を卒業して、横田尋常小学校に赴任したが、1937(昭和12)年に湊小学校に転勤となり、同年暮れに台北州庁の吉森八郎氏を頼って渡台し、年が明けて淡水公学校に勤務し、9月に判任文官に任官した。

当時、独身の教員は公会堂奥の右端の小部屋で食事をしていたという。
先輩教師の小栗常寿氏が取り持ったのであろうと思われるが、母と縁談が決まった。

話が決まってから、お膳の下に卵の特配があったらしい。

引き揚げのとき、アルバムから剥がして持ち帰った写真のなかに公会堂の写っているものはなかった。
ずっと後になって、父の教え子の呂添得氏が何度も、その後の淡水街の写真を送ってくれたが、公会堂の写真と言えば焼け跡が放置されて、お化け屋敷のようになっているものばかりであった。
その状態はしばらく、その状態だったらしく訪台した人の報告に貰ったカラー写真も何枚か残っている。

上掲の写真は、2009(平成21)年に訪台したときに滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)の学芸員に案内してもらって、その時掲示してあるものを撮影したものである。

このとき管理棟まで案内して、公会堂が建っていたところは淡水鎮の図書館の建っているところだと教えて貰った。
淡水古蹟博物館に礼状は出したが、大変お世話になった学芸員の姓名は未だ判らない。

2013年03月13日

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来し方(2)

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1939(昭和14)年5月20日に台湾神社で両親の結婚式が行われた。

佐賀県から父方の祖父母 慶太郎、オツも出席した(前列左)。
媒酌人は公学校長 松田常己、サト夫妻であった(新郎新婦の両側)。
母方の祖父が居なかったので、淡水街長の中原 薫氏に務めて貰った(前列右から2人目)。
当時、祖母の末弟 山本忠治夫妻(後列、神主の左)も、海水浴場「和樂園」の浅野タツ(同右)と共に出席している。
祖母のもう一人の弟 山本 保氏も淡水公学校の裏に住んでいたが、この写真に写っていないところを見ると、このあとで渡台したのであろう。
実質的に二人の仲を取り持った小栗常寿氏(後列右端)も同席してくれた。

このときに淡水神社で挙式したかったに違いないが、淡水神社の竣工、鎮座式は同年3月11日で僅かの差で実現出来なかったことと思う。

このときの新居は新店街の黒川さんの二階を借りていたのかと思ったが、マキ子さん(上の写真で祖母と街長の間)に聞いたところでは、公会堂から近いところにあった淡水小学校や女子公学校の近くにあった教員用宿舎に入っていたそうだ。

その後、新店街の黒川さんのところに移転したらしい。

私の戸籍簿によると
「昭和拾五年弐月拾日、臺湾臺北州淡水郡淡水街淡水 字新店 参拾七番地で出生
 父 廣川研一届出 同月弐拾日受附 入籍」
とある。


2013年03月14日

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来し方(3)

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両親が残しておいてくれたもののなかに、父の原稿を母の字で謄写版の原稿用紙にペン書きしたものが残っている。

苦難を越えてきた我が家の記録「轍の跡」である。

表紙に続いて二枚目に次の五行がある。

「越えて来た、幾山河。
 轍のあとは、遠い。
 今、静かに、来し方を憶ひ、
 よろこびと、苦難を共にした
 時子に感謝を捧げる」

時子とは母の名である。

三枚目には

「第一編、紀夫、生い立ちの記(誕生から大学入学まで)」
とある。

四枚目からページがうたれている。

そして22ページまで第一編の本文で、その次から年表が9ページ続いている。

本文の末尾は
「紀夫の大成と、家の幸福を祈念し乍ら
 昭和三十四年十月二十五日 記す。
 研一」
となっている。

昭和三十四年と言えば、私が大学に入学した1959年であり、10月は父が配管工から勤めて紆余曲折の末、水道会社の役員になった年で、戦後 衣食住の全てを失って家族を連れて原爆砂漠の広島で肉体労働に耐えて生き抜き、やっと過ぎ越し方を振り返ることが出来るようになった時期である。

これを見るたびに大成しなかったことを申し訳なく思い、もっと親孝行すれば良かったと反省する。

人に見て貰うものではないが、自身で記憶のないことだからご免を被って、2ページほど転記する。

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 紀夫、生い立ちの記

昭和十五年二月十日の夜明、台北州淡水街砲台埔三八、淡水公会堂の奥の一室で生まれた。居合わせた者、広川研一、原田ユク、山本 保、その他で産婆は市川ヲコさんと言って一人息子積君を大東亜戦争の初期に戦死させた人で、引揚前、背の腫瘍の為亡くなられた。紀元二千六百年祭の前夜祭に生まれたのにちなんで、紀夫と命名した。
食べ初めの朝、祝の膳を枕頭に持って行ったら時子が泣いた。誕生祝には沢山のお祝をもらった。暫くしてうどんを柔く炊いたのを食べさせたりしたが、何しろ大事にし過ぎたせいか、胃腸が弱くよく医師の李樹林の厄介になったものである。
五月の端午の節句が来て、公会堂の高台に鯉幟や吹流しを立てた。資生堂の広瀬さんその他から贈られたものである。前日の夕方、小栗兄弟に手付ってもらって、柱を立てたが、その穴に埋めたのか、眼鏡をなくした。表側の平生若い者達が御飯をたべて居た部屋に武者人形を飾った。ばあちゃんや、佐賀の兄や、友人たちから贈られたもので大層賑かなものであった。松田校長の奥さんが古い武者人形まで持って来て呉れた。
最初黒川さんの二階に住んで居たが三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住み心地のよい家であったが、お産が近くなってからは、ばあちゃんの公会堂に来て居た。暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこにうつった。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じて居た。
窓側にかけひをかけ、縁先に四角な水槽を据えて、金魚を飼っていた。
当時ばあちゃんは、公会堂の管理人としての街役場の嘱託で、かたわら、宴会、会合等の仕出しをやり、板場や本島人の下婢も居たし、仲々羽振りがよく、交際も広く、気前もよし、元気のよい「公会堂の小母さん」で通っていた。
赤ちゃんが生まれて、抱きかかえられるようになるのを待ちかねて、方々え抱え歩いては自慢して廻った。戦爭の初期で街はいきいきして居た。軍人にも顔が広く、有名な「兵隊小母さん」でもあった。
遊んで廻るようになった。大きな機関車や、尻尾にセルロイドの二枚羽根を付けた金属製の飛行船があった。
(続く)

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上掲の写真は当時の新店街で、右に塩とか煙草とか楕円の看板の出ているのが黒川さんの塩屋である。

二階にベランダの見えるところに住んでいた。

この建物は持ち主や店舗は変わっても隣接する建屋と共に現存している。

今でも、楊芝琳さんが写真を添付したEメールで状況を教えてくれる。
有難いことである。

2013年03月15日

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来し方(4)

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(承前)

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夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。或る日、部屋の中ではしゃいで居て、応接台の角に、こめかみを打ちつけて、肉が切れたので、慌てて李樹林の所に連れて行ったら、小さなかすがい見たようなもので、カチンと縫い合わせた。泣くだろうと思っていたが泣かなかった。
母親が知らぬ間に、バナナを皮ごと食べて、ヒマシ油をのませ大騒ぎしたのもこの頃である。虫類が好きであった。ある時、「とんぼに口があるの」と母親に尋ねた。面倒臭いので、「無いよ」と答えたらしいが、やがて大きな声で泣き出した。「とんぼ口があった」と言う。トンボをいぢって居る中に指を噛まれたのである。
私の勤めていた公学校に、母親と辨当を持って来るようになった。その日は一人で来たのだろう。職員室と教室の間に池があるが、これにはまった。女教員の陳氏速英、看護婦の李氏抱に引き上げられ、毛布に包んで、連れ帰ってもらった事がある。
戦争がはげしくなり、出征兵士の歓送迎がひっきりなしにあった。その度に公学校ででも、バンドを先頭に送迎の行進を行った。先頭の校旗の傍で指揮して行く私を家の門で見ては、如何にも誇らしげであった。
この頃、出征兵士を送る歌の最後の一節に「いざ行け、つわもの、日本男児」と言うのがあって、これを覚えては時折家の中でも、一寸高いところがあればそこに上がって「礼」をして「日本男児」とやり、又「礼」をした。学芸会の積りだったろう。
(続く)

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李樹林医師のことはカリフォルニアのLCさんがメールで教えてくれた。

毛布にくるんでくれたと言う陳氏速英先生は当時、父が浜崎(唐津)の伯父の処に送った公学校卒業記念アルバムに校長始め諸先生と一緒に撮影したで知った。
もし、現地で持っていたものなら、引き揚げのときに置いて帰ったものであろう。

陳氏速英、李氏抱などのお名前をご存じの方があったら教えて下さい。

2013年03月16日

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来し方(5)

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(承前)

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この龍目井の家で二人目の恭子が生まれた。昭和十七年の十二月八日、開戦記念日である。四才位の時、私が田舎の小基隆と言う処の三芝国民学校に転勤になり、そこの教員宿舎に引越した。田舎で、内地人も数える程しかなく、宿舎は学校の校庭の傍にあり隣に高鍬と言う教員、それから中島校長、道路の向側に鄭石と言う本島人の教員が居た。小遣の陳水路が毎日近くの井戸から水を汲んで呉れた。家の前と横は、広い野菜畑で、ここで茄子、きうり、いんげん豆、玉ねぎ、落花生まで作った。
昼食時には、教室へ辨当を持って来た。辨当箱でなく、丼を風呂敷で包んだのを、今にも解けそうな恰好ででもって来る。時には級長が運んだ。
ある時、授業中、生徒がざわつくので、気がついてみたら、欠席児童の空いた席に、紀夫がちゃんと坐っているのである。廊下側の窓下の空気抜きから這って入って来たものらしい。
戦争がぼつぼつ悪くなった頃で、すべて物資が乏しかった。撃滅米英、頑張りましょう勝つまではの頃で、子供の服も手製、それも再生の改造したものが殆どである。寒い朝であった。私が指揮台の上で全校生徒に話をしていると、生徒の視線がおかしいので、気が付いてみると、指揮台の私の傍に上がって来て、私の方を見上げては、いと満足げであった。それが何と大人の着物を作り直した黒っぽい縦縞のどてらみたいなものを着てゐたのである。菓子類も殆どなく、近所にある小さな焼菓子工場に、粉を持って焼いてもらったりして居た。
昭和十九年、私は教頭になり、学級を持たなくなったが、青年学校の軍事教練などで忙しかった。学級数十六で、内地人教員は校長、私、葛西、高鍬、山城(後に沖縄テレビ社長)、西辻、渋谷、位であった。
戦争ブームで、生徒たちが、紀夫を部隊長と呼んでついて廻った。部下は陳源壽、施天生、陳金水、等で、この連中は私が応召の時、襟章が真赤なのをみて、がっかりしたらしい。吾等が敬愛する広川先生は将校に非ず、兵隊も兵隊「赤兵」だったのである。その年の六月に召集が来て、台南の第四部隊に入隊することになった。
淡水の街に出て、紀夫を連れて、建設当時奉仕した淡水神社に参った。一夜、資生堂の広瀬さんの処に泊めてもらひ、翌日淡水を発ったが淡水駅で母親と見送って呉れた。私の出征後、暫くそのまま宿舎に居たが、不安なので、淡水に出て、母親は郵便局に為替係として勤め、郵便局の宿舎に住んだ。
淡水にも空襲があり初めた。その度に防空頭巾を被って、防空壕にかけこんだそうでサイレンが鳴るのをひどく怖がって居たそうである。その頃毛糸で編んだ飛行帽をかたどった茶色の帽子を被って、兵隊達に可愛がられて居たそうである。
その後、戦況は愈々悪くなり、時子は郵便局を辞め、烽火の市川さんの隣の家に移ったが、内地人子弟の淡水小学校でも、学童疎開で北投の山の中腹にある善光寺に行くことになり、ばあちゃんと時子は、当時の小学校の伊之坂校長に乞われて褓母としてついて行くことになった。
(続く)
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三芝の住所は
「三芝庄字埔興百十八番地」
であった。
三芝のことは比較的憶えている。
母がスポンジケーキを焼いたものを、盆に載せて仲の良い教員仲間のところに持って行けと言われたことがある。
それを私は陳水路がポンプを押しているところに差し出して、ケーキを濡らして届けたらしい。
帰るとすぐに、そこの女の子が飛んできて「小母さん、あのケーキは初めから濡れていたのですか?」と言うので、すぐに露見してしまった。
田舎なので夏には大きなホタルが沢山飛び交っていた。
蜜煎工場でザボンの皮を砂糖で煮る甘い香りが流れてきたことも憶えている。
母が勤労奉仕に出て、鎌で足に怪我をしたこともある。
銀色に塗った木製の三輪車に乗って、学童に押して貰った気もする。部隊長扱いされていたのだろうか。

郵便局の宿舎は
「淡水街(龍目井)(郵便局分館)」
であった。郵便局の私書箱みたいなものだからこれで良いのであろう。
郵便局の宿舎には市川ヲコさんが住んでいたと、マキ子さんに聞いたような気がする。
通信隊の兵隊が数人居て、賄いの奉仕をしていた。
そのなかに眼鏡をかけた兵隊が居て、妹の恭子は「お父さん」と言っていたらしい。
丸眼鏡を掛けていたことしか憶えていなかったのである。

紅毛城近くの烽火の住所は
「烽火十四」
であった。

烽火に移っても、空襲警報が鳴ると郵便局前に掘られた防空壕に走り込んだ。
妹は三つになるかならないかであったが、防空壕から出たがって「空襲警報解除よ」と叫んだりしていた。
民家でも、家の前庭を掘っていた。
これは防空壕とは言っても、坐って居ることの出来るくらいに掘って、上に蚊帳を掛けて土で覆っただけのもので、もしこれに入っていて近くに爆弾が落ちたら圧死してしまうようなものであった。
これに対して郵便局の防空壕は非常には防空指揮所になるほどの本格的防空壕であった。子供も弾片から頭部を護るように綿の入った防空頭巾を携行していた。
上記の「毛糸で編んだ飛行帽をかたどった帽子」は良く憶えている。茶色と言うよりも駱駝色であった。
空襲警報が鳴るとこの上に防空頭巾を被ったのであろう。


2013年03月17日

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来し方(6)

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此処でも数度の空襲を受けたそうであるが、他の附添の先生や、生徒達と一緒に終戦此処に居た。敵機の銃撃で、寺の近く松林がバリバリ焼けてくるのが、とてもこわかったと言って居た。
台南の部隊に居たのは僅かで、間もなく、枋寮の近くの山麓に出た。時折紀夫や、恭子の写真、三人で北投の温泉の川で写った写真などを送って呉れた。部隊暗号の撤宵勤務や、立哨などの時、今頃はどうしてゐるかなと頻りに案じた。
昭和二十年九月、台南部隊も解散となり、淡水に復帰した。間もなく、中国兵が大陸から金たらひや雨傘をもって進駐してきた。いろいろなデマがとび、物騒な空気となった。その頃油車口にあった海事会社に資材係として入ったり、人の引揚荷物の運搬をやって、中国憲兵につかまったりした。
昭和二十一年、内地人の送還が本格化して、俄に、その手続き、家財の整理、携行品の荷造りなどで忙しくなった。家財の大半を処分しなければ、持って帰れないと言うので、親しくして呉れた本島人達にやったり、二束三文に叩き売った。黒紋付きの上下も売った。淡水郡教育会から表彰された時の静涯さんの掛け軸もやった。時子の晴れ着もみなやったり、売ったり、芋や米に変わった。
三月中頃、物情騒然たる中にも、教え子が尋ねて来たり、送別会を開いて呉れたり、淡水駅出発の折は駅頭に街の幹部層、友達、教え子などが見送って呉れた。
(続く)

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父は応召、司令部附きの暗号班で勤務していたが、マラリアに罹り腎臓結石もやり、環境の悪い野戦病院に寝ていた。
我々家族に断片的に話すことがあっても応召中のことは殆ど話していない。
父の亡くなったあと、「兵隊」というメモを見つけた。
台湾でも北部と南部では、気温湿度に大きな差があり、台南の部隊に行って、ひどい湿度と気温に面食らったなどと書いている。
折を見てこのメモにも触れることがあろう。

父が応召したのは、1944(昭和19)年6月のことであった。
聯隊本部の暗号班に配属になったが、その年の11月にマラリアに罹病し、腎臓結石も患い、12月に発作、2年くらい続いた。

残った家族が学童疎開で北投の善光寺に行ったのは1945(昭和20)年5月のことであった。
台南部隊は9月1日に現地解散」となり、同日召集解除になった父は家族の疎開先の北投に立ち寄り、淡水に帰着した(烽火十四)。

写真は、父が応召した台南第四部隊(蓬一九七〇二部隊)の歩兵第二聯隊の営門である。下辺に父の字で「昭19.5 応召した処・・、第四部隊蓬102部隊、聯隊本部暗号班、間もなく台南州潮州付近に出営」とペンで記入されている。


2013年03月18日

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来し方(7)

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(承前)

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台北の総督府に集結した前後から時子が、発熱で寝込んでしまひ、台北駅までの引揚行列の時は荷物と一緒に荷車に乗せて哀れであった。台北駅前広場で汽車を待つ間、台湾の思ひ出に、まんじゅうとアイスクリームを小供達にも食べさせた。
基隆の岸壁で二、三日仮泊し、中国憲兵の携行品の検査があって、小さな海防艦の船艙に押し込められた。三月の末で海は荒れて、坐っても頭を打つようなせまい船室で、がぶられ、一同死人のよう態であったが、子供達は割と元気であった。
三月二十七日、鹿児島港に入り、天宝山小学校に収容され、味噌汁をご馳走になった。気温は低く、物価は高かった。博多駅に夜明に着いたら、構内に乞食がごろごろして居て、やれやれと思った。全国に散って行く永い友達と泣いて別れた。
浜崎の郷里に落着き、永らく一緒に居たマキ子は笠野へ帰った。紀夫が一年生入学で、町並みの裏手の田圃の中にある浜崎小学校に入った。この学校は新築当時、私が二十三か四の頃勤めた学校で、しかも紀夫の担任が、その当時の教え子の宮崎操である。全く妙な廻り合わせだ。学校の川土手には桜並木があり、小川の面に散り流れて奇麗であった。白いテント地で、中に木箱を入れた手製のランドセルを背負って、この土手の道を通ったものである。この頃、ランドセルごと学校において帰ったり、何か儀式のある日、時間がはっきりせず、出かけたら、間もなく帰って来る友達と出会って帰ってきたりした。成績は上の部で、言葉がきれいだとほめられた。
隣の古賀さんに義友君という体の悪い子が居たし、先隣り(反対側)の広川フミの家にも子供が居て、何か子供の事で母親同士が、いがみ合ったりした。
向ひ側に、亡くなった堤次郎という小父さんが、錻力屋をやって居たが、食物の乏しい頃に、時折団子などを子供に呉れた。柔和な口数の少ない人であった。私の母が、すぐ前の家ではあり、弟のように親しくしていた人だ。
猫の額程の僅かな空地にも、川岸にも、道路のへりにまで競って芋を植え、南瓜を育てた。すべて衣食住物資の乏しい時に方々から引揚者が身寄りをたよって帰って来るので、引揚者は寄生虫的な存在で白眼視されたものである。
常食も粥はいい方で、得体の知れぬ茶色の粉で平たい団子のようなものをこさえ、これを焼いたり、汁にしたりして食べた。子供達も気兼して、そっと茶碗を置いたりした。海で地曳網が曳ける時、行っては形ばかりの手伝いをしては雑魚を少し許りもらって帰って食べたが、小いわし、かなぎ、何でもおいしかった。
我が子の初めての運動会が来た。勢こんで応援したが、さっぱりであった。私が運動好きであったので意外だったのか、宮崎操が申訳のなさそうな顔をした。
私は横田の阿部さんの世話で一時、吉村義太郎商店の山師となって材伐監督に山の中に行ったが百姓屋の麦飯をたらふく食べられ食事が何より楽しみであった。間もなくそこで文具、玩具などの卸を始め、唐津のおくんちの時、請けて露天を出しに行った。売れ行きはまづまづで夜更けに松原を荷車曳いてばあちゃんと帰って吉村で慰労酒を振舞われた。時子が流産をして唐津に入院したのもこの頃である。
五人連れで、いつまでも浜崎の兄の処に厄介になっていても、時々女同士で気まづい事もあったりして具合が悪いので、当時、広島市水道に勤めていたばあちゃんの弟の山本忠治氏から招きがあり、ばあちゃんも山口筋では親戚も多く、その方を望んでゐる様子なので、留めるのを振り切って、山本氏の岩国に移った。昭和二十一年の暮で雪が降っていた。ここで紀夫の小学校遍歴が始まったわけである。紀夫は岩国東小学校に転校した。
(続く)

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写真は毎日新聞社が昭和五十三年九月五日に発行した「別冊 一億人の昭和史:日本植民地史[3]台湾」の87ページの写真に父が書き込んだものである。
「昭和21.3.22 淡水を出てここに集結、基隆出航便を待つ」として矢印を一階まで引いている。

マキ子さんを含めて、各自で持てるものだけ持って台北駅から基隆に向かった。
母が熱を出して寝込んでしまっていたので、何処から借りたのか荷車に荷物と一緒に父が曳いて行った。
台北からの列車は有蓋貨車に乗せられるだけ乗せられて行った。無論、満員電車のように建ちっぱなしである。

基隆の岸壁で二,三日仮泊した記憶はない。
ただ、海の上に仮設された便所から揺れる海面が見えて気持ち悪かったことは憶えている。
海防艦三十四号の艦尾に、爆雷庫か弾薬庫を改装したような狭い区画に入れられた。
艦が動き出したら、父が開閉蓋のついたハッチに上げてくれ「紀夫、あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言った。
途中で乗組員が握り飯か何か持ってきたが、ひどい船酔いで誰も手を出す者はいなかった。
皆、酔って吐くので、父は何度も暴露後半に持って上がった。
その辺りに撒くと波が洗い流していたようだった。
鹿児島に上陸して小学校の教室のようなところに収容されたが、鹿児島市を調べて見ると天宝山小学校と言う校名は見当たらない。甲突川に近く天保山中学校というのがあるがここかも知れない。

マキ子さんとは博多駅で別れて、彼女は山口県熊毛郡の実家に帰っていった。
博多の駅には乞食が沢山居たのを見た。
子供の乞食は食い物を貰ってはボスの処に持って行っていた。

三月末に引き揚げて、4月に小学校に入学したので、その辺りから憶えていることも多くなっている。
隣の義友君というのは憶えているし、浜で地曳き網を曳くときに行ったこともある。
線路敷きに生えている鉄道草というのを摘んだこともあるし、海水を汲みに行ったことも憶えている。
そのとき母は「砂糖はないだろうと思ったけれど、塩もないなんて・・」と言って居た。
本家の向かいの堤さんのことは憶えている。
家で採っていた新聞を届けたりしていた。
堤さんの家の裏に、愛知県犬山市の明治村にあるような枡席の芝居小屋があって、旅芸人の一座が来たりしていた。
母は洋裁も和裁も出来たが、田舎のことで頼みに来る人も居なかった。

山笠で有名な唐津くんち(宮日)に父が露天を出したときは付いていった。
隣の露天で山椒魚の粉と称するものを売っていたが、盥に入れていた山椒魚が逃げ出して溝を追っかけたり大変であった。

岩国に引っ越した頃、両親はどうやって子供達を養うか大変だったに違いない。
転校しても教科書もない。
父は友達から教科書を借りておいでと言って、疲れて帰ったあと大学ノートに書き写してくれた。
國語も、算数も、理科も、社会科も・・・・・


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終戦直後内地から飛来した川西大艇

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大日本空輸の川西大艇「神津」(J−BACT)が1945年9月9日の朝7時半、横浜を離水した。

戦後混乱期の台湾経済を支援するため日銀の保証する台湾紙幣2トンを緊急輸送するためである。

艇体は全て白色塗装され、主翼と艇体側部には誤認されないように連合軍側から指定された緑十字の標識が描かれていた。

乗務員は、大堀機長、越田操縦士、佐々木航空士、武宮・加藤機関士、鈴木・某通信士の7名であったという。
鹿児島、沖縄上空を通過して15時50分に着水、郵便局のそばに繋留された。
上述の写真がその白塗りの川西飛行艇である。

この現金輸送飛行は2度おこなわれたらしい。
「神津」が2回航行したのか、もう一艇の候補であった「巻雲」(J−BACZ)が飛んだのかも知れない。

2010年11月27日の本欄に、よしさん(yosh3@mail.goo.ne.jp)と言う方からコメントを戴いた中に「終戦直後の緑十字飛行でこの港の前に停泊している飛行艇の写真を見ました。」とあったので調べて見ると「航空と文化」(http://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/2011.04.15koshida.htm)に、当時操縦士として乗務した越田利成氏が記述していた。

そこから拝借した写真である。

終戦直前にこの上屋に住んでいたことがあるが、当時は紅毛城前の烽火に移っていた。

このほか、海軍の残存九十七式大艇も白い塗装に緑十字をつけて南洋方面でマラリアなど苦しむ将兵のために食糧や医薬品を空輸している。

2013年03月19日

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川西式四発飛行艇「神津」

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終戦直後の9月9日、横浜から飛来した大日本航空海洋部の川西飛行艇「神津」(J−BACT)である。

一昨日、(2010年11月27日掲載の「小公園」に)コメントを付けてくれたYさんが写真の出典を教えてくれたので、台湾師範大学の曽令毅の論文「航空南進と太平洋戦争:淡水水上機場の設立と発展」から転載した写真である。

昭和9年に海軍から川西航空機(株)に九試大型飛行艇の試作指示があり、同年11月に菊原静雄技師を設計主務者として設計に着手された(社内名称S型大型飛行艇)。

1号艇の初飛行は11年7月14日、近藤勝次操縦士により行われ、同月25日に海軍に領収された。
九試大艇は昭和13年1月に97式1号飛行艇と呼ばれることになったが、製作されたのは合計4艇である。
その後、昭和17年までに179艇が製作された。
97式飛行艇は7.7ミリ旋回銃4丁、20ミリ旋回銃1丁、60キロ爆弾12、あるいは500キロ爆弾2を搭載する遠距離哨戒/爆撃飛行艇であったが、このほかに武装のない97式輸送飛行艇36艇(15号艇、16号艇の改装を含めると38艇)が製作された。

このうち、大日本航空海洋部の使用艇は18艇、残りの20艇は海軍で運航された。
日航艇には「綾波」、「漣」、「磯波」、「あさしほ」、「叢雲」、「白雲」などの艇名が付けられている。

昭和16年の開戦に伴いインドネシアのアンボン島の934航空隊に配属になった北出少尉の著述によれば、彼は横浜航空隊で海軍の新任者と日本航空海洋部の操縦士の操縦指導をしていたという。

淡水郵便局裏の淡水河に繋留された「神津」の背景に郵便局の別館が見える。
その左は淡水郡役所裏の広場であろう。

別館の上には淡水公會堂の本館と洋館とそこに登る細い坂道が見える。

このあと、公会堂の裏側に大きな中正路が貫通した。このとき煉瓦建ての立派な幼稚園がとりこわされ、淡水小学校や女子公学校は中正路の向こう側の高台になり、公会堂の跡に建設された図書館からそこに行くために陸橋が架けられた。

私は幼い頃、高台にある公会堂から水面滑走する飛行艇を見たことも、河岸で繋がれている状態も見たことがあるが、淡水河に繋留されている川西大型飛行艇の写真を見たのは今回が初めてで、少し興奮している。


2013年03月20日

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公会堂の前の坂道

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戦前、公会堂の建っていた高台から馬偕博士旧居に降りる坂道の写真を見つけた。

制服を着た中學生が登っている坂道はまだ細く、路面は石畳のように見えるが、後に見える階段のように成形されたものではない。

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この写真は、上のものより少し離れて撮ったものである。

アングルの関係か、上の写真では見えなかった長老派教会の尖塔が見える。

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これは高台の上から撮ったもので、左にゆく舗装されていない道路の縁石は幼い日に見た覚えがある。

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この写真は、もう少し後に撮影されたものらしく、背景の家屋が増築されている。

そして写真の左に公会堂の生垣と洋館の一部が見える。

カメラの後方を行くと淡水小学校と女子公学校があった。

写真は(http://www.tamsui.org.tw/old-photos/)から転載したものである。


2013年03月21日

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淡水河の落日

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公会堂前の縁石に腰を下ろして、青年と子供が淡水河口に沈む夕陽を眺めている。

往時を偲ばせる長閑な写真である。

河を背にした中央の大きな建物は郡役所であろう。

祖母の弟の一人、山本 保氏は郡役所に勤めていた。
住まいは水源街の近くの街外れだったような気がする。


2013年03月22日

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2010年9月末の淡水中正路

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2010年9月29日に淡水に帰り、CHMさんやKGさん達と鎮公所(現:区公所)を訪問したあと、その入り口のステップから中正路を撮った写真である。

淡水信用合作社の向かい側の「許明祥命相館」と看板の立っているところが戦前、黒川さんが塩屋を営んでいた建物である。

現在は、店舗も変わっているようであるが、建物は隣接する建屋と同様、当時のままである。

このときはCHMさん、KGさん、現地の皆さんに大変お世話になった。

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これが戦前の、ほぼ同じ区画を撮った写真である。

すっかり変わってしまったところもあるが、同時のままの建物が残っているところもある。

戦前の古蹟を復元し保存しようという地元の努力も払われ整備されている。

清朝の税関吏邸の建物は戦後、お化け屋敷のように荒れ果て、1990年代に廃棄されることになったが地元有志や学者の熱意で古蹟として残った。

一方、1937年に新街に出来た淡水劇場は、歌仔戯、新劇、特技団や無声映画を上演していたが、1944年の爆撃にも生き残り、1947年の228事件のときには、ここで集会も行われた。

LCさんの知らせてくれたところでは、1995年に内装の工事中に焼失してしまった。1994年1月に淡水劇場は古蹟として保存することが決まっていたのに、2005年に鎮公所は焼跡を撤去すると公表した。
驚いた古蹟保存団体は取り壊しを見合わせるよう要請したが、鎮長は古蹟審査会の同意も得ないまま1月20日に取り壊しを開始した。1月24日に文化局古蹟調査委員が現場に到着したときには瓦礫の山であったという。

昔日の淡水街の町並みや建物を保存して欲しいが、街が大きく発展しようとするとき、旧街区の再開発が必要な場合もあろう。

兼ね合いとは難しいものである。


2013年03月23日

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台湾の農家

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台湾の農家は日本のように木造ではなく、煉瓦建てである。

基本的に中庭を囲んでコの字に建てられる。

正面には正廳があり、神々や祖先を祀っている。

正廳を背に左側に家族が住む。

そして弟は右側に住むことになる。

この挿絵は加藤嘉子さんの「古老的台北地図」の左下余白に描かれたもので、右には未だ建屋が建っていない。

名古屋の近郊、犬山に明治村として、古い日本の建造物を移築したテーマパークがある。これを国外に拡張したのがリトルワールド(http://www.littleworld/)があり、ヨーロッパではドイツ、フランス、イタリアなど、アジアではインド、ネパール、トルコ、タイなど世界各国の建物が移築され、関連する店も出している。

そのなかにある台湾の農家も典型的なものである。
見学に行ったときは、中で手仕事をしていたり、実に懐かしい思いをしたものである。

挿絵では、中庭に鶏が飼われ、手前にはパパイヤ、背景には椰子が描かれている。
弟が所帯を持ったら右側に建て増しされ、コの字型になるのであろう。

2013年03月24日

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今日は父の誕生日

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今日は父の誕生日である。

1912(明治45)年の生まれだから、生きていたら101歳になる。

この写真は1973(昭和48)年に責任技術者資格更新にあたって撮影したものである。

父は1998(平成10)年10月20日に亡くなった。
86歳であった。

立派な父であった。

もっと孝行しておけばよかったと思う。


2013年03月25日

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母のこと

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母は、6歳のときに祖母に連れられて渡台した。

そしてすぐ、淡水小学校に入った。
当時、小学校は日本人の子女だけでなく本島人の子供も通学していた。
ただ、日本語は既習として授業が行われるので日本語の会話が出来ることが前提であった。
屡々、当時のことを教えてくれるカリフォルニアのLCさんのお姉さんも淡水小学校に通っていた。
年次は同じではないと思うが、女子児童の記念写真(本欄:2011年4月22日、同5月11日)に母と一緒に写っている。

1929(昭和4)年の春、母は台北第一高等女学校に入学した。

見出しは台北一高女の運動会の写真で、裏に「簡氏、高田先生、八木先生、昭和六年」と鉛筆書きのメモがある。
帽子を着用しているのは生徒であろう。

しかし翌年、徳山高女に転校した。
山口県には母の親戚が多かったから、一年間預けられたのであろう。

後に山口県笠野の親戚からマキ子さんが淡水に来て、台北第二高等女学校に入り、母と同様、淡水から列車通学していた。

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この写真は、徳山高女の修学旅行で二見浦で撮ったものである。
裏には右から「下村清子、岩本安佐枝、(母)、山崎郁子」とメモがある。

卒業後は淡水に戻って、祖母が街の嘱託となって住み込んでいた公会堂に帰った。

2013年03月26日

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長老派教会

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淡水の長老派キリスト教会は、カナダから初代の海外宣教師として馬偕博士が来台したことに起源する。

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最初、馬偕博士は清軍の馬小屋を借りて礼拝の場にしていた
(上の写真で左上に矢印がある)。

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彼の没後、1915年に100人を収容できる白亜の教会が建てられた。

3代目にあたる現在の教会が設立されたのは1933年のことである。

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煉瓦建ての教会にある美しいステンドグラスは1986年の改修時に取り替えられたものであるという。

2013年03月27日

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台湾の注音符号

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台湾では端末のキーボード入力のときも、携帯でメールを送るときも「注音符号入力法」によっているという。

喜早天海氏の著書「台湾見聞録」のなかの「台中音頭」の一番の歌詞の中に「ボフォモフォ ダタナラ」という呪文のようなものが載っていて何のことか判らなかった。

あとでこれが注音符号のことだと判った。

台湾の声調には8声あるが、6声は(殆ど)存在しないので実際には7声であるという。
注音符号で入力するキーボードを捜していて見つけたのが上図である。

文字を見ても発音が判らなければ入力できない。
そういうものであると思っておこう。


2013年03月28日

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台湾で地震

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「台湾中部でマグニチュード6.5の地震、台北でも強い揺れ。『921地震』以来最大規模」というニュースが飛び込んできた。

発生時刻は2013年3月27日午前10時3分頃、震源地は南投縣仁愛郷で震源の深さは15キロとか8キロとか様々な数値が報道されていた。
地図で見ると仁愛郷というのは霧社と呼ばれていた地域らしい。

集集鎮で一人亡くなったほか、同縣や隣接する台中縣などで数十人の負傷者も出たという。

被害の少ないことを願うばかりである。


2013年03月29日

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櫻が開花した

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やっと櫻が開花した。

とは言っても近年、開花時期が早くなった。

十数年前は4月3日になっても未だ咲いていなかった。
4月3日というのは、月遅れの桃の節句で、花が咲いていてもいなくても花見にゆく風習があった。

上掲の櫻は祇園新道の街路樹で、ソメイヨシノである。
お伽噺の花咲か爺さんは「枯れ木に花を咲かせましょう。」と言うが、ソメイヨシノは未だ葉芽も出ない、枯れ木のような枝に満開に咲く。

西洋人はサクラというと桜色、すなわちピンクと思っている様であるが、実際には限りなく白に近い。

私は薄赤い葉芽とともに咲くヤマザクラが好きであるが、花見の会場になるような街の公園は殆どソメイヨシノが多く、ヤマザクラを見る機会は少ない。

一度、ヤマザクラの名所、吉野山の千本桜を見たいものである。

台湾でも櫻の植樹が行われていると聞くが(淡水の天元宮など)櫻の品種は河津櫻(カワズザクラ)である。
気候が違うのでソメイヨシノは土地に合わないのかもしれない。

2013年03月30日

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淡水の桜並木

sakura_1.jpg

淡水にも桜並木があるそうだ。

MRT淡水駅から山寺をまわって鄧公路に沿って行き、小さな橋を渡ると「滬尾櫻花大道」に出る。

そこから櫻並木が続いているようである。

案内の絵地図によると農園などもあるらしい。

良い季節に訪台するときには行って見たいものである。

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