稲葉紀久雄氏による「近代水道を敷設した都市の医師:浜野弥四郎」によると1896(明治29)年、8月にバルトンと一緒に台北に行ったが、駅で衛生課長、文書課長とともに彼らを迎えたのは淡水の水道事業の主任をしていた牧野實技師であった。
LCさんが昨年、1975年に渡米後最初に帰国したときに撮った写真を送ってくれたが、そのメールには次のような事情を教えてくれた。
淡水は台湾で最初に水道を敷設した。1899年のことである。
大屯山の麓から重力を利用して泉水を淡水街まで引いて供水した。
当初は個人の家屋に配管するのではなく市街地に23箇所の消防兼用の供水栓(水道頭、あるいは水管頭と呼ばれた)を敷設した。
附近の婦人連が炊事や洗濯をしながら「水道頭端会議」で情報交換をしていたのであろう。
子供は冬でも、ここで冷水浴で遊んでいたという。
(個人の家に上水道を敷設したのは砲臺埔の淡水鎮長官舎であったと言われている。)
なお、当時は写真の水管頭の頂部に半球型の蓋があったそうである。
日本特別展示会「滬道日安」(2009年12月23日)の資料によれば、1895年7月に台北縣淡水支庁長大久保利武がデンマーク人電信技師ハンソンに委託して実地調査を行い大屯山麓の水頭と滬尾に4ヶ所の湧泉を見つけ、滬尾水源、双頭、第三、第四湧泉を水源とする「淡水水道敷設計画」が提出された。
牧野實がバルトンと浜野を迎えに行ったときには、敷設工事に着手する直前であったらしい。
1899年にはバルトンが亡くなり、浜野が台北、台中、基隆などの上下水道を手掛けることになる。
台北の上下水道敷設は首都東京よりも先であった。
伝染病を撲滅し、都市の近代化を図るためであった。
児玉源太郎総督、後藤新平民政長官の頃のことであった。