台湾神社は京都にある圓山公園にちなんで、北海道神宮(札幌神社)が建てられていると同様に圓山公園という名の公園を造り、そこに造営しようとした。
しかし結局、広い平坦地よりも神域にふさわしい北隣の剣潭山に造営され、1900(明治33)年4月に地鎮祭を行い、翌年10月に神殿が竣工し、10月27日に鎮座式が行われ、28日に大祭が挙行された。
ちなみに、淡水神社は1936(昭和11)年に造営が開始され、1939(昭和14)年3月11日に鎮座式が行われている。
加藤嘉子女史の描く台北鳥瞰図から転載した。
基隆川に掛かる明治橋の淡水寄りには淡水線の鉄橋が掛かっていた。
当時、淡水線の駅は台北、大正街、双連、圓山、宮ノ下、士林、北投、江頭(関渡)、竹囲、淡水であり、台湾神社の表参道は圓山駅から延びていた。
宮ノ下駅は台湾神社の裏参道にあたる。
当時、陽明山は草山と呼ばれていた。
右上に青い文字で「草山」と書かれているが、このほか「天母」、「士林」、「宮ノ下」、「大宮町」「圓山町」、「大龍町」、「河合町」なども青文字で記入されている。
図に載っている剣潭寺は戦後、忠烈祠となった。
明治橋の手前には交番の文字が見えるが、現在も警察署のような立派な交番が建っている。
圓山公園には動物園や小さな遊園地もあった。
圓山公園が整備されていたので博物館から放送局までにわたって造営された公園は新公園と呼ばれていた。
戦後は台湾神社のあとにホテルが建ったが、宋美麗が買い取って圓山大飯店に再建した。