台北の街は、大陸の街のように城壁に囲まれていた。
交易するジャンクは淡水河を遡ってに荷揚げしていたが、後には大稲珵に移り、倉庫を持つ商人の館が建ち並んでいた。
、大稲珵、それに城内の三地区が台北の市街地であった。
城壁には四方に門が築かれていたが、近代都市にするために上下水道と道路の整備が計画された。
それに市街地の拡大も必要であった。
そのため、城壁を撤去して広い舗装道路が設けられた。
城壁の内側と外側にあった路も整備され、街路樹で仕切られた三本の道路となった。
これを人々は三線道路と呼んだ。
城壁が撤去されるときに城門は残された。
景福門(東門)、麗正門(南門)、承恩門(北門)、それに西門である。
加藤壽子さんが、大窪四郎さんが描いた「台北博覧会ガイドマップ(1935年)」を参考に1993年に描いた「旧台北イラストマップ」にはこれらの門が描かれている。
上図の下辺ほぼ中央に東門、左辺下部に麗正門(南門)、その上部に小南門、上辺右側に北門という文字が見える。
そして、これらの門のならびに街路樹で仕切られた三線道路が描かれている。
中央に見える博物館から放送局まで広がる公園は、先に圓山公園が出来ていたので新公園と呼ばれた。
母が台北帝大付属医院の外来に行ったときに、連れて行かれ新公園を歩いたことをおぼろげながら憶えている。