もう少し河口の方を見ると、ゴルフ場、砲台、燈台、海水浴場のほかに海水浴場、無線電信の文字が見える。
この地図の描かれたあとで、油車口の河岸近くに鳥居が立てられ、砲台の方へ参道が造られて淡水神社が造営された。
その鳥居から遠くないところに燈台の文字が見えるが、実は鉄塔なので燈台ではなく燈塔である。
当時、台湾海峡に向かって海水浴場という文字が見える。
沙崙に海水浴場があったのだろうか?
この辺りは清法戰爭のときにフランス軍陸戦隊が上陸したと思う。
その後、淡水河の方に遠浅で波の穏やかな街営の海水浴場「和樂園」が出来たのであろう。
その和樂園の運営を任されていた浅野タツを頼って祖母の原田ユクが幼い母を連れて渡台したという。
上の地図にはそのほかに無線電信、海底電信陸場という文字が見える。
台湾全島から発信された電報は淡水から長崎に敷設された海底電線で内地に送信された。
日露戦争の頃から実用化されていた無線通信も、淡水の無線局から遙か洋上の船舶や南方に向かって発信されていた。
当時、淡水の郵便局は電信局も兼ねていた。
上の地図で見るととても遠く生活にも不便であったのであろう。
淡水会の豊福さんは幼少時ここで暮らしていたのだろうか?
現在は遠洋漁船向けの気象情報などを伝送するために高いアンテナが林立している。