2010年9月に淡水に帰ったときに、陳淑女先生に「淡水國小九十周年記念誌」を戴いた。
上掲の図はその記念誌に載っていた「淡水街附近」という略地図である。
何年頃のものか定かでないが、当時中洲が大きかったことはこれで判る。
しかしちょっと縮尺が過ぎるので、先ず停車場寄りの部分を取り上げてみる。
この地図に公会堂は載って居らず、鳥居のみが描かれている。
これは淡水稲荷社であろう。
1928年の昭和天皇即位大典記念行事として寄付金を募って公会堂をが、の西隣に建てられたらしいので、それ以前の略地図であろうと思われる。
その近くの河岸沿いに郵便局と郡役所があり、鳥居の山側には小學校が描かれているが、LCさんによれば煉瓦建ての立派な幼稚園のあった場所だという。
そこから西寄り(河下側)の紅毛城の下手に台湾銀行(淡水支店)と税関が見える。
淡水は日本郵船や大阪商船のような外航船も出入りしており、出入港の水先を務めるパイロットも住んでいた。
しかし淡水河の堆積で喫水の深い船は航路開設後間もなく入港出来なくなった。
施合発の木材船は沖で木材を水面に降ろして筏に組み、喫水を浅くして接岸していた。
この地図の描かれた後、区画整理によって新路(後の中山路)が敷設された。
停車場から公会堂や郵便局、郡役所までは数百メートル離れていたが乗合自動車もなかったので人力車が街角で客待ちをしていた。
その後、香港やシンガポールと内地を連絡した飛行艇は郡役所裏の水面に繋がれていたと思う。