先日、LCさんから淡水の写真を届けて貰った。
『淡水の上下水道』
『淡水は台湾で一番目に水道水を引いたと自慢する。
調べたら1899年に大屯山の麓の泉水を水源地から、自然水を濾過もせずに重力を利用して淡水街まで引いて供水したと記録にあった。
当初は、個人の家屋に配管する贅沢はなく、街のあちこちに23箇所の供水栓(消防栓)と称した公共供水、台湾語では「水道頭」または「水管頭」を建設した。
付近の婦女たちはこの「水管頭」に集まり炊事の仕度から洗濯までしながら「ぺちゃくちゃ」お喋りして情報交換をした。
實に「井戸端会議」宛らの「水道頭端会議』で微笑ましい。
私の記憶に残る「水管頭」は家から5軒先の曲がり角で、子供の頃は冬でも裸で冷水浴して遊んでいた、と姉さんたちが思い出しては言う。
1975年、渡米後第一回目の帰国に撮った写真の一枚に、何と思い出の「水管頭」、半円型の蓋はなくなっていたが、写っていた。
個人の家に水道水を引いたのは大分後になるが、記憶の水道管は鉛の管でレンガ造りの家の壁の下に沿って街道から炊事場まで引いていた。
夏になると冷たい水道管に水滴が凝結していたのを思い出す。
「洗濯」と題した私の写真は1962年頃、台北市沙龍撮影学会の月例入選作品で、清水祖師廟の表庭坂の下にあった「水道頭」で洗濯する人たちをテーマにした写真で、干してあった洗濯物を前景に配して作品の遠近感を強調した。
この写真をよく見ると、坂に沿って坂道の右側に見えるのが排水溝、俗に言う「ドブ川」で、これは正しく当時の淡水の下水道でした。当今の下水道は便所の汚物から生ゴミ粉砕機のゴミまで流すから、汚水は一旦処理してから川や海に流す。
想えばあの頃の汚水は処理必要のないまま、淡水川に直接流していたと思う。』
ありがとうございます。
身辺の雑事に煩わされて、アップロードが一週間ほど遅れて申し訳ありませんでした。
以前、LCさんから送って貰った資料によると、台湾で初めて敷設された上水道が住居に引き込まれたのは淡水街長(多田栄吉)宅だったらしい。
父が引き揚げ後、焼け野原の広島に来て水道工事をしていた頃、水道管は鉛管から鋳鉄管になった。鉄管も古くなると腐食して漏水することもあるが、塩ビ管などは結氷時に割れるのが難点であろう。
水道屋の倅だったのにこの方面の知識にも疎くなってしまった。