祖母は幼い母を連れて、淡水街営の海水浴場「和樂園」を管理していた伯母の浅野タツのところに寄寓した。
ゴルフ場と同じように台湾で初めての海水浴場の施設であった。
シーズンには鉄道の淡水線の割引切符が発行されたり、停車場から海水浴場へのバスも増発されたりしていたという。
小学校も公学校もよく利用していたそうである。
公学校の1939(昭和14)年3月卒業のアルバムにも写真が載っている。
父もメモに海水浴場に連れて行ったことを書き残している。
「(前略)夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが3匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。(後略)」
運動帽もひよこの海水着も海水浴場の忘れ物であった。
カリフォルニアからLCさんも写真を届けてくれた。
「淡水海水浴の和樂園へは幼稚園、公学校の頃、度々行っていましたから、記憶は鮮明です。
日本座敷は無論畳敷きで障子を開ければ板の縁側、縁側から飛び降りると、砂原で太陽に焼けた熱い浜辺を海に向かって駈けて行きます。
頭を上げて真向かいを見ると観音山です。添付の写真参照。
ですから和樂園のあった所は間違いなく淡水川の出口で、燈台の横、今は漁人碼頭になった海水浴場です。
スケッチの旧海水浴はシナ海に面した方面で観音山は見えません。
行き慣れた海水浴場が新海水浴場で、その前に旧海水浴場があったとは初めて知りました。」
と教えて貰った。
漁人碼頭は、漁港とマリンレジャー兼用施設として戦後整備されたものである。
(大戦末期には演習場や射爆場に使われていたため荒れ果てていた)
この写真は戦後、父が初めて訪台したときの写真である。
当時未だ漁人碼頭は整備されていないので、一時的に外海(台湾海峡側)に設けられていたのであろうか?
ゲートが設けられているが、海浜遊園地みたいなものであろう。