一枚の手書きの地図から往時の淡水を偲ぶことが出来る。
8月9日付けの本欄で、縮小表示されても文字が見えるように横向きの図を提示し、12日付けで部分図を載せたらカリフォルニアのLCさんから写真が送られてきた。
その写真にはLCさんのお姉さんと横浜のクレゴーさんのお母さんが保母さんとして載っていた。
今日、また別の写真が送られてきた(上掲)。
LCさんは煉瓦建ての立派な幼稚園は、その近くに建てられた淡水小学校が、1920年代に淡水女学校と淡水女子公学校の間に移設された後に淡水小学校の付属幼稚園となり、1938年頃に、残されていた小学校の旧校舎に移転したのではないかと推察している。
そういえば、幼稚園の写真に写っている陳秀英先生が公学校の写真にも写っていた。
また、例の手書き地図には海水浴場のほかに、海水浴場という表示が見える。
淡水海水浴場は台湾で初めて設営された海水浴場であるが、和樂園のあった海水浴場の前に外海に面した砂浜に設けられたことがあるのだろうか?
戦後、父が訪れたときに撮影した海水浴場は、その辺りかもしれない。
私は引き揚げの時、未就学だったのでよく判らないが、当時の公学校、小学校に通った人でこのあたりの事情を憶えている人が居れば教えて戴きたいものである。