1945(昭和20)年8月15日の正午にラジオで重大放送があると知らされていたので全員、善光寺の本堂に集まって正座して放送を待った。
淡水小学校の児童が北投庄の山上にある善光寺に学童疎開していた。
祖母や母は、その保母として同行していた。
正午に放送が始まったが、雑音がひどくて聞き取れなかった。
しかし、ポツダム宣言を受諾する旨の敗戦の詔勅であることを予め聞かされていたのであろう。
皆、泣き崩れていた。
しかし、それで生きて淡水の街に帰ることになった。
引率教員の一人は「さらばラバウル」の替え歌を作り、皆で下山するとき唱った。
大陸や半島では終戦直後の治安は良くなかったようであるが、淡水では前日までと同様の生活が続いた。
盗難もなかった。たまに取り込み忘れた洗濯物が無くなった程度のことはあったようであるが・・・。
家財道具を処分し、引き揚げるときも、名残を惜しんで多くの人達が淡水駅に見送りに来た。
なかには引揚船に乗船する基隆まで見送りに来てくれた人もいた。
今でも私の故郷は淡水である。
コメント (1)
8月15日の記事の一句、「淡水は今でも私の故郷です」は感激しながら読ませて貰
いました、故郷を離れて早くも半世紀の私も同感ですから。
又の一枚の「私の幼稚園卒業写真」を添付します。この一枚は1937年組、私が5
歳の時の写真です。(小生は最前列、左から2人目の生徒です)この一枚は淡水公学
校での記念写真、前列一番右側の女先生は、かの有名な淡水公学校の陳秀英先生で、
後ろ横は私の一番上で貴方の母上様と同窓の幼稚園の姉さんです。後ろに多人の淡水
公学校の導師が写っていますが、廣川さんのお父様からの導師写真集と比べて見まし
たが、どの方がどの方と判断できませんでした。
因みに、前日の「私の幼稚園卒業写真」は1938年版で私が6歳の時、幼稚園の建
物、旧小学校の前での写真です。(小生は前から二列目、左から4人目)
さて、どうして二枚の幼稚園卒業写真がある理由は、私は末っ子でお母さんに甘えん
坊、見兼ねて幼稚園の先生の姉さんが他人より2歳も年下で、私を幼稚園に入れまし
た。1937年、1938年の同窓が皆揃って公学校へ進学出来るのに私一人だけ取
り残された悲しみに、不満いっぱい、そして独断で幼稚園を辞めて付近のガキとグル
を組んで、淡水の街を隈なくさまよい歩いて一年を過ごしました。
これから書くのはミステリー、昔の探偵小説の分野でしょう。
3枚の写真、貴方からの母上様の小学校写真は1920年代、私の二枚の幼稚園卒業
写真は1937年と1938年。推測するに旧小学校が新校舎に移ったのは1920
年代で、旧小学校は放棄されたままで、幼稚園は淡水公学校の付属の幼稚園として発
足したのは年月不明、私の1937年組を最終組として幼稚園は旧小学校へ移ったと
考えられます。
投稿者: 張 冷學 | 2012年08月16日 07:06
日時: 2012年08月16日 07:06