今回、淡水國小九十周年記念誌に載っていた淡水街付近図を掲げたら、LCさんから淡水幼稚園であったと知らせて貰った。
LCさんには以前、街中にあった杉塊庭から公会堂の裏に新しい中山路を造るために煉瓦建ての立派な幼稚園が取り壊されたと、詳細な朱書きを添えた航空写真を送って貰ったことがある。
今回の略地図でそこが小学校になっていたことを知ったという。
その縦貫道路建設のために小学校は、女子公学校と女学校の間に移転したが、戦後は淡水初級中學になったそうである。
それにしても手書きの略地図で、よくそれが判ったものと感心する。
LCさんのコメントを再録する。
「淡水の旧地図にあった小学校は私の幼稚園だと初めて知りました。大きな樹の下、画家たちが好んでそこから教会を前景、観音山を背景にした「典型的な淡水」を描いた地点です。
新しい小学校は女子公学校の横、女学校との中間で、戦後は「淡水初級中学」と生まれ変わりました。尚、初代の校長は杜聡明博士の甥に当たる、当時の鎮長、杜麗水氏でした。杜氏は子息の杜武豪医師を頼って当地に移民、そして此処で他界しました。228事件の時、何も知らずに帰ってきた楊三郎画伯に国民党が目下貴君を捜査中と知らせ、小舟で逃したのも杜氏でした。
幼稚園は大きな講堂のような建物で(添付、小生の幼稚園卒業写真参照)、生徒の数から推測して、貴方のお母様や私の姉の小学校は多分、新しい小学校だったと想います。
因みに五人の先生の右から二人目が、去年のクリスマスの日に95歳で他界した姉で、横浜のクレゴーさんの母上もその内の一人、又の一人は、淡水の烈士、雷燦南の姉上、友梅さんです。」
コメントにある「画家たちが好んで描いた、全景に教会、背景に観音山を配した『典型的な淡水』を描いた地点」の位置も、その風景画も送って貰ったことがある。
LCさんのお姉さんと横浜のクレゴーさんのお母さんが、そこで共に先生であったことも驚きであった。
LCさんのお姉さんと言えば、移転後の小学校で母と一緒に記念写真におさまっていたお姉さんは別のお姉さんであったのだろうか?
皆さんに、いろいろ教えて貰って故郷淡水のことが少しずつ判るようになって喜んでいる。