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淡水街付近図(その2)

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先日の本欄に載せた「淡水國小九十周年記念誌」に縮尺掲載されていた淡水街略図の続報である。

この地図の描かれた頃は、まだ公会堂も淡水神社も造営されて居なかったことが判る。

また台湾海峡に面して海水浴場と海底電信陸場という文字が見える。

淡水海水浴場は、ゴルフ場とともに台湾で初めて設営されたもので街営の施設であったが、当初外海に面して計画されたものが、水面が穏やかなことや遠浅の河口部に移設されたのであろうか。

海底ケーブルは淡水河口と長崎との間(681浬)に敷設され、1910(明治43)年に完成したものである。

台湾から内地向けの電報は全て淡水局から発信された。

このほか、福州や香港との間を航行する定期船や、漁船への通報などのために無線局も設けられた。

これらの施設の設置位置は殆ど知られていないので、その意味では貴重なものである。

コメント (1)

張 令學:

淡水の旧地図にあった小学校は私の幼稚園だと初めて知りました。大きな樹の下、画家たちが好んでそこから教会を前景、観音山を背景にした「典型的な淡水」を描いた地点です。

新しい小学校は女子公学校の横、女学校との中間で、戦後は「淡水初級中学」と生まれ変わりました。尚、初代の校長は杜聡明博士の甥に当たる、当時の鎮長、杜麗水氏でした。杜氏は子息の杜武豪医師を頼って当地に移民、そして此処で他界しました。228事件の時、何も知らずに帰ってきた楊三郎画伯に国民党が目下貴君を捜査中と知らせ、小舟で逃したのも杜氏でした。

幼稚園は大きな講堂のような建物で(添付、小生の幼稚園卒業写真参照)、生徒の数から推測して、貴方のお母様や私の姉の小学校は多分、新しい小学校だったと想います。

因みに五人の先生の右から二人目が、去年のクリスマスの日に95歳で他界した姉で、横浜のクレゴーさんの母上もその内の一人、又の一人は、淡水の烈士、雷燦南の姉上、友梅さんです。

お元気を回復、待っていた毎日のブロッグの再開、嬉しいことです。

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2012年08月12日 12:48に投稿されたエントリーのページです。

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