« 2012年07月 | メイン | 2012年09月 »

2012年08月 アーカイブ

2012年08月01日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

龍目井界隈

ryumokusei_4.jpg

両親が結婚した当初(1939年)は公会堂の裏にあたる淡水小学校や女子公学校近くの宿舎に新居を構えたらしい。

その後、間もなく新店街で塩屋を営んでいた黒川さんの2階を借りて住んでいた。
3間あり、広廊下あり、ベランダありでとても住みやすい家であったという。

お産が近くなって、祖母が管理人をして食堂や仕出しを営業していた公会堂に移った。
そこで私が生まれた。昭和15年は皇紀紀元2千6百年であり、その紀元節の前夜であった。
産婆さんは市川ヲコさんであった。
資生堂の広瀬さんや公学校長夫人の松田サトさんなどもお祝いに来てくれた。
大事に育てられ過ぎたのか、よく医師の李樹林にお世話になった。

翌年、祖母は公会堂の管理人(街の嘱託)をやめ、丹羽先生が転勤で空いた龍目井の家に移った。
玄関は郵便局に近い路地を入ったところで竜舌蘭や虎の尾が植えてある家であった。裏口は同僚の安武先生の家の裏口に通じていた。窓側に掛樋を掛け、縁先に四角い水槽を据えて金魚を飼っていたという。
妹の恭子は龍目井で生まれた。大東亜戦争開戦1周年記念日であった。

1943(昭和18)年の春、父が三芝公学校に転勤になったので龍目井に住んでいたのは長い期間ではなかった。

龍目井は淡水街でも古くから家の建ち並んでいたところである。
海水浴場や、旧砲台淡水神社のある油車口から来た河岸道路と淡水駅から来た舗装道路が交わるところで、ここで道路が微妙に方向を変えており、そこに小さな三角のスペースが出来ていた。

ryumokusei_7.jpg

この写真は大正から昭和初期の写真であると思われるが、左手前で河口から来た路が左斜めに曲がってその両側に出来た空所に木が立っているのが判る。

その後、この両側の小さい三角形の地に低い木柵を作って、ここを小公園と呼んでいた。現在、マッカイ博士の頭像のあるロータリーである。

我が家の入り口は、その小公園を郵便局(河口側)の方によった路地にあったが、その路地を出たところに散髪屋があった。ここは戦後も営業していた。
裏口で通じている安武先生の家はこの小公園に面していた。
そしてその斜め向かいの興亜医院で、ボストンの博士は生まれている。

Cheng family 1943.jpg

これはご母親に抱かれて鄭医師と撮影された幼子の頃の博士の写真である。

新店街で黒川さんが塩屋を営んでいた建屋は、改装/補修されならが現在も残っており、信用組合の楊さんが写真で様子を知られてくれるが、龍目井の辺りの建物は興亜医院を含め、すっかり変わっている。

ryumokusei_8.jpg

この写真は、2010年9月29日に、ボストンの博士と、横浜のKGさんと現地で合流し、当時の鎮公所を表敬訪問したあと、孫さんに案内して貰ったときのものである。

孫さんは青いテントの張ってあるペットショップのあるところが我が家のあとであると教えてくれたが、幼い記憶によればその向こうに見える十三行の看板の辺りを入った路地のような気がする。
安武先生の住んでいた家は小公園に面していたから、書士事務所かその隣の食物屋か陶笛屋の建っている辺りであった筈である。
いずれにしてもこの辺りはすっかり建て替わり、小路も付け替わっているので特定することは出来ない。

龍目井のロータリーからはすぐ河岸に出ることが出来る。

ryumokusei_9.jpg

陶笛屋さんの横の道から淡水河の河岸道路が見える。
こんな小さな道でも舗装されており、LPGボンベを3つくらい載せたバイクが飛び出してくるから油断は出来ない。

この近くには日本産の米も売っていた米穀商、伊良波もあった。

2012年08月02日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台風9号で休講、閉店相次ぐ

Kannonzan_2.jpg

上掲の写真は、MRT淡水車站から広がる河岸公園から眺めた観音山である。
いかにも夏らしい色である。
一週間ほど前、淡水の楊さんが送ってくれたなかの一葉である。

その後、台風9号のため、昨夜教授と行う予定であったミーティングを中止したということである。

8月2日は、基隆市、台北市、新北市、桃園市は休講と決まった。

今回、台風9号と10号が同時に来襲したが、9号は台湾に、10号は種子島、屋久島を抜けて西方に移動中である。

南西諸島、先島諸島、それに台湾は台風銀座である。

2012年08月03日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台風9号、台湾東部を寸断

TRK0311g.jpg

台風9号は台湾全域に甚大な被害をもたらしたと報じられている。

花蓮や太魯閣など台湾東部では道路と鉄道を寸断させたようだ。
速やかな回復を祈るのみである。

上掲の写真は2009年3月に初めて訪れた太魯閣の一齣である。
余りにも壮大なパノラマで、その情景を写真に納めることが出来なかった。

2012年08月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

颱風9号の淡水河速報

TansuiRiver120803a.jpg

Cさんから、8月3日朝の淡水河の写真が送られてきた。

台風9号は2日未明に台湾に上陸し、土砂に巻き込まれるなど5人が亡くなり、6000人以上が避難したと報じられている。
新北市では道路が大幅に陥没したという。

いつも清流の淡水河が増水して濁っており、木の枝か何か流れている。

淡水の街も坂や崖の多い街だから心配している。


2012年08月05日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

颱風9号続報

Mackay_3.jpg

ボストンUSAの博士が、颱風9号被害状況の写真を届けてくれた。

馬偕博士が1872年に帆船「海龍号」で淡水に上陸した地点に銅像が設置されているが、颱風の高潮で腰の辺りまで水浸しになっている。

馬偕博士はカナダ・キリスト教長老派の牧師であったが、同姓で有名なクリッパー船長であったマッカイ船長の未亡人から寄付を受けて北部台湾最初の西洋式診療所「滬尾偕医館」を建てた。龍目井の小公園(現:三民街ロータリー)に馬偕博士の頭像が立っている。


2012年08月06日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

雨の龍目井

ryumokusei_5a.jpg

この写真はボストンUSAの博士に送ってもらったものである。

現在、馬偕博士の頭像の立っているロータリーから河岸側を見たものである。

大きなビクトリア調の木造建築であった郵便局も建て替わっている。

龍目井に住んでいた頃の我が家は郵便局から少し手前に来て路地を入ったところであった。
そしてこの写真の正面あたりが同僚の安武先生の住まいであった。
この辺りの建物は建て替わっている。

TansuiTown_1920.jpg

この写真は1920年代に紅楼から見下ろしたものである。

大きな屋根の郵便局がランドマークになっていた。
現在、AMANDA喫茶店のあるところに木造の興亜医院が建っていた。

長老派教会も再建前のものである。

2012年08月07日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

木下静涯記念公園

SeigaiPark_1.jpg

淡水では戦前の建造物や施設を復元/保存する事業が着々と進められているが「木下静涯記念公園」もその一つである。

木下画伯は、台湾四画伯の一人として台展審査員などを務めておられた。
しかし、教壇に立つこともなく見晴らしのいい高台に居を構え、雨後の観音山の色紙や仏桑華の短冊などを描いておられた。

seigai_1.jpg

SeigaiTansui_1.jpg

戦後、我々と一緒に引き揚げられ、北九州で百歳の天寿を全うされた。

shohkohen_12.jpg

当時、小公園の裏の紅楼の近くに住んで居られた。

SeigaiStep_1.jpg

そこに上がるためには狭い階段や坂を登らなければならなかったが、最近建屋を撤去して立派なエントランスが出来た。

koujitsu_1.jpg

園内には、画伯がよく言っていられた「好日好日、又好日」の文字が刻まれている。

こうして現在の淡水の様子をすぐ知らせて貰えるのも有難い。


2012年08月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水神社の社殿

Tansui_a.jpg

捜していたら、「淡水神社」の写真が出てきた。
出所は判らないが、当時の絵葉書のようである。

私も帰国後何度か淡水に行ったが、淡水神社は少し河口に寄った油車口にあるので淡水神社を訪ねたのは戦後何度目かの渡台のことであった。

今は淡水和平公園が整備され、日本家屋や慰霊碑などが建てられており、近くの旧砲台は博物館になっている。


2012年08月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水街付近図

Tansuigaifukin_a27.jpg

「淡水國小九十周年記念誌」に載っていた街の概略図を見つけた。

何時作成されたものか判らないが、停車場を起点とした各地点への距離も載っている。
海軍墓地    0.2キロ
水 源 地    3.2キロ
役  場    0.2キロ
郵 便 局    0.5キロ
郡 役 所    0.6キロ
中 學 校    1.8キロ
紅 毛 城    1.9キロ
税  関    1.9キロ
砲 臺    2.6キロ
ゴルフ場    2.8キロ
燈  臺    2.6キロ
海水浴場    3.2キロ

市街地は斜線で示されているが、当時の中洲はずっと大きかったことが判る。

地図中に書き込まれているのは停車場、海軍墓地、水源地、役場、男子公學校、小學校、郵便局、郡役所、女子公學校、中學校、紅毛城、台湾銀行、税関、砲台、ゴルフ場、燈台、海底電信陸場、海水浴、無線電信、海水浴場で、まだ淡水神社はなく、小學校の下に稲荷神社の鳥居が描かれているからおおよその作成時期が推定される。

道路も当時のものが描かれていると思って良いのだろう。

この記念誌を陳淑女先生に貰ったのは2010年9月であるが、余りに縮小されているので見落としていた。

2012年08月10日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

観音山

TansuiRiver15.jpg

ボート漕ぐ 淡水河の流れより 遙か眺むる観音山を

      陳珠璋

      (臺湾歌壇 第十六集から)

2012年08月11日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

白鷺

heron.jpg

首伸べて白鷺歩む 淡水の渚の波に灯りゆらめく

          陳淑媛

          (臺湾歌壇 第十六集から)


2012年08月12日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水街付近図(その2)

Tansuigaifukin_aa.jpg

先日の本欄に載せた「淡水國小九十周年記念誌」に縮尺掲載されていた淡水街略図の続報である。

この地図の描かれた頃は、まだ公会堂も淡水神社も造営されて居なかったことが判る。

また台湾海峡に面して海水浴場と海底電信陸場という文字が見える。

淡水海水浴場は、ゴルフ場とともに台湾で初めて設営されたもので街営の施設であったが、当初外海に面して計画されたものが、水面が穏やかなことや遠浅の河口部に移設されたのであろうか。

海底ケーブルは淡水河口と長崎との間(681浬)に敷設され、1910(明治43)年に完成したものである。

台湾から内地向けの電報は全て淡水局から発信された。

このほか、福州や香港との間を航行する定期船や、漁船への通報などのために無線局も設けられた。

これらの施設の設置位置は殆ど知られていないので、その意味では貴重なものである。

2012年08月13日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水幼稚園が淡水小学校に

TansuiYouchien_1.jpg

今回、淡水國小九十周年記念誌に載っていた淡水街付近図を掲げたら、LCさんから淡水幼稚園であったと知らせて貰った。

LCさんには以前、街中にあった杉塊庭から公会堂の裏に新しい中山路を造るために煉瓦建ての立派な幼稚園が取り壊されたと、詳細な朱書きを添えた航空写真を送って貰ったことがある。

今回の略地図でそこが小学校になっていたことを知ったという。
その縦貫道路建設のために小学校は、女子公学校と女学校の間に移転したが、戦後は淡水初級中學になったそうである。

それにしても手書きの略地図で、よくそれが判ったものと感心する。

LCさんのコメントを再録する。

「淡水の旧地図にあった小学校は私の幼稚園だと初めて知りました。大きな樹の下、画家たちが好んでそこから教会を前景、観音山を背景にした「典型的な淡水」を描いた地点です。
新しい小学校は女子公学校の横、女学校との中間で、戦後は「淡水初級中学」と生まれ変わりました。尚、初代の校長は杜聡明博士の甥に当たる、当時の鎮長、杜麗水氏でした。杜氏は子息の杜武豪医師を頼って当地に移民、そして此処で他界しました。228事件の時、何も知らずに帰ってきた楊三郎画伯に国民党が目下貴君を捜査中と知らせ、小舟で逃したのも杜氏でした。
幼稚園は大きな講堂のような建物で(添付、小生の幼稚園卒業写真参照)、生徒の数から推測して、貴方のお母様や私の姉の小学校は多分、新しい小学校だったと想います。
因みに五人の先生の右から二人目が、去年のクリスマスの日に95歳で他界した姉で、横浜のクレゴーさんの母上もその内の一人、又の一人は、淡水の烈士、雷燦南の姉上、友梅さんです。」

コメントにある「画家たちが好んで描いた、全景に教会、背景に観音山を配した『典型的な淡水』を描いた地点」の位置も、その風景画も送って貰ったことがある。

LCさんのお姉さんと横浜のクレゴーさんのお母さんが、そこで共に先生であったことも驚きであった。

LCさんのお姉さんと言えば、移転後の小学校で母と一緒に記念写真におさまっていたお姉さんは別のお姉さんであったのだろうか?

皆さんに、いろいろ教えて貰って故郷淡水のことが少しずつ判るようになって喜んでいる。


2012年08月14日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水河の中洲

TansuiMap_full_a.jpg

昭和十年代には大きかった淡水河の中洲も終戦の頃には随分小さくなっていた。
今は、干潮時にかろうじて砂洲が見える程度である。

上掲の地図は終戦直後に米軍が航空写真をもとに作成したものであろう。
中洲が小さく描かれている。

戦前にはで、ハマグリなどの貝掘りや蟹漬けにするシオマネキをとりに行ったものである。


2012年08月15日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

善光寺で聴いた玉音放送

zenkohji_1.jpg

1945(昭和20)年8月15日の正午にラジオで重大放送があると知らされていたので全員、善光寺の本堂に集まって正座して放送を待った。

淡水小学校の児童が北投庄の山上にある善光寺に学童疎開していた。
祖母や母は、その保母として同行していた。

正午に放送が始まったが、雑音がひどくて聞き取れなかった。

しかし、ポツダム宣言を受諾する旨の敗戦の詔勅であることを予め聞かされていたのであろう。
皆、泣き崩れていた。

しかし、それで生きて淡水の街に帰ることになった。

引率教員の一人は「さらばラバウル」の替え歌を作り、皆で下山するとき唱った。

大陸や半島では終戦直後の治安は良くなかったようであるが、淡水では前日までと同様の生活が続いた。

盗難もなかった。たまに取り込み忘れた洗濯物が無くなった程度のことはあったようであるが・・・。

家財道具を処分し、引き揚げるときも、名残を惜しんで多くの人達が淡水駅に見送りに来た。
なかには引揚船に乗船する基隆まで見送りに来てくれた人もいた。

今でも私の故郷は淡水である。

2012年08月16日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

一編の手書き地図から

36KIN1.jpg

一枚の手書きの地図から往時の淡水を偲ぶことが出来る。

8月9日付けの本欄で、縮小表示されても文字が見えるように横向きの図を提示し、12日付けで部分図を載せたらカリフォルニアのLCさんから写真が送られてきた。

その写真にはLCさんのお姉さんと横浜のクレゴーさんのお母さんが保母さんとして載っていた。

今日、また別の写真が送られてきた(上掲)。
LCさんは煉瓦建ての立派な幼稚園は、その近くに建てられた淡水小学校が、1920年代に淡水女学校と淡水女子公学校の間に移設された後に淡水小学校の付属幼稚園となり、1938年頃に、残されていた小学校の旧校舎に移転したのではないかと推察している。
そういえば、幼稚園の写真に写っている陳秀英先生が公学校の写真にも写っていた。

また、例の手書き地図には海水浴場のほかに、海水浴場という表示が見える。
淡水海水浴場は台湾で初めて設営された海水浴場であるが、和樂園のあった海水浴場の前に外海に面した砂浜に設けられたことがあるのだろうか?
戦後、父が訪れたときに撮影した海水浴場は、その辺りかもしれない。

私は引き揚げの時、未就学だったのでよく判らないが、当時の公学校、小学校に通った人でこのあたりの事情を憶えている人が居れば教えて戴きたいものである。


2012年08月17日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水海水浴場

TansuiKaisuiyokujo_1.jpg

祖母は幼い母を連れて、淡水街営の海水浴場「和樂園」を管理していた伯母の浅野タツのところに寄寓した。

ゴルフ場と同じように台湾で初めての海水浴場の施設であった。
シーズンには鉄道の淡水線の割引切符が発行されたり、停車場から海水浴場へのバスも増発されたりしていたという。

小学校も公学校もよく利用していたそうである。

公学校の1939(昭和14)年3月卒業のアルバムにも写真が載っている。

kaisuiyokujo_1.jpg

父もメモに海水浴場に連れて行ったことを書き残している。
「(前略)夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが3匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。(後略)」

運動帽もひよこの海水着も海水浴場の忘れ物であった。

kaisuigi_1.jpg

カリフォルニアからLCさんも写真を届けてくれた。

Kaisuiyokujoh_LC_1.jpg

「淡水海水浴の和樂園へは幼稚園、公学校の頃、度々行っていましたから、記憶は鮮明です。
日本座敷は無論畳敷きで障子を開ければ板の縁側、縁側から飛び降りると、砂原で太陽に焼けた熱い浜辺を海に向かって駈けて行きます。
頭を上げて真向かいを見ると観音山です。添付の写真参照。
ですから和樂園のあった所は間違いなく淡水川の出口で、燈台の横、今は漁人碼頭になった海水浴場です。
スケッチの旧海水浴はシナ海に面した方面で観音山は見えません。
行き慣れた海水浴場が新海水浴場で、その前に旧海水浴場があったとは初めて知りました。」
と教えて貰った。

fishermanswhaf_1.jpg

漁人碼頭は、漁港とマリンレジャー兼用施設として戦後整備されたものである。
(大戦末期には演習場や射爆場に使われていたため荒れ果てていた)

Kaisuiyokujoh_1.jpg

この写真は戦後、父が初めて訪台したときの写真である。

当時未だ漁人碼頭は整備されていないので、一時的に外海(台湾海峡側)に設けられていたのであろうか?

ゲートが設けられているが、海浜遊園地みたいなものであろう。

2012年08月18日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

戦前の新店街と現在の写真

Tansui.jpg

戦前の淡水の街並みである。

両親は私が生まれる前、臺湾臺北州淡水郡淡水街字新店三十七番地にあった塩屋の黒川さん宅の二階に住んでいた。
写真の右手前に塩など専売品を扱っていた標識が見えるのがそれで、ベランダの見える二階を借りていた。

それから79年あまり経った今でもこの辺りは当時の建物が残っている。

Tansui_9.jpg

これは昨日送って貰った同じ場所の写真である。

2010年12月に臺北県は直轄市に格上げになったので、新しい住居表示は新北市淡水區中正路148号となり、現在は許明祥命相館になっている。

筋向かいには淡水信用合作社や三協成の菓子屋がそのままにある。

1895年の人口調査で淡水の人口は6千人余と記録されているが、合併されて出来た新北市の人口は4百万近い。
大きな街になったものである。


2012年08月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

颱風14号

Kannonzan1208%2014_2.jpg

台湾には今月初めに颱風9号が襲来し、少なからざる被害を被った。

さらに今週、颱風14号が台湾南方のバシー海峡に居座っており居り、台湾はまた雨雲に覆われている。

上掲の写真は、淡水のCさんから送られてきたものである。

TansuiRiver1208_14_1.jpg

これはそのときに同時に送られてきた淡水河岸緑地の様子である。

最近、淡水が近くなったようで大変喜んでいる。


2012年08月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

1960年ころの中正路

KID2.jpg

カリフォルニアUSAのLCさんから写真を送って貰った。

当時 下町の繁華街、中正路はまだ両方通行であったという。

油車口の方に向かってノッソリ、ノッソリ歩む牛車に放課後のイタズラ小僧がぶら下がっている古き良き時代の画像である。

ドンゴロスの袋の中身は何だろう?

LCさん、ありがとうございます。

2012年08月28日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

「淡水の雨」

RAIN.jpg

カリフォルニアのLCさんから写真が届いた。

「淡水はよく雨が降る。長い冬に、しとしと小雨が何日も続く。
ときには何週間も降り続くから憂鬱になる。
北米ワシントン州の海岸街、日本人に人気のあるシアトルでも同じようにしとしと雨が降り続く。住民はその憂鬱を晴らすためにコーヒーを飲む。
だから、ここカリフォルニアの大学街バークレーで誕生したグルメコーヒーがシアトルで爆発的に飲まれ、魚市場付近で開業した無名のちっぽけなコーヒー店、スターバックが瞬く間に伸びに伸びて世界中のコーヒー市場を席巻した。
淡水の街も年に何度か土砂降りに見舞われて、何から何まで奇麗サッパリ洗濯される。

写真を撮り始めた頃の一枚で、当時参加していた台北市撮影学会の佳作に初めて入選した。
月に一度の展覧で、生まれて初めて自分の作品が新聞に印刷されたので有頂天だった。
今にして見れば他愛ない新米のスナップ、選考委員が初心者を励ますために推薦した可能性が高い。
牛車と同じく中正路の公共市場付近で撮った1950年代の一枚である。」

と書いて寄越してくれたが、なかなかどうして良い雰囲気を醸し出している。


About 2012年08月

2012年08月にブログ「淡水」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2012年07月です。

次のアーカイブは2012年09月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。