龍目井界隈
両親が結婚した当初(1939年)は公会堂の裏にあたる淡水小学校や女子公学校近くの宿舎に新居を構えたらしい。
その後、間もなく新店街で塩屋を営んでいた黒川さんの2階を借りて住んでいた。
3間あり、広廊下あり、ベランダありでとても住みやすい家であったという。
お産が近くなって、祖母が管理人をして食堂や仕出しを営業していた公会堂に移った。
そこで私が生まれた。昭和15年は皇紀紀元2千6百年であり、その紀元節の前夜であった。
産婆さんは市川ヲコさんであった。
資生堂の広瀬さんや公学校長夫人の松田サトさんなどもお祝いに来てくれた。
大事に育てられ過ぎたのか、よく医師の李樹林にお世話になった。
翌年、祖母は公会堂の管理人(街の嘱託)をやめ、丹羽先生が転勤で空いた龍目井の家に移った。
玄関は郵便局に近い路地を入ったところで竜舌蘭や虎の尾が植えてある家であった。裏口は同僚の安武先生の家の裏口に通じていた。窓側に掛樋を掛け、縁先に四角い水槽を据えて金魚を飼っていたという。
妹の恭子は龍目井で生まれた。大東亜戦争開戦1周年記念日であった。
1943(昭和18)年の春、父が三芝公学校に転勤になったので龍目井に住んでいたのは長い期間ではなかった。
龍目井は淡水街でも古くから家の建ち並んでいたところである。
海水浴場や、旧砲台淡水神社のある油車口から来た河岸道路と淡水駅から来た舗装道路が交わるところで、ここで道路が微妙に方向を変えており、そこに小さな三角のスペースが出来ていた。
この写真は大正から昭和初期の写真であると思われるが、左手前で河口から来た路が左斜めに曲がってその両側に出来た空所に木が立っているのが判る。
その後、この両側の小さい三角形の地に低い木柵を作って、ここを小公園と呼んでいた。現在、マッカイ博士の頭像のあるロータリーである。
我が家の入り口は、その小公園を郵便局(河口側)の方によった路地にあったが、その路地を出たところに散髪屋があった。ここは戦後も営業していた。
裏口で通じている安武先生の家はこの小公園に面していた。
そしてその斜め向かいの興亜医院で、ボストンの博士は生まれている。
これはご母親に抱かれて鄭医師と撮影された幼子の頃の博士の写真である。
新店街で黒川さんが塩屋を営んでいた建屋は、改装/補修されならが現在も残っており、信用組合の楊さんが写真で様子を知られてくれるが、龍目井の辺りの建物は興亜医院を含め、すっかり変わっている。
この写真は、2010年9月29日に、ボストンの博士と、横浜のKGさんと現地で合流し、当時の鎮公所を表敬訪問したあと、孫さんに案内して貰ったときのものである。
孫さんは青いテントの張ってあるペットショップのあるところが我が家のあとであると教えてくれたが、幼い記憶によればその向こうに見える十三行の看板の辺りを入った路地のような気がする。
安武先生の住んでいた家は小公園に面していたから、書士事務所かその隣の食物屋か陶笛屋の建っている辺りであった筈である。
いずれにしてもこの辺りはすっかり建て替わり、小路も付け替わっているので特定することは出来ない。
龍目井のロータリーからはすぐ河岸に出ることが出来る。
陶笛屋さんの横の道から淡水河の河岸道路が見える。
こんな小さな道でも舗装されており、LPGボンベを3つくらい載せたバイクが飛び出してくるから油断は出来ない。
この近くには日本産の米も売っていた米穀商、伊良波もあった。