昨日の「漁人碼頭的戰爭」に思いも掛けない写真が載っていた。
当時の淡水街新店の街並みを駅の方向から撮ったものである。
緩やかに曲がるその街の右手前の商店は塩を商う黒川さんの店である。
「塩」、「煙草」、「酒」など当時専売制であった扱い品のパネルが見える。
父と母が結婚して住んだのは、この黒川さんの二階であった。
父のメモには
「最初、黒川さんの二階に住んでいたが三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住みやすい家であった」とある。
お産が近くなって公会堂に身を寄せて、そこで生まれたが出生届は標記住所で届けられた。
産婆さんは市川ヲコさんであった。
メモは
「暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこに移った。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。窓側に掛樋をかけ、縁先に四角な水槽を据えて金魚を飼っていた。
当時ばあちゃんは、公会堂管理人として街役場の嘱託で、かたわら宴会、会合などの仕出しをやり、板場や本島人の仲居さんも居たし、なかなか羽振りが良く、交際も広く、気前もよし、元気の良い『公会堂の小母さん』で通っていた。
赤ちゃんが生まれて、抱きかかえられるようになるのを待ちかねて、方々へ抱え歩いては自慢して廻った。戦争の初期で街は生き生きしていた。軍人にも顔が広く、有名な『兵隊小母さん』でもあった。
遊んで廻るようになった。大きな機関車や、尻尾にセルロイドの二枚羽根を付けた金属製の飛行船があった。夏になると浅野のおばあちゃんの居る海水浴場に、自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。自転車で行くのであるが、帰りはきまって油車口か、淡水神社の辺りまで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。在る日、部屋の中ではしゃいでいて、応接台の角にこめかみを打ちつけて、肉が切れたので、慌てて李樹林のところに連れて行ったら、小さなかすがい見たようなものでカチンと縫い合わせた。泣くだろうと思っていたが泣かなかった。
母親が知らぬ間に、バナナを皮ごと食べて、ひまし油を飲ませ大騒ぎしたのもこの頃である。
虫類が好きであった。あるとき『とんぼに口があるの』と母親に尋ねた。面倒臭いので『無いよ』と答えたらしいが、やがて大きな声で泣き出した。『とんぼに口があった』と言う。トンボをいじって居るうちに指先を噛まれたのである。
私が勤めて居た公学校へ、母親と弁当をもって来るようになった。その日は一人で来たのだろう。職員室と教室との間に池があるが、これにはまって、女教員の陳氏速英、看護婦の李氏抱に引き上げられ、毛布に包んで、連れ帰って貰ったことがある。」と続く。
このメモは謄写版刷りの原稿用紙に、母の字でペン書きされ、広島県点字図書館の封筒に入れてある。
1971(昭和46)年頃、母は点字講習に通っていたので、戦後の混乱期を乗り切り、父が瑞穂工業を設立したころのものと思われる。
両親が残してくれたものである。
ウェブページ「漁人碼頭的戰爭」に掲載されたこの写真を見ると、新店街の道路は拡幅され、舗装されて歩道も整備されている。
当時の日本内地より随分進んでいたことが偲ばれる。
それにしても、本当に良い写真を提供して貰ったと喜んでいる。