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2012年04月 アーカイブ

2012年04月01日

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会誌「日台共栄」到来

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日本李登輝友の会誌「日台共栄」が郵送されてきた。

2012年4月号(通巻30号)である。

台湾元総統、李登輝博士の「友の会の皆様へ」、それに昨年3月11日と同27日の激励の言葉も掲載されている。

昨年の暮れに奥多摩で実施された台湾出身戦没者慰霊祭のことも写真入りで掲載されている。

「友の会」は創設以来10年経過したが、その一員として更なる発展を願うものである。

2012年04月02日

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淡水街淡水字新店参拾七番地

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昨日の「漁人碼頭的戰爭」に思いも掛けない写真が載っていた。

当時の淡水街新店の街並みを駅の方向から撮ったものである。

緩やかに曲がるその街の右手前の商店は塩を商う黒川さんの店である。
「塩」、「煙草」、「酒」など当時専売制であった扱い品のパネルが見える。

父と母が結婚して住んだのは、この黒川さんの二階であった。
父のメモには
「最初、黒川さんの二階に住んでいたが三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住みやすい家であった」とある。

お産が近くなって公会堂に身を寄せて、そこで生まれたが出生届は標記住所で届けられた。
産婆さんは市川ヲコさんであった。

メモは
「暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこに移った。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。窓側に掛樋をかけ、縁先に四角な水槽を据えて金魚を飼っていた。
当時ばあちゃんは、公会堂管理人として街役場の嘱託で、かたわら宴会、会合などの仕出しをやり、板場や本島人の仲居さんも居たし、なかなか羽振りが良く、交際も広く、気前もよし、元気の良い『公会堂の小母さん』で通っていた。
赤ちゃんが生まれて、抱きかかえられるようになるのを待ちかねて、方々へ抱え歩いては自慢して廻った。戦争の初期で街は生き生きしていた。軍人にも顔が広く、有名な『兵隊小母さん』でもあった。
遊んで廻るようになった。大きな機関車や、尻尾にセルロイドの二枚羽根を付けた金属製の飛行船があった。夏になると浅野のおばあちゃんの居る海水浴場に、自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。自転車で行くのであるが、帰りはきまって油車口か、淡水神社の辺りまで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。在る日、部屋の中ではしゃいでいて、応接台の角にこめかみを打ちつけて、肉が切れたので、慌てて李樹林のところに連れて行ったら、小さなかすがい見たようなものでカチンと縫い合わせた。泣くだろうと思っていたが泣かなかった。
母親が知らぬ間に、バナナを皮ごと食べて、ひまし油を飲ませ大騒ぎしたのもこの頃である。
虫類が好きであった。あるとき『とんぼに口があるの』と母親に尋ねた。面倒臭いので『無いよ』と答えたらしいが、やがて大きな声で泣き出した。『とんぼに口があった』と言う。トンボをいじって居るうちに指先を噛まれたのである。
私が勤めて居た公学校へ、母親と弁当をもって来るようになった。その日は一人で来たのだろう。職員室と教室との間に池があるが、これにはまって、女教員の陳氏速英、看護婦の李氏抱に引き上げられ、毛布に包んで、連れ帰って貰ったことがある。」と続く。

このメモは謄写版刷りの原稿用紙に、母の字でペン書きされ、広島県点字図書館の封筒に入れてある。
1971(昭和46)年頃、母は点字講習に通っていたので、戦後の混乱期を乗り切り、父が瑞穂工業を設立したころのものと思われる。
両親が残してくれたものである。

ウェブページ「漁人碼頭的戰爭」に掲載されたこの写真を見ると、新店街の道路は拡幅され、舗装されて歩道も整備されている。
当時の日本内地より随分進んでいたことが偲ばれる。
それにしても、本当に良い写真を提供して貰ったと喜んでいる。

2012年04月03日

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マンゴー

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台湾のガイドブックに、マンゴーはかき氷のトッピングとして紹介されていることが多い。

無論、かき氷にのせて食べても構わないのだが、マンゴーはフルーツとして食べたいのもである。

トロピカルフルーツに共通して言えることであるが、現地で熟れたもぎたてを食べるのが一番である。

国内でも、宮崎県や沖縄産のものを見かけることがあるが、輸送されてきたものは熟れる前に収穫したものであり、現地で収穫したものを食べるに越したことはない。

2012年04月04日

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淡水、わが故郷

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私の故郷は淡水である。
つくづく、そう思った。

本籍地でもあり、小学校に入学したときに居た唐津市の浜崎も故郷と思ったこともある。しかし、そこは父にとっては故郷に違いないが、私にとっての故郷は淡水である。
小学校の低学年から住み続けている広島も故郷と言えなくもないが、やはり広島は現住所という位置づけである。
結局、この歳まで広島弁は身についていない。

淡水に居たのは6歳までであり、当時の記憶もさだかではないがやはり故郷は淡水である。

街並みも整備され、当時ランドマークであった建物の多くは解体され、道路も拡幅されたが、ちょっと路地に入ると当時の街路がそのまま残っている。

それに、当時の淡水街は新北市淡水区になったが古蹟の保存や整備が整備保存されている。

最近、当時の写真に出会った。
初めて見るのに懐かしく、提供元にお礼のメールをすると、淡水に来るのは何時かと返事を貰った。

下松のMさんに早速電話した。
彼女も淡水を故郷と思っていると確信した。

2012年04月05日

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木下静涯記念公園

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ボストンの博士から淡水の写真を送って貰った。

その中に、最近整備された木下静涯画伯の記念公園の写真がある。

小公園の近くであるが、当時は狭い坂や石段を登って行くところであった。
入り口には手摺りのついた傾斜の緩い階段も新たに設けられている。


2012年04月06日

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父のメモ

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父のノートの一部である。

街役場の右(駅の方向)にある「荒」とは本願寺があったところであろう。
住職の名前は荒操天と言った。

街役場の左にある「多田」さんは文房具店で、曽城という番頭さんがいた。
少し離れて黒川さんの営んでいた塩屋さんが描いてある。
「鬼頭」とあるのは鬼頭亀吉さんの営んでいた雑貨店、鬼頭商会である。

その横の「広瀬」は雑貨商、資生堂の広瀬 信さんである。

「谷」とあるのは陸軍少尉、谷 善次さんで、「庄」と書いているのは酒屋の庄 信雄さんである。

その左に「公園」とあるは三角公園あるいは小公園と呼ばれていたロータリーである。

「谷」「庄」「広瀬」の上に「木下」とあるのは木下静涯画伯であり、その上に「公会堂(原田)」とあるのは、このメモを書いて行くうちに相対位置がずれたものである。

「淡水女子公」は無論、女子公学校のことで、「小石」は校長であった小石光彦先生である。

その横の「淡水小」は小学校で「松田」は松田常己校長である。
その傍に「有坂」という文字が二箇所見えるが、淡水中学の有坂一世校長で、おそらく外人墓地の左に見える「淡中」の構内に官舎があったのかもしれない。

「粟井」、「関口」に隣接して描いてある「野島」氏は、雑貨商「東洋館」を営んでいた。
その傍に淡水の土地や建物を所有していた「中野」金太郎氏の名も見える。

「郡役所」の脇に「狩野」とあるのは、当時郡守であった。
「伊藤」と書いてあるのは台銀淡水支店長の伊藤勝太郎氏である。

「神学校」のそばの「三原」は、淡水公学校(淡水東国民学校)教頭であった三原宝映先生である。
「木村」とあるのはパイロットの木村氏であろう。

淡水神社の「小笠原」は小笠原清禧宮司である。

2012年04月07日

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櫻の頃

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夕刻は肌寒いが櫻の季節になった。

今日も職場の仲間で夜櫻を楽しんでいる人達も居るであろう。

新入社員に場所取りをさせて、勤務のあとで花見をする風習があるが、私にはあまりにも寒いので抜け出して、公園の喫茶店で熱い珈琲を飲んだ記憶がある。

挿絵は、櫻の咲く頃の京都清水寺の能舞台を描いた父の描いた色紙である。

父は書も絵も上手かったが、私はどちらも不得手である。

2012年04月08日

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父の訪れた公会堂跡

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この写真は1985年頃、戦後初めて淡水に戻った父がポラロイドカメラで撮った公会堂跡(現、淡水文化センター)である。

淡水公会堂は戦後、細かく仕切られて空軍の気象観測班などが住んでいたが、漏電のため出火し炎上してしまった。

その跡地はしばらく、幽霊屋敷の様な状態で放置され、子供の遊び場になっていたという。

この写真は文化センターの建物が建っているが、石垣などは雑草が伸び放題である。

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こちらは私が2009年に撮影したもので、石垣の上の障壁はコンクリート製になり安全のために白く塗られており、石垣には児童の描いた絵が描画されている。

この石垣と、それに沿った坂道は長老派のキリスト教会とともに昔のままである。

2012年04月09日

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父の書

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父はよく色紙を書いていた。

画は淡彩画で、風景をよく描いていた。
家の近くも描いていたし、旅先でもよく写生をしていた。
何時もスケッチブックを携えて家族でドライブに行っても、5分程度で素描をし、帰ってから改めて色紙に描いていた。
若い頃から書も淡彩画も自己流で描いていたが、1984(昭和59)年、父が72歳のときに初めて街の文化センターの教室に通った。
風景画のほかは、花をよく描いていた。
これは、その時に水彩画の教室で画材に花を描くことが多かったからである。
人物画は描いたことがない。

文化センターでは書の教室にも短期間行っていたが、その先生は前衛的な書家であった。引き揚げ以来、初めて台湾に行ったのは書の仲間で故宮博物院に行こうと誘われたからである。
そのとき、淡水公学校の教え子が桃園の中正国際空港まで迎えに来てくれて、故宮博物院に行った後、書の仲間と別れて淡水に行き、陳淑女校長も含め歓迎の祝宴に出ている。

書は漢詩も多いが、一文字あるいは二文字も沢山書いていた。

上の色紙はその中の一枚である。

落款印も唐津の教え子の一人が彫ってくれたものである。

2012年04月10日

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三協成のパンフレットに載っていた

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このたび、ウェブページ「漁人碼頭的戰爭」に載っていた新店街の写真に塩や煙草、酒など専売品を扱っていた黒川商店が写っていた。

この写真は初めて見たものだと思っていたが、菓子の老舗「三協成」のパンフレットに載っていたことに気がついた。

赤丸印は「三協成」の店舗である。


2012年04月11日

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臺北市榮町通り

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1946年まで臺北に住んでいた加藤壽子さんが思い出を辿りながら描いたり直したりした博物館前の通りの商店街の配置図である。

当初の台北駅正面の通りであったが、再建された台北駅が移動したため一筋違っているが当時台北でも菊元デパートもある繁華街であった。

当時のことを良く憶えている方に教えて貰って、殆ど知らなかった戦前の淡水のことが少し判って来た。


2012年04月12日

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淡水河・淡水線

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加藤壽子さんが1993年に描いた「旧台北イラストマップ:古老的台北地圖」の淡水河口周辺を切り出してみた。

鉄道の淡水線は、北投の外れから江頭(関渡)、竹圍、淡水駅が青文字で書かれており、淡水の街には英国領事館のほか、海水浴場を示す三角旗や中洲、それに戎克が描かれている。

LCさんによると、淡水線は蒸気機関車の曳く4両編成で運行され、利用客の少ない時間帯にはガソリンカーが走行していたと言う。

淡水河は川幅が広いことと、台北の大稲逞や(萬華)までジャンクが遡るので橋は架けられていなかった。

2012年04月13日

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「旧台北イラストマップ:古老的台北市地圖」

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昨日、一昨日、それに先月20日に本欄に掲載した臺北鳥瞰図は、1993(平成5)年に加藤壽子さんの描いたものを東京の(株)グラフィックアーツが発行したものである。
加藤壽子さんは1929年に台南に台湾銀行員の子として生を受け、1935年から1946年まで台北に住んでいた女流画家である。

臺北師範学校の附属小学校、臺北第一高等女学校を卒業し、千葉市稲毛区に住む日本美術家連盟の会員である。

1935(昭和10)年の臺北博覧会のガイドマップを参照して描いたものである(下図参照)。

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臺北駅から新公園に向かう榮町通りの商店街図も彼女が描き、初版発行後に一部改訂されている。

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このイラストマップは2004年8月に一緒に淡水帰ったときに福田マキ子さんから貰ったものである。


2012年04月24日

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父のこと(1:出生から中學入学まで)

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父のことを少し書いてみようと思う。

父は1912(明治45)年3月24日に本籍地の浜崎で生まれた。

佐賀県東松浦郡浜崎村である。

万葉集にも詠まれている鏡山と玉島川の間の半農半漁の村であった。

日本三大松原の一つ、全長5キロメートルの虹の松原の東にあり、松原の西には龍造寺氏の治める唐津藩の城下町である唐津町があった。
明治維新のとき廃藩置県にともない唐津県となったが、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県とめまぐるしい変遷ののち佐賀県が長崎県から独立した。
唐津は1889(明治22)年の町村制施行で唐津町となったが、1932(昭和7)年に周辺の村を合併し、唐津市となった。

浜崎村は1922(大正11)年に町となり、1956(昭和31)年に玉島村と合併して浜崎玉島町となり、1966(昭和41)年に浜玉町(はまたまちょう)となり、2005(平成17)年に唐津市に合併された。
本籍地の住所表記は浜玉町(はまたままち)浜崎である。

祖父は廣川慶太郎、祖母は肥前の松浦寅太郎の長女里勢(リセ)であり、長男 浚治、長女 壽賀(スガ)、次女 敏(トシ)がいたので父は次男であった。
平成3年に刊行された浜玉町史(資料編)によれば、藩政期に桝屋という醸造業を営んでいたらしい(廣川利兵衛)が、半右衛門の代に廃業し、理兵衛、半右衛門、喜兵衛のあとを次いだのが慶太郎である。

その春、浜崎から山中に入った七山村の池原に出来た小学校長に赴任するため、4月に父の宮参りを済ませた翌日、一家で移転した。慶太郎38歳、里勢30歳であった。

俳句を嗜んでいた浚治伯父は「児を入れて畚(フゴ)の片荷や 山桜」という句を詠んでいる。

校長兼住み込みの小使いさんのようで、大きくもない校舎を逃げ回る父を祖母が箒を振り上げて追いかけたことがあると、父が笑いながら話してくれたことがある。

その2年後の1914(大正3)年2月に櫻島が大爆発し大隅半島と陸続きになり、第一次大戦が勃発し日本は青島のドイツ軍を攻撃した。

1918(大正7)年、父は池原小学校に入学したが、1923(大正12)年4月に玉島小学校に転校した。
翌年唐津中学校入学を控えて祖父が玉島村の玉島小学校に通わせたのだろうと思っている。

父の下に、妹 田鶴と弟 功が生まれたが二人とも幼くして亡くなった。

1924(大正13)年4月に唐津中学校に入学し、虹の松原を自転車で通学した。


2012年04月26日

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戦前の家並みがそのまま

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上の写真は今月2日の本欄に載せたものである。

そして10日に菓子老舗の三協成のパンフレットに同じ写真が載っていたことを載せた。
すると、淡水から「当時の建物は70年近く経った今でもそのままです。」とメールを貰った。

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これがその写真である。

黒川さんの営業していた塩屋の建物も、その向こうもさらにその向こうも当時の建物そのものである。

2軒建てであった建物はその上に3階が増築されている。

メールには現在の住居表示まで載せてあった。

これもインターネットのお陰と皆さんに感謝する次第である。


2012年04月28日

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父のこと(2:佐賀師範を卒業して)

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佐賀県立唐津中学校を卒業した1929(昭和4)年の春、佐賀県師範学校の本科に入学し、翌年5月に小学校本科正教員の免許を受け、佐賀県東松浦郡横田尋常小学校の訓導として赴任した。

横田は浜崎に隣接し、鏡山麓の集落で、浜崎から通勤できる距離である。
横田尋常小学校は1935(昭和10)年に浜崎尋常小学校と合併し、9月30日付けで父は必然的に浜崎尋常/高等小学校訓導に補せられた。

私が1946(昭和21)年4月に浜崎小学校に入学したときの担任、宮崎 操先生はこの頃の父の教え子であった。

翌年3月31日付けで東松浦郡湊尋常/高等学校訓導に転勤辞令を受けた。

湊というのは今は唐津市に合併されたが、唐津から豊臣秀吉が朝鮮へ出陣する際に出城を構えた名護屋や、海産物の出店で知られている呼子の方へつながる海岸線に沿った港町で、神集島への渡船場のような辺鄙な村であった。

唐津湾の西岸に沿って10キロメートルほど行くと、湾口に神集島という小さな島がある。
陸から見た島の形は台形で、神功皇后が新羅出兵の際、ここで儀式が行われたという伝説があり、万葉の歌碑もある。
第2種漁港があり、湊港からは10分の距離である。

その手前の集落が湊で、ここから海岸は玄界灘に直面する。
そこには立神岩という奇岩が立っており、この辺り一帯はサーフボード乗りのメッカのようになっている。

そこからさらに先に進むと2、3キロメートル先に波で浸食された七ツ釜があり、観光船で海から入ることが出来る。
海岸線をさらに進むと観光客の多い呼子の漁村がある。
先端まで行くと海中展望塔もある。
この辺りで、スルメイカやサザエを焼いて貰って喰うと美味い。

そこから漁港を越えて西に行くと名護屋城趾のある鎮西町に入る。
「太閤が睨みし海の霞かな。月斗」と刻まれた石碑もあり、周辺には徳川家康、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政、加藤清正らが陣を構えていた陣跡が残されている。

そこからさらに西に行くと玄海町の玄海原子力発電所がある。

当時の湊は田舎の分教場のような小学校であったに違いない。
そこに一年ほど勤務したあと、台北州庁に勤めていた吉森八郎氏を頼って門司港から渡台した。

祖父だけでなく伯父も伯母も教員をしていたのであるが、次男であることから何れは何処かに出なくてはならないと考えていたのであろう。
当時、父は25歳であった。


2012年04月29日

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伊藤 潔著「台湾」

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中公新書「台湾」(1993年8月初版、2012年3月代8刷)が届いた。

第1章ではオランダ支配下、第2章では鄭氏政権下、第3章で清国の台湾領有、第4章は台湾民主国、第5章〜第7章は日本統治下、第8章は二・二八事件、第9章は国民党時代、第10章は奇跡の経済発展、第11章は急テンポの民主化と、序章を含めると12章から構成されている。

オランダがゼーランジャ城、プロビンシャ城を台南に築き、その後イスパニアが基隆にサンサルバドル要塞、滬尾にサンドミンゴ要塞を設営した頃から、現在の台北や淡水の発展の経緯が記されており興味深い。

新書なので概要を把握するには適切な文字数である。

個々の事項については周婉窈著「台湾の歴史」などを繙くことにしよう。


2012年04月30日

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三協成餅舗

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新北市淡水區中正路81號の「三協成」本舗である。

1935(昭和10)年に創業した菓子メーカーであるが、中文、日本文、英文、それに独文までPR紙を作っている。

三協成は、戦前、塩や酒、煙草など専売品を扱っていた塩屋の黒川さんの筋向かいにある。
黒川さんの居たところは中正路69・71號で、当時の建物は今も残っている。

淡水公学校で学んだ方の娘さんの仕事場もすぐ近くである。

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