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梶川病院(広島に住んで:14)

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文部科学省に提出する資料を作成するために、カリキュラムや授業科目、そのシラバスや必要な研究室など設備の計画も担当したが、とても充実した仕事であった。

そして、第一期生が入ってきて、新年度が始まった。

開講年に新学科(即、新学部)の教授会メンバーは5人であった。
そのほかの教授、助教授は当面、既設の学科に所属しており、2〜3年度で十数名にする計画である。
短大秘書科から長瀬教授が学科長になったほか、英語の松岡教授、情報の千葉教授、法学の水鳥助教授、それに私であった。
児童教育学科から引き続き、情報システム委員と学生部委員を担当した。
学生部委員で年度初めの比較的大きな行事に、新入生を歓迎し大学生活の始動を助勢するオリエンテーションセミナーがある。第一期生入学の時は児童教育学科の2年生がよく協力してくれた。
入学すると学科展が行われる。
オリエンテーションセミナーや学科展は、既設の学科では先輩から後輩に引き継がれるが新学部は学生部委員が駆け回ることもあった。

第一期生が無事に2年生になった初夏の頃、理事長室をノックし、辞意を表明した。
「理由は?」と訊かれて「おかげさまで丸十年勤めることが出来ました。お世話になりました。」と挨拶した。

夏休みが終わり、後期が始まった。
研究室のある6号館から新設された9号館に回廊を渡っていると、傍を通りかかった学生が「先生、大丈夫ですか?」という。「大丈夫。ありがとう」と答えたが、そういえば最近まっすぐ歩くのが少し難しいと思うことがあった。
6号館に戻っても、2回に上がる階段で千葉先生が脇を抱きかかえるようにしてくれる。
その翌週、ちょっと体調が思わしくないので電話で教務に休講を告げた。
その日の昼過ぎ、水鳥助教授が車で迎えに来た。
何処に行くのだろうと思ったら、中区昭和町の梶川病院の外来であった。
後で聞くと脳神経外科で地元では有名な病院であった。

2004(平成16)年10月26日であった。
初診ののち、診察室を出ると様々な検査が行われた。
おとぎ話を聞かせて、直後に「桃太郎は何処に行きましたか?」とか訊かれるのである。いま聞いた話をどこまで憶えているのかを問う質問にしてはもっと別の話の方が良いのではなかろうか?
これでは、話を聞かなくても常識でわかってしまう。
しかし、即日入院、翌日手術となった。
脳が随分偏っていた。
病名は慢性硬膜下血腫、手術は頭骨にコイン程度の孔を開け、液を出して正常に戻すのだそうだ。

私が休暇を取ったということを聞いて、千葉先生が病院に電話し、水鳥先生に移送を頼み、病院で水鳥先生はずっと付いていてくれた。
Jは一緒に来てくれた。
そして妹達に連絡してくれたので、恭子も由起もすぐ来てくれた。

娘は、もうずっと車椅子生活になると思ったと言っていた。
しかし、有難いことに11月2日に退院することが出来た。
恭子がおでんを煮て持ってきて呉れた。

11月3日は国民の休日(文化の日)であった。
午後、理髪店に行って、帰りに依頼していたスーツを受け取り、長崎屋でホタルイカや銘酒幻などを買って帰り、翌日には大学に退院の挨拶に行き、大学祭の「教職員の作品展」への出品を学生課に届けた。

入院している間、学科長の長瀬先生や学生部からも見舞いに来てくれて恐縮した。

特に千葉先生と水鳥先生になお世話になった。
命の恩人である。


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2012年03月16日 10:33に投稿されたエントリーのページです。

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