1994(平成6)年の4月から一年間、Y女子大学の非常勤講師を務め、翌年の春に同大学に移籍した。
新任と同時に児童教育学科1年3組の担任となった。
1組、2組は卒業時に小学校教員免状を取得できる児童教育コースであるが、3組は免状を取得できない情報教育コースであった。
その代わりにワードプロセッサソフトウェアや表計算ソフトを扱う、いわゆる情報リテラシーを越えた情報科学を教育することが出来た。
3、4年生を対象としたゼミナールも「情報科学ゼミ」とした。
コンピュータ・インターフェースや数値計算法、アルゴリズムなどもカリキュラムに組み込んだ。
情報教育コースの卒業生は卒業し就職してもよく頑張っていた。
客先に1人で出向き、簡単なトラブルなら対処できていたようである。
「システム・エンジニアと言っても、君はソフトウェア担当ではないのか?」と訊くと「小さな案件に、ハードウェア担当と二人がかりで対応するわけに行きませんから。」と笑っていた。
児童教育科だけに各分野の立派な教授陣が揃っていたが皆、新米の私も仲間扱いして貰えたことは有難かった。
私が大学に移籍した春、岩国にある家内の実家に建てていたシルバーレストラン「紙風船」が竣工した。
栄養士であり、調理師専修学校の教師を経験した家内が「お年寄りや病弱な人のための憩いの場になるレストランを創る」と言って重村建設に建設を依頼していたものである。
ホールはテーブルだけでなく畳に座れるスペースも考慮していた。
厨房は小さな料理教室が出来る程度に設備も整えた。
竣工して、お披露目の試食会も無事に終わり、5月に営業を開始することにした。
しかし、家内はその頃体調を崩し、広島から毎日通うことが出来なかったので、システムエンジニアとして就職していた娘が退職し、調理師さんと運営を続けることにした。
レストランまで来られないお年寄りには仕出し弁当を届けた。
岩国のローカル紙が取り上げてくれて、山口市にある民放のスタジオに行ったこともある。